ナポレオンと秘書

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 1789年からフランスではある劇薬が撒かれていた。蔓延していた貧民だけが罹る病気を治すためだ。皆が皆、貴族の血肉を欲した。私の家も他と同じように貧しく、生きていられるのが奇跡だった。4年後のある日、父が殺された。今は亡き王のために税金徴収にまわってたのをロベスピエール率いる左翼ジャコバン派に捕まり処刑台に送られたのだ。父に関わりのあるものはほぼ首と胴体が無慈悲にも切断された。革命裁判場の牢獄で刻々と死へのカウントダウンがなされる日々に怖くなって母に抱きつこうにも母は既に屍と化していた。窓際に捨てられた母の虚空を見つめる乾ききった目を見て短く叫んだ後、死に物狂いで牢から逃げ出した。走って走って、走り疲れて足が止まり、あとは死を待つばかりだった私を拾ってくれたのは後のナポレオン1世となる青年だった。彼は祖国コルシカ島の独立のため偶然にもフランスに訪れていたのだ。時が経ち久々に出会った時、彼は将軍に成り上がっていた。その時に頼み込み現在、私は彼の秘書をさせてもらっている。これは彼と私の日常を描いたものとなるだろう。 * 「ボンジュール! 諸君! 私のためによくぞ集まってくれたな! おっと……まだ自己紹介をしていなかったな! 我が名はナポレオン! 諸君、勝利は、もっとも忍耐強い人にもたらされる! ちなみに今日の睡眠時間は3.7時間だ!」  ここはフランス郊外のある講堂。壇上で馬鹿でかい声を発している男は私の主人だ。今日も今日とて相当うるさい。多分、初めて見る新人戦力に期待しているのだろう。それはそれでいいことだ……しかし。 「閣下! 恐れながらすこし申し上げたいことがあります!」 「うむ! 積極的なのはいいことだ! 言うが良い!」 「ありがたきお言葉! その……大変申し訳ありません、閣下! その睡眠時間はあまりにも短すぎます! 心臓病になるかも……」 「ん? 心臓病? そんなもの私には関係ない! 身長も低いだと? 男はやはり強さで測るものだぞ坊主。身長が高かろうが低かろうが関係ない! 私がそれでいいのだからな!」  ……この通り、彼は人の意見をしっかり聞かない男だ。そして、言われてもないことに逆上しかけるのも彼の常である。今にも相手に掴みかかろうとしているため、間に入って止めようとした。 「ちょ、ちょっと落ち着きましょう。ご主人様」  そっと肩を叩くと、力を抜きフッと微笑しながら「まぁこのくらいでいいだろう。実はだな……」と話を始めた。面倒臭い。今すぐこの場から立ち去りたいが、お付きとしてこの場にいるためそれは許されない。仕方なく、立っているとこれまた長い話を始めたようだ。 「……している。風の噂で聞いたがイギリスの産業は世界でトップレベルだと言われている。このまま成長していけばイギリスに我が国フランスが乗っ取られてしまうかもしれない! しかもイギリスは」  と、一呼吸置いたあと「それでだ!」と肺の中の空気を一気に吐き出した。そして、彼は側近の私でも知らなかった予定を当たり前だと言う顔をして語り始めた。 「私は今からエジプトへ遠征をしようと思っておるのだ。ほら、そこの君! 隊服を着て、姿勢良く立ちたまえ!」 「え、ええ……」 「そこ! できないとか無理とか言わない! 我が辞書に不可能という言葉はないのだ! いざ、エジプトへ!」 「ちょ、ちょっ! ご主人様、何事です? 私に相談なく何を勝手に?」  抗議の声を上げると美の凝縮された精悍な顔をこちらに向けて、俗に王子様スマイルと呼ばれるものをし、まぁそう言うな! などと言って笑いながら肩を叩かれた……痛い。少しは力の加減を考えてほしいものである。 「あのぉ……」 「む? 君、なかなかいい味出してるぞ! さっきも私に質問しただろう?」 「はい?」  そして、彼は他人の顔を覚えるのが少々苦手である。拾われたばかりの頃、何度も何度も間違えられていたことは忘れられない。ある時はニキビ面の兵士と。またある時はたまたま街で買い物をしていたであろう白髪の老婆と。その度に言い直したのはいい思い出だ。まぁそれはそうとして、再び私の出番が来たようだ。目の前で戸惑い目線をあちらこちらに動かしている若い兵士の肩に手を置いてにこやかに話しかける。 「ご主人様、彼はまだ貴方様と会話をしていません」 「おっとそうか! 悪いな! それで......どうしたのだ?」 「何万人もいるので仕方ないです、閣下」 「確かにそうだな! 気に入ったぞ! 質問をしてくれ!」 「ありがたきお言葉! 先ほどエジプト遠征に行かれると伺いましたが僕たちの他の誰を連れて行くのですか?」 「そうだな......学識のある者、例えば研究者を連れて行くか」  うんうんと頷きながら彼は何処か遠くの方を向いて言った。そして、まだ発見されていないものがあるかも知れない! ああ我がエジプトよ、すぐに行くから待っておれ! など謎の言葉を発し高笑いをしながら言葉途中であるにも関わらずどこかへ行ってしまった。 「え、っと......」 「気にしないで! あの人ああいう性格だから」 「わかりました」  主役が姿を消したことで混乱した兵士たちにより少しずつざわつきが大きくなっていく。......やれやれ、また私の出番か。と内心舌打ちしながら壇上に立ち、指示を出した。 「はいはい、皆様落ち着いてください。今、主人は仕事をしに行ってしまったようです。なので各自これからのことに備えてストレッチやトレーニングなどを行なってください。では」  主人を追う形でその場を後にすると、背後から微妙に聞こえるくらいの声で私達の関係について詮索するような言葉が追ってきた。なんでも付き合っているのでは? はたまた夫婦なのでは? などなど。無論、そんな関係にあるはずがない。あくまで主人と秘書。それ以上でも以下でもない。まぁこういうことには慣れているから反論はしないでおこう。 *  主人が籠っているであろう部屋の戸を軽くノックすると機嫌の悪そうな返事が聞こえてきた。入ろうか一瞬迷ったが、主人と私の関係性を考えた後、躊躇いを捨てて中へ飛び込んだ。 「失礼します。ご主人様、先程の……」 「あーあーあー! うるさいぞ! まったく……」  この通り、相当不機嫌である。内心失敗したなと五秒前の自分を嘲笑いながら謝っておく。 「それで……何の用だ?」 「はい、エジプト遠征の件で少しお伺いしたいことがありまして……」  そう口にするとまるで人が変わったように彼は卓上から顔を上げてこちらを振り向き、なんだなんだと身を乗り出した。少し距離を置きながら、質問の続きを行う。 「イギリスを追い込むといいますか、フランスが今すぐイギリスに何かされるわけでもないでしょうし、もう少し計画を練った上でエジプト遠征に乗り出すべきではないかと私は思うのです」 「確かにその意見もいいとは思う。だが、今すぐにイギリスが何かしなくとも後々邪魔な存在になることは明確だろう? 今でもインドを牛耳って繁栄していると聞く。これは我がフランスにとって由々しき事態だ! だからすぐにでもイギリスに再起不能な痛手を喰らわせるのだ!」 「は、はぁ……」 「イスファハーンの二倍! まさしくフランスが世界なのだ!」  ……言っていることが理解不能である。そもそも世界は多くの国があってこそ世界というのである。全てをフランスに塗りつぶしてしまえばただの大きなフランスである。そんなこともわからないのだろうか。我が主人ながら呆れてしまう。おっと、ため息を吐かないように気をつけなければ。 「そして、この文書を明日までに人数分刷ってきてくれたまえ! 何、遠慮はいらん!」 「へ?」  三枚ほどの紙を渡されたため慌てて見てみると、これまた解読不能な記号が所狭しと並んでいた。解読作業の多さと時間の無さに軽く頭痛を覚えながら聞くと、トレーニング内容とこれからの予定について書き記したらしい。そのドヤ顔を殴りたい衝動に駆られた。 「……わかりました、ではまた」  部屋を後にして誰もいないことを確認し、廊下にへたり込んだ。呪詛に近い独り言がつらつらと口から勝手に出てくる。それに変わり種としての弱音も。こんなところ人に見られたら人生お先真っ暗だが、この立場に立てばこうなるのも理解していただけるであろう。まず、一文字目からよくわからない。u なのかv なのかy なのか釈然としない。だが、わからないからと言って本人に聞くのは憚られるため精神的安定を確保し、自分の部屋に直行する。卓上に三枚ともをひろげ、解読できそうなところから別の用紙に書いていく。その作業を続け、最終的に残ったのはどれも文頭と文末だった。ふと、窓から外の景色を見ようと体を覗かせると月が高く吊るされていた。耳をすませば兵士の鼾が聞こえてくる。あの中に主人の声もあるのだろう。そう思うとやたらムカムカした。全ての眼鏡はあの男だ。文字をじっと見つめて、何か答えが出ないか期待するがそんなことがあるはずもなく、脳みそをフル回転させなんとか夜が明ける寸前に終わらせることができた。フラフラしながら兵士の人数分という莫大な量、刷った。カツカツと僅かながら響くブーツの音は主人だろう。寝られなかったが仕方ないとしよう。クマの濃さなどに興味を示されることはないだろうから。 「ボンジュール! おはよう! 元気か?」 「……ご主人様、おはようございます。私は、まぁまぁといったところでしょうか。そしていきなりドアを開けないでいただけると大変ありがたいです」 「まぁそう言わずに! 仕事は終わったのか?」  いきなりドアを開け、寝ていない者には耐えがたい元気さで声をかけた上に仕事の話か……黒い汚い感情が胸に渦巻くのを感じたが見ぬふりをして笑顔でええ、終わりましたと言った。それに対してそうか! と目を輝かせた後見せてくれと主人は言った。重たい紙の山から三枚ほど引っ張り出し見せに行くと引ったくるように取って主人は言った。 「よくできているじゃないか! 流石、私の秘書だ!」 「恐縮です」 「ハッハッハ!」  私の背中から肩にかけてをバンバンと乱暴に叩いた。毎回のことだが相当痛い。ヒリヒリと痺れに似たものが神経間を行き来する。 「よし、そろそろ我が可愛い兵士たちを起こしてこよう!」 「ご主人様、大変ありがたいことではございますが、私めにさせていただけませんか?」  一瞬とも一分ともない中途半端な時間経過の後、わかったと一言落とされた。ありがとうございますと丁寧に計算され尽くした笑みで答え、フライパンとお玉を両手に持ち、2階へと優雅な雰囲気を醸し出しながら足を運んでいく。そして、シンバルを鳴らしながら怒鳴る。 「皆さん! おはようございます! 朝ですから早めに起きてください!」 「……んぁ! な、なんだなんだ?」  鼻提灯の割れる音と共に寝ぼけた兵士が目をぱちくりこちらを向くがお構いなしに続けた。膨大な人数がいるため一人一人に声をかけるわけにはいかないのだ。しばらく経って、様子を見に主人がやってきた。それを見てか寝ぼけてボーッと宙を見つめていた兵士が慌てた様子で飛び起き、寝癖もお構いなしにおはようございます閣下! と敬礼した。その姿の滑稽なことと言ったら言うまでもない。体内で暴発しそうな笑いが競り上がり吹き出しそうになるのを理性と舌噛みでなんとか耐えた。私が我慢している横で能天気な主人はあぁ! おはよう諸君! などと一体どこから出るのか謎である大声を上げて口角を二っと上げた。そして何処からともなく数枚の紙を取り出し驚いている兵士に渡していった。 「こ、これは……?」 「作戦と今からのことについて我が秘書に作ってもらった! 各自、次の訓練までにこれを見ておくのだぞ!」 「は、はい!」 「ちょ、ちょっと、ご主人様? 何をおっしゃっているのです?」 「君は私に嫌な顔一つ見せず協力してくれたからな! これくらいは当たり前のことだ!」 「しかし、これは……」 「では皆の者! よろしく頼んだぞ! ハッハッハッ!」  高らかに笑いながら彼の自称する書斎という部屋にまたしても籠っていった。残された私たちは目を見合わせていた。まるで先程の台風はなんだったのだと言わんばかりに。必死に状況を理解しようと血管が切れてもおかしくないような速度で脳みそをフル回転させていた。 「あの……」 「……はい! どうされました?」  魂がなくなったように上を向き、硬直している私たちはある兵士の声で魔法が解けたかのようにあるべき呼吸を吹き返した。声のした方を向くと兵士の中で一番若いのではないかと思わせる身長に純粋無垢と形容されそうな美少年がそこに立っていた。 「秘書さん……ですよね?」 「そうですが……」 「このようなことを言うのは大変失礼かもしれないですが……その、お名前を教えていただけないでしょうか?」 「……私に名など無い」 「え?」 「いいから、鍛錬に励みなさい」 「は、はい!」  ドタバタと忙しく走っていった後ろ姿を見て、ため息をついた。名前がないのは本当で、教える義務など皆無なのも事実ではあるが、心が痛い。自らの対応の仕方に、嫌気がさす。コレで何回目だろうか。 「お前は、塩だな」 「え?」 「いい意味で目立った味がない」 「……それはどういったことでしょうか?」  だいぶ前、主人から言われた言葉が脳裏で自動的に反芻される。彼の例えは正直よくわからないものだらけだ。先程の子には生クリームと名付けていたし、今大慌てで通って行った子には小麦粉って名付けていた。ただどういった経緯でそう名付けられたのかはわからない。……少し話が横道に逸れてしまった。この私が塩と言われた由縁だが、全くわからない。まぁ、性格的に塩っぽいのだろう。寝不足の頭でぼんやりそんなことを考えていると、風に乗ってやってきた汗の乾く酸っぱい臭いが鼻腔をくすぐった。振り向くと主人がそこには立っていた。少しだけ怒っているように見えるのは気のせいだろうか。それに気づかないふりをして私はニコリと彼に微笑みかけた。 「ご主人様、何のご用でしょうか?」 「急にすまない、仕事だ」 「……わかりました」 「君に期待しているよ」  肩をパンパンと叩きながらキメ顔でこちらを見られても……。主人にしてはまさにイケメンフェイスなのだろうが、慣れてきたのか全く動揺しない。むしろ最近では少し不快に感じている。彼の体から発する臭いも相まって気分は最悪だ。顔には嫌がるそぶりを出さず心の中でひたすら「臭い」と唱える私をどうか褒めてほしい。 「ちなみに何の仕事ですか?」 「今回はこれだ」  短く発すると、なんだか古そうな紙ーー和紙だろうかーーの束を持って、机に置いた。その拍子に小さな埃が粉雪のようにヒラヒラと宙を舞う。 「これは……?」 「昨日話したエジプト遠征だが、エジプトについても知らなければならないからな! 倉庫に眠っていたものを持ってきたのだ!」  なるほど、紙には神聖文字をはじめ、スフィンクスについての情報やピラミッドの大きさ、中にはミイラの蘇生方法など怪しげなことが載っていた。 「いつまででしょうか?」 「できる限り君のことも考えてみたのだが……二週間でどうだ?」 「に、二週間ですか!」  これほどまでこの男を馬鹿だと思ったことはない。いや、訂正しよう。もちろん馬鹿馬鹿しいと言われた仕事に対して感じたことは何百回もあるし主人の行動に対しても然りだ。ただそれは、信頼関係があるからこその罵倒であり、本心からそう思っているわけではない。ただ、今回の仕事に関しては、本気で馬鹿だと、阿呆ではないかと思う。これが世に言う脳筋なのだろう。一つため息を吐いて、優しさを込めた声色で抵抗してみる。 「ご主人様、大変恐縮ではございますが一言申し上げてもよろしいでしょうか?」 「ん? あぁ! いいぞ!」  そう言って自分の名前さえ知らない男の子のようにこちらをキラキラとした目で見つめる彼。まるで、この世の汚さを知らないもの。その目に向かって、無慈悲にも残酷な斧を下ろす私は彼にどう見えているのだろう。 「正直に言いますと、間に合いません。ですから少しだけ期限を遅くしてもらえませんか?」  それを聞き、あどけない彼の顔は一変し目をこれでもかと開いて、怒鳴るように言った。 「それは容認できない願いだな」 「え?」 「私の計画……いや、国民のためにも二週間がギリギリなのだよ」 「それは……」  どのように言ったら主人に想いが伝わるだろうかと脳の血管がちぎれそうなほど頭脳をフル回転させていたら、いつの間にか主人の顔が近づいていて、思わず後ずさる。その様子を見て、彼は壁に手をつきドスの効いた声で言った。 「いいか?」 「は、はい……」  恐れ慄く私の顔を見て彼は満足した表情で去っていった。心臓が体内で暴れ回って今にも身体の表面に穴が開きそうだ。ときめきのように甘ったるい類ではない。恐怖心からの生理現象だ。顔の赤みを無くすために暫し、私はそこでしゃがみ込んだ。 「秘書さん……ですよね? そのようなところにしゃがみ込んで……大丈夫ですか?」  目の前を見ると先ほど走っていった例の少年が心配そうに私を見ていた。無理に頬を持ち上げて、笑顔を作り大丈夫よと言う。お礼をして、鍛錬に励んできて下さい、と頭を下げてその場を後にする。情けない姿を見せないよう、意図的に顔を隠して。三十路すぎた女の泣き顔は需要すらない。そうやって前を気にせず自室へ走っていたら何かにぶつかった。 「うわっ!」 「ごめんなさい!」  鼻先に手を当てながら走り、安息の地、又の名を自室のドアを思いっきり開ける。軋み音を響かせながら扉が閉まった。涙でぐしゃぐしゃになった顔を腕で乱暴に拭い、両頬を軽く叩いてゼロになったやる気を復活させる。あのようなことをされたのだ。見返すことを胸に誓って渡された資料を机に広げた。 ✳︎ 正味一週間と三日。やっと課された職務が終わったのだ。どれだけ廊下を走りまくっただろうか。たまに、持っていた書籍を落としてバラバラにすることもあった。懐かしさを感じながらググッと上に伸びる。自動的に鼻声が出る。それも張り詰めた刃のようにしなやかで上品なものではなく下卑たチンケな声だ。変に伸びた声に呆れながらまとめ終わったものを掻き集め提出しに行く。時刻は午前3時。薄暗い廊下を忍足で歩きながらふと、主人のことを考えた。彼は眠れないと布団を剥がし、ひとり寂しい夜を過ごしているのだろうかと。こちらとしては行きたくないが、やっと終わった仕事だ。渡さなければ遅刻してしまうかもしれない。もしかしたら孤児だった時のように、空腹でうずくまり、地面との一体化を図りながら骨と皮だけに痩せ衰え、肉体の動きが止まるかもしれない。それだけは避けたいため、彼の部屋へと向かった。 「失礼します」 「お前か……こんな夜更けになんのようだ?」 「これを」 そう言って頼まれていたものを丁重に差し出すと、ひったくるように彼はそれを取り、目を輝かせた。この一連の動作の後、大きな手で私の頭を撫でてよくやった! と褒めた。まるで野獣のようだと思いながら、温もりを堪能し部屋を出た後すぐに寝たらしい。気がつくと主人の顔が目の前にあった。 「お、おはようございます!」 「うむ、おはよう! 気分はどうかな?」 「え、えっと、ぜ、絶好調です!」 「うむ! それはいいことだ! そろそろ朝礼の始まる頃だから、君も準備したまえ!」 はい! と返事をして、急いで準備をする。いつもより一時間遅い起床のようだ。食堂で働いてはいないため、毎日飯を作らねばならないことはないのだが、放っておくとたちまち塩分過多脂質過多の不健康な食事になってしまう。いくら鍛錬しているとはいえ、そうなれば肥満道まっしぐらだ。ただのおデブと化し、とてもではないが軍人という姿では見れなくなるだろう。  若干焦りながら、少しのメイクといつもの制服を着て講堂に行き、壇上の主人を見上げる。彼は睡眠不足とは思えないほど生き生きとした表情でエジプト遠征について話していた。今回はエジプトの古代文字、象形文字及び神聖文字の解読結果とピラミッドについての講話らしい。 「ボンジュール、諸君! 今日は、曇りだが私の心のようにいつでも晴れでいよう!」 「ウィ、ムッシュ!」 「さて、今回の議題だが、象形文字と神聖文字……すなわち、エジプトについて説明しようと思う! これは、先ほどまで私の有能な秘書君に解読してもらっていたものだ!」  それを聞き、思わずフフッと笑みが漏れてしまう。全体の前で褒めてもらえることはあまりなく、あったとしてもたった3秒で終わってしまうのが常なのだが、今回は主人の機嫌が良かったらしい。いつもよりも若干長く褒めてもらえた。バレないように口元をモゴモゴさせながら俯いていると、近くにいた見習いの男の子に怪訝な目で見られてしまった。少し恥ずかしくなった私は、なんでもなかったかのように前を向き、ミーアキャットのように直立不動の姿勢を保ったまま議会を終えた。近くにいたさっきとは別の子に肩を叩かれやっと講義が終わったことに気づいた。 「ありがとう、もう終わったんだね」 「ええ。それより……大丈夫ですか?」 「え? 何がだい?」 「先程から顔色がすごく悪くて……心配です」 「そうかい? まぁ私は大丈夫さ! 心配してくれてありがとう」 そう言って、いつもの通り主人の書斎に向かおうと足を動かす。が、うまく動かず、なんだか地面との距離がだんだん近くなっているような気がする。 「……さん!」 最後に聞いたのは先ほどまで話していた見習い君の切羽詰まった声だった。 * 「ここは……一体どこだ?」 「あら、エスポ!」 「母さん! 久しぶりだね! それとここは一体?」 「ここはそうね……一生安全に過ごせる場所よ」 「そうなんだ! いいなぁ……父さんは?」 「そこにいるわ」  母さんが指差した方向には、まだ首を切り落とされていない元気な頃の父さんがいた。手を振ると、彼は怪訝な顔をしながら近づき言った。 「どうして、お前がここにいるんだ?」 「え?」  父さんの言葉を聞き、母さんもそういえばと言った様子で困った顔をする。突然変わった場の雰囲気に、少し慄きながら二人を見つめる。コソコソ話をしていた二人だが不意に振り向いて言った。 「お前はここにいるべきじゃない。早く帰るんだ」 「え? でも……どうやって?」 歩いてきたのだろう道を振り返ってみるが真っ白な霧に覆われており向こうが見えない状態だった。いくら軍人の秘書だからと言っても先の見えない散歩は石橋を叩かないで渡るより不安である。前を向き両親の顔を見るが、どちらも首を横に振っていた。……行きなさいの合図だった。どことなく不安な気持ちを抱いたまま私は霧を払いながら歩き、その途中で誰かに引き上げられるかのように体が軽くなりそのまま意識を手放した。 「……プトに……法が……ん……」 「この……欲……」 「秘……は言わない……り」 意識が戻ってくるにつれ、誰かに低音でお経を囁かれているような声が聞こえ、薄く目を開いた。起きていることがばれないようそっと視線だけを横に移す。どうやら室内には男が二人いるそうだ。声だけ聞くと、主人が一方的に話している感じがする。内容は断片的でパズルのようにうまくはまらないため、何を言っているか少しも理解できない。ただエジプト遠征についてのことを話していることだけは理解できる。何をまた企んでいるのか考えていると不意に黒い影が視界に広がった。慌てて目を瞑る。私はまだ起きていませんよ、寝ていますよと無言の圧力をかけながら。自然な様子に見えるよう、少し整えて頭上の影が離れていくのをただひたすら待つ。 「……君はまだ……戻ってこないんだな」 いつぶりかに聞いた悲しい声を発し、眠っている(フリの)私の頭を撫ぜる。とても優しくて寂しい手つきだった。不意に涙が溢れた。そして少しのしゃくり声も。その様子を見て、主人は小さくおっ、と言った。私は起きていたことがバレないように、あたかも今目覚めた人のようにそっと目を開けて二、三度ゆっくりと瞬きをした。 「……目覚めたんだな!」 「……心配かけてごめんなさい。ただいま戻りました」 「うむ、コントント・デ・テ・エボイア、マドモアゼルエスポ!」 声高らかにそういうとあろうことか主人は私の上に覆いかぶさるように抱きしめてきた。突然のことに驚き、固まっていること五秒間。ようやく離され、押しつぶされていた肺へと空気が争いながら入っていく。その勢いが強くて少し咽せてしまった。心配そうに、主人がこちらを向いたため、大丈夫と笑ってみせた。しばらくして、主人は外回りに行くと告げて部屋を出て行った。扉が重く閉まる音を聞き、再び先ほど聞いた秘密の会話について考え始める。秘書の私にも相談せず、秘密裏に行われていたということはなにかあるに違いない。ただこの疑問を直接的に聞くことは難しいと思われるため、少しずつ探っていこうと思った。 * 「ボンジュール! 諸君、ついに明日だ! 心の準備はできているか? いや、できてなくてもまだいい。問題は明日本領を発揮できるかどうかだからな! そして、先ほど、私の秘書が目を覚ましたようだ! 彼女を助けた者には心からの感謝を示したい。ありがとうな! 君たちは立派な軍人だ!」 ここまでを言い切り、講堂内を見回すと見習いたちは響めきたち、とても喜んだ。秘書役の彼女が倒れたら、この軍は全くと言っていいほど成り立たない。一瞬にして薄汚れた者たちの温床に変わってしまう。もしかしたら女や酒、非合法のギャンブルに手を伸ばす者だって出てくるかもしれない。それがないのは彼女が裏でしっかりと支えているからだ。まさに縁の下の力持ち。優秀な秘書である彼女には殆どの作戦を伝えている。しかし、中には伝えられないこともあるのだ。野望なんてもってのほかだろう。今のところバレている気配はないが、時間の問題であると思われるため早いうちに達成、すなわち欲を満たさなければならない。そのようなことを知らない見習いたちはまだ、手を叩いたり、ハイタッチしたりして喜んでいる。その純粋な様子に少々呆れながら、次の言葉を発する。 「では諸君、各自最後の練習を行ってくれ!」 「ウィ! ムッシュ!」  その声が終わるか終わらないかのうちに、ガチャリと音がした。振り向くとそこには彼女がいた。ただ、今までとは全く違う泣きそうな顔をして。 「どうしたのだ? そんな顔をして」  駆け寄っていくと、彼女は私をキッと睨みつけて言った。 「エジプト遠征なんて嘘なんですね!」 「え?」 「ど、どういうことですか?」 「ほんとうに?」 練習を始めたはずの見習いたちもこちらを向き、怪訝な顔をして私たちの会話に耳を傾けている。 「この文書を見てください!」 「なっ……!」 「彼がジャコバンに関わっていたことがわかりますね!」 「ジャコバンってあの……」 「ロベス・ピエールがいた……」 「恐怖政治……」 私は見習いと彼女を交互に見ながらあくまで落ち着きながら、それが君の怒りとどんな関係があるのだ? と聞いた。 「あなたは、ジャコバンの味方をした!」 「まぁ……そうだな。で、なにが言いたいのだ?」 「ジロンドを殺した!」 「そして、今からはこの軍をジャコバンのみにしようとしている……味方じゃあ、なかったんですね……」 「え?」 大粒の涙が彼女の大きな目から音もなくこぼれ落ちた。確かにエジプト遠征に行って魔法の石を見つけ、ジャコバン派のみの郡にしようと目論んでいたことは確かだ。しかし、彼女を追い出すなどは全く言っていないため、なにを言っているのか全くもって理解ができない。 「一つ聞くが……君は誰だ?」 「……オヤセタ……私の名前は、イトクライエ・オヤセタ!」 「ま、まさか……」 「そう、そのまさかなんです……」 「君は……コルデーなのか……?」 「……はい」 「嘘だろう……まさか、そんなはずは……」 「彼女は殺された……そう言いたいのでしょう? ご主人様」 「ああ……だってそうだろう? 彼女は処刑されたんだ……」 「正確にいうと、私は彼女ではなく、彼女の生まれ変わりです」 「そんなことが……」 「お話は終わりです! 主人!」 そう言い捨てると、いきなり彼女は持っていた短刀で心臓を狙って突き刺そうとしてきた。 * 主人はやはり軍人だ。流石、避け方が違う。それどころか後ろに回って、攻撃してこようとしている。ギリギリのところで身を捻って避ける。チリっと痛むのはかすり傷だろう。体制を立て直し、もう一度心臓を狙う。あの時と一緒だ。前もできたんだから今日もできる。そう思って剣を持つ手に力を込めた。彼の動きに隙が生まれたところをすかさず突く。分厚い肉が切れる感触……だがそれはまやかしで、気づけば見習いたちに抑え込まれていた。彼は私にゆっくりと近づいて言った。 「さようなら」 そうして、彼と私の話は幕を閉じた。
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