こんばんは

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こんばんは

 決して短くない年月連れ添った妻から三行半を突きつけられたのは、下の娘が恋人との同棲だとかいって家を出ていった数日後だった。定年退職を間近に、老後どうやって過ごすかとふたりで話してもいいかも知れないと思い始めた矢先に妻から渡された離婚届は、あと私の名前が書かれるのを待っているようだった。 『紗綾(さあや)がうちを出るまでは一緒にいるつもりだったけど、これでもう終わりね』  そう言ったきり妻は部屋に戻り、ドアを叩こうが怒鳴り散らそうが出てくることはなかった――どうやら猶予などは与えてくれそうになさそうだった。そして私の返事など待つことなく、恐らく私が考え疲れて眠ってしまったところを見計らって、家を出ていってしまった。どこへ行くというのだろう、もう彼女の実家は義両親の死から程なくして取り壊して、土地ごと売ってしまったというのに。  あれとは昔から反りが合わなかった――まず頭を下げて頼んでも快く金をくれたことなどなかった。小遣いは残っていないのかなど尋ねてきたが、残っていれば金をくれなどと言うわけがない。それでも押せば最終的にはいくらかくれたが、そんなのも飲み屋数件も回ってしまえば尽きるくらいの額だ、まったく物わかりの悪い女である。他にも私が(くつろ)いでいるすぐ横でドタバタと必要以上の音をたてながらこれ見よがしに洗濯物を干したり、聞こえよがしな溜息をついてきたり、出先でもどうにも歩幅が合わず少し待つ羽目になったり……思い返すとよくこれまで一緒にやってきたものだと我ながら感心してしまう。  しかしいいところがないといえば嘘になる。溜息こそつくが家事は毎日するし、娘たちの面倒もよく見ていたようだった。休み時には私が休んでいたいのを察してかふたりを連れ出してひとりの時間をくれることもあった。余計な口も挟まず、私が仕事のことだけに集中していられるようにしてくれていたのも、紛れもなく妻だった。私自身もそんな彼女への感謝を示すべくいい食材を買ってやったり風呂に入浴剤を入れてやったりしたものだったが……改めて、彼女と過ごした年月を振り返る。  何が妻をそうさせたのだろう? 思い当たるところはまるでないが、終わりを前にして突然行く先がが暗くなってしまったように感じた。  妻とは、夜になっても連絡が付かなかった。  さすがに空腹に耐えかねたが、どうやら夕飯の支度などされていないようだった。出て行くにしても夕飯くらい作れと文句を言おうにも、本人がどこにもいないのでは仕方がない。  最後に炊事をしたのもずいぶん前のことだ、どうにも不確かな記憶に頼って食材をゴミにするよりは何か買った方が今は手っ取り早い。そういうのも妻の仕事だったのだが、いないものは仕方がない。  蒸し暑い夜だった。  湿った熱気が肌にまとわりつき、立っているだけで汗が垂れる。やはりこういうときこそ妻にいてほしかった、という無駄なぼやきを噛み殺しながら近くのコンビニに向けて歩きだしたときだった。 「こんばんは」  ひどく涼やかな声が、夜道の暗がりから聞こえてきた。  
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