午前11時13分

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午前11時13分

チェックアウトを済ませたい旅行者達のせいで、 Rホテルのロビーは少々、ごった返している。 「‥‥また連絡するよ」と、別れ際に言った 彼の言葉が、今回ばかりはチクッと 引っ掛かるのを感じながら、 「じゃあね」と(きびす)を返して、私は歩き出す。 いつもは、すぐに客待ちのタクシーが見つかるが、 今日は、生憎の小雨まで降っている。 ビニール傘を開いて、 腕時計に眼をやれば、時刻は午前11時13分。 傘を差して歩きながら、私の胸の内に 耳を澄ませる。 途中で振り返ると、歩道橋を登って行く彼の姿が 見えた。 私達はRホテルから出て、右と左に 別れたような形だ。 それは「出別れ」といって縁起が良くないのよと、 昔、母から聞かされたのを思い出した。 と同時に、彼にとって 私は随分と都合の良い女なのだと、 明確に理解し得た瞬間だった。 相手が変わっても結局のところ、恋愛については、 同じパターンを演じているのが、私だ。 最初は違っても、付き合いが長引くうちに、 いつの間にか、私という女は、 あれこれと相手に尽くす役を与えられている。 例えば、昨夜も、今朝もそうだった‥‥。 彼は、私から始めさせ、その間 一度も目さえ、開けようとしなかった。 付き合いがかれこれ5年といっても、 たまにしか逢えない男だ。 1ヶ月か2ヶ月に一回、他府県から、 出張絡みで、やって来るが、 彼からLINEが来るのは、私を誘う時だけで、 それ以外のどうでも良い理由で、 彼からの連絡は、ないに等しい。 いつも、彼は本業とか副業とか『仕事』で 超多忙なイメージだ。 実際のところ、どんな仕事内容なのか、具体的には 明かされない。 そして、彼には妻がいる。 今まで得た、彼についての情報は 彼の口から出たものだけで、私はそれを 鵜呑みにしていたが、今回の逢瀬の合間、 幾つかの疑問が浮かび始めてきていた。 一見、嘘つきのようには見えない彼だが、 しかし、嘘つきには色んなタイプがいるのだ。 まあ私だって、或る意味、嘘つきだろう。 結婚していながら、こうして 他人の所有物である男と、5年もの間、 定期的に寝ているのだから。
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