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「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
ゴブレット型のグラスの中で綺麗な赤茶色の紅茶が揺れている。鼻腔を刺激する香ばしさと共にひと口含めば、ほのかな渋味と隠れた甘味が後を追う。諒は甘いものが好きだが、紅茶はいつもストレート一択だった。甘味のお供には珈琲も良いが、一息つく時の紅茶は心を穏やかにしてくれる。
夏季休業の数日前、問題や心配事も片付いて諒が訪れたのは、偶然発見してから通うようになった喫茶店〝R〟だった。
来る度に必ず居るのはカウンターの向こうの男性従業員、時任睦月である。
空気を含んで柔らかそうな茶髪に男にしては大きい目で、自由気ままに少しミステリアスな雰囲気はあるが気さくな性格で、諒が初めて来た時から良くしてもらっていた。
諒が〝R〟に通う理由は従業員の人柄の良さもあるけれど、他の従業員はもちろん、特に店主の造るケーキは見た目から味の全てにおいてが諒の好みにハマるほどの秀作なのである。試作品の味見役や暇潰しで造ったものをいつもタダで食べさせてくれるので、諒にとってまさに天国。特別優遇に弱い人間の強欲すら満たされていた。
最初こそ申し訳ないからと断って料金を払おうとしたものの、商品じゃないからと店主に一刀両断されしまったので、せめてもの貢献として飲み物とお土産用の焼き菓子を必ず購入する事に決めている。
紅茶の風味に落ち着いた一息を吐くと、諒の前に四角く白い皿が静かに置かれた。
「今日はー、ちょっとシンプルにカップケーキを造ってみましたー」
「マジですか!」
じゃーん、と効果音を口にする睦月のお茶目な所がまた彼の人となりをミステリアスにする要素なのだが、何度か通ううちにそれも魅力の一つで違和感も消えていた。
それよりも、白い四角い皿に盛られた幾つかの小さなカップケーキに心が踊る。
カラフルなカップケーキは5つある。プレーン、抹茶、チョコ、イチゴと定番のフレーバーを説明する睦月の声と指先に釣られ、ひとつひとつに目が移る様を見ていた睦月は音もなく笑う。その気配に気付いていたが、そんな羞恥も欲には勝てない。
「んで、これは夏なのでレモンとオレンジね」
そう言いながら最後に指先が向いたカップケーキは鮮やかなオレンジ色で、上にスライスされたレモンが埋まっていた。
見た目の爽やかさと柑橘系の香りに、諒は自身の目の輝きを自覚するほどの昂りを感じた。
「すごい、かわいーけど綺麗」
「まじで?ありがとー」
カップケーキはひとつひとつに飾りつけがされている。プレーンはホイップクリーム、抹茶は小豆、チョコはホワイトチョコのソース、イチゴはスライスした苺。
洋菓子専門店にありそうな、二口くらいで食べられるような小さいケーキだった。しかしこれは此処でしか味わえない特別な存在でもある。
じっくりと作品を眺めるのは癖だった。諒はまず見た目と香りを楽しみ、それから初めて舌で味わうという一連の流れが決まっている。プレーンを手に取ると、ふんわりと柔らかいが弾力も感じられ、自然と頬が緩んだ。
口に含めばしっとりと溶けるような食感に、卵の風味にバター、ほのかなバニラの香りも感じられ、脂質の重さや甘さも強くない柔らかな味が口一杯に広がっていく。
水分を含んで溶けるので咀嚼が長続きしない。飲み込むのが勿体ないと思うほど、しかしまたそれを味わいたくてすぐに口に放りたい。
「いつ見ても美味しそうに食べるねえ」
「んぐ、…っ美味しいですから!」
鼻から抜ける息の香りすらも逃がさないように、視覚情報も閉ざさず、ケーキを見ながら味わう諒を見て、睦月が微笑みながら言った。
その言葉に諒が素直に意気込めば、今度は声を出して笑われたけれど、それは嫌みなものでもなく、とても居心地が良い。
時間を掛けて紅茶と共に味わいながら3つ目を手にした時、店の扉が開く鈴の音が聞こえた。
「あ、お帰りなさい」
「ただいま、睦月」
睦月の言葉に優しい返事をしたのは喫茶店〝R〟の従業員の一人である、日向千春だった。
声だけでも睦月に対してとてつもない甘さを感じるほどの態度であるが、この店の従業員は漏れ無く全員が睦月に甘いと諒は思っている。分かりやすい態度も声色もそうだが、そもそも雰囲気がいつも甘い。
「こんにちはー」
「こんにちは、久し振りだね」
諒の挨拶にも柔和な笑みを返した千春は、まるでどこかの少女漫画にでも出てくるような、モデルや俳優と言われても納得出来るほどの容姿と爽やかで優しげな雰囲気を持った大学生である。
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