0人が本棚に入れています
本棚に追加
おひさしぶり
最初、声の主を見ることができなかった。
声が聞こえたのは街灯の仄明かりなど容易く飲み込まんばかりの暗がりで、視界にはただ見慣れた夜の住宅街があるだけに見えたのだ。そうではないことに気付いたのは、数秒くらい暗闇を凝視した後のこと。
「こんばんは」
その少女は暗闇の中から現れたように見えた。
午後9時ちょっと過ぎ――塾とかに通っていたのなら決してありえなくはない時間だが、この少女からはそんな雰囲気を感じられなかった。具体的にどう感じたかを説明するのは難しいが、そういうものが合わないと感じたのだ。少女にはどこか、そういう超然とした雰囲気があった。
「えっと……どうしたのかな、君は?」
「ふふふ」
親しげな笑みと共に挨拶してきた少女だったが、困った……私はこの少女には見覚えがなかった。しかし少女はそんな私の困惑など歯牙にもかけずに笑いかけてくる。どこか含みのあるような笑みは心をざわつかせるものがあったが、それでも何故だろう、目が離せない。
今時本物では見かけないのではないかと思うほどにオーソドックスなセーラー服に身を包み、のっぺりとした夜闇に溶けてしまいそうな漆黒の髪。浮かび上がってくる雪のように白い肌は、夜だというのに眩しいくらいだ。そして細身ながらもどこか肉質が感じられ、普段見る成人して久しい同僚たちや妻からは見受けられないほどのハリがあるのが、ただ見ているだけでもわかった。
吸い寄せられる、視線を縫い止められる。焦りにも似た何かが身体の奥から込み上げて、自然と息が浅くなっていくのを自覚した。喉が乾く、目も乾く……くそ、なんなんだこれは、私はどうしたっていうんだ……!?
少女の微笑みは親しげにも、私を嘲笑うものにも見える。歩み寄ってくる彼女から目を逸らせず、歩みに合わせて揺れるスカートに目を奪われる。風のない穏やかさをここまで恨んだのは初めてかもしれない。そして何もできないうちに彼女はあと数センチくらいのところまで迫っていた。
間近で見た少女の肢体は、遠目で見ていたときに感じていた少女然とした雰囲気とはまた違う、艶やかさをも持って見えた。触れればきっとそれだけで全身を耐え難い官能が駆け巡るだろうことを容易に想像させる――その場の流れで妻以外の女と肌を重ねたこともないとは言わないが、それでも少女の肢体は、そうして出会ってきた女たちが霞んでしまうほどに蠱惑的だった。
そんな少女が――幼くも見えるのにあまりにも“女”と形容せざるを得ない、男が一度見てしまえば決して忘れることなどできるわけもないと思えてならない少女が、私にこう微笑んだのだ。
「お久しぶり♪」
夜闇にも紛れぬ輝きを放つ、桜色の唇に目を吸い寄せられる。とうとう私に少しだけ触れてしまった、柔らかく熱を帯びて、沈み込むような包容力とハリとを両立した肌。
一瞬にして、全身を血液が駆け巡るのを感じた。
すぐそばまで迫ったこの少女の放つ色香に抗える男などきっといない。ファム・ファタル、傾城、傾国――古来より危険ななにかを帯びた女には様々な呼び名が付けられてきたというが、この少女はそのどれに当たるだろう?
そう思案する頃には、外に出た目的などすっかり忘れてしまっていた。
最初のコメントを投稿しよう!