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 下田先生が再び正子の前に顔を見せたのは、夏休みもそろそろ終わりに近づいたころでした。お父さんには知られたくない事情があるとかで、下田先生はまず新三郎に連絡し、新三郎が正子に耳打ちをしたのでした。だから約束の日の約束の時間、正子は氷室の前で一人で待っていました。午後遅くでしたがまだ日差しは強く、ひさしの下の日影に入っていても、正子は何度か額の汗をふくことになりました。  下田先生は時間通りに現れました。自分の車なのかレンタカーなのか、小型自動車を運転してやってきたのです。ブレーキをかけてエンジンを切り、下田先生はすぐに自動車から降りてきました。 「こんにちは、下田先生」 「やあ正子ちゃん、すまないが少し手伝ってくれないかな」下田先生はもう自動車のトランクを開けようとしています。その中から何か荷物を取り出そうとしている様子です。  荷物というのは四角い箱で、正子なら両腕で抱えるのが精一杯なほどの大きさがありました。銀色の金属でできていますが、風通しのためなのか、何ヶ所かに穴が開けてあるのが目に付きます。太い丈夫なロープが全体にかけてあり、人が背中に背負うことができます。下田先生が背中にかつぐのを、もちろん正子は手伝ってあげました。 「先生、これは一体何なの?」正子が疑問を口にしたのはいうまでもありません。 「今にわかるよ。ちょっと重たいのが難点だがね。ところで正子ちゃん、氷室の鍵は持ってきてくれただろうね」 「ええ」ポケットから取り出し、正子は見せました。 「それでいい。ではドアを開けてくれるかい?」  もちろん正子はその通りにしましたが、そうしながらも頭の中を疑問が渦巻いていました。あの大きな箱は何なのでしょう。あれを使って、氷室の中で何をしようというのでしょうか。  氷室の内部は以前と変わったところはなく、戦闘機は同じように不安定に危なっかしく、穴の上にぶら下がっていました。下田先生はポケットから懐中電灯を二つ取り出し、一つを正子に渡し、ハシゴをつかんでもう穴の中へと降りてゆこうとしています。 「下田先生、どこへ行くの?」  足を滑らせないようにしっかりと踏みしめて下田先生はハシゴを降り続け、とうとう穴の底に達しました。頭の上にのしかかる戦闘機を不安そうに一瞬見上げましたが、次に懐中電灯をかざして、洞窟の奥を照らし始めました。「正子ちゃん、地底アユのいる湖はこの方向にあるのだね?」 「そうよ」 「距離はどのくらいだったかな? そう遠くはないと思ったが」 「道案内してあげるわ」  口を開き、下田先生は何か言いかけようとしましたが、そのときにはもう正子はハシゴを半分以上降りてしまっていました。スニーカーをはいた足がトンと岩の上に降り立つ音を聞いて、反論する気もなくなったようです。「じゃあ、頼もうかな」  こうやって二人の旅が始まったのでした。懐中電灯を使って、正子はできるだけ下田先生の足元を照らしてあげました。小柄ですが体は頑丈で、下田先生はふらつくことなく荷物を運ぶことができました。角をいくつか曲がると、水の匂いが鼻に届くのを感じることができるようになります。だけど二人とも、すぐに水辺に立ったわけではありません。少し手前で立ち止まり、懐中電灯でよく調べて、地底アユの姿がないことを確かめないではいられませんでした。  水に近寄って水中を照らすと、長さ2メートル程度の地底アユたちの姿はいくつか見ることができました。でも二人が警戒していたのは、もちろん先日地上で大事件を起こしたあのサイズの魚たちです。20匹すべてが死んだことはわかっていましたが、念のためでした。  下田先生が荷物を降ろすのを正子は手伝ってあげました。「ふう」と息をつき、下田先生は背中を伸ばすことができました。正子は手で、そっと箱の表面に触れてみました。材質のことですが、この箱は台所の流し台と同じようなステンレス製だということに気がつきました。ということは、この箱は水に対してとても強いはずです。水につけられたら、表面のあちこちに開けられている穴を通して、水が自由に出入りすることでしょう。でも何のために? 「下田先生、これは何をするための箱なの?」  だけど下田先生はそれには答えずもっと水に近い場所に立ち、正子に向けて手招きを始めるではありませんか。懐中電灯を持ち、水中を照らしています。 「どうしたの?」 「あれをごらん」  下田先生が指さしてくれたものを見て、正子は思わず息をのむことになりました。水中の白い砂の上にある物体に気がついたのです。でも地底アユではありません。ボールのように丸い形をして、サイズはそれこそテニスボールぐらいです。色は透明で、表面の薄い膜の中にある中身も同じように透き通っていて、まるでゼリーでも見ている感じです。 「先生、あれは何なの?」 「あれは地底アユの卵さ。いくつあるか数えることができるかい?」 「そんなこと無理だわ。何千もあるに違いないもの」  まったくそのとおりでした。卵たちは、水底の一角をすべておおってしまうほどだったのです。 「よくごらん」下田先生がもう一度指さしました。「透明な膜の中に魚の赤ちゃんがいるのが見えるだろう?」  正子は目をこらし、あっと小さな声を上げることになりました。下田先生の言うとおりだったのです。大人の地底アユとはだいぶ形が違いますが、長さ数センチの透明なメダカのようなものが、一つ一つの卵の中にいることに気がついたのです。卵がかえるまであとどのくらいかかるのかはわかりませんでしたが、目玉がぎょろりと大きく、流線型の体やヒレはもう形ができています。体が透き通っているせいで、胸の内部で心臓がトクトクと動いているのまで見ることができました。 「この箱を水中へ沈めるのを手伝ってくれるかい?」荷物を振り返り、下田先生が口を開きました。正子は箱に手を伸ばしかけましたが、疑問が口をついて出るのを止めることはできませんでした。 「先生は、ここに卵が産み付けられていることを知っていたの?」 「そうさ」正子と力を合わせ、下田先生は箱を引きずり始めました。 「どうして?」 「このあいだ死体で見つかった20匹のことだけれど、死因がわからないとニュースで言っていただろう? それでピンときた。あの20匹は、卵を産んで寿命が尽きたから自然に死んだのさ。病気や毒といった原因があったわけじゃない」 「なぜ?」 「話に聞いたことはないかい? サケのような魚は海で長く生活するが、卵を産む時期がやってくると川をさかのぼり、うんと上流まで行って産卵をする。でも、それがすむと力尽きて死んでしまうんだ」 「卵からかえった赤ちゃん魚たちはどうなるの?」 「赤ん坊たちは川を下り、海へ出て成長する。そして大人になって卵を産む時期が来ると…」 「また同じように川をさかのぼるのね」 「そうさ。だがおもしろいのは、サケは自分が卵として産み落とされた川を覚えていて、大人になってからもちゃんとその川をさかのぼってくるということなんだ。不思議なことだが、自分が生まれたふるさとへと帰っていこうとするのだよ」 「だから、地底アユも自分たちのふるさとへ帰って産卵するに違いないと思ったの? でも変だわ。地底アユはサケじゃないもの」  下田先生はにっこりと笑いました。「サケと同じように、アユも川に卵を産み、かえった子アユは海に出て成長し、また生まれた川へと戻ってくるのだよ。サケとよく似た性質を持っているのさ。地底アユは、正体不明の地底魚とアユとが交雑したハーフの魚だ。アユの性質が残っていても、ちっとも不思議じゃないさ」  水のすぐそばまでやってくることができたので、二人は箱を水中へと降ろし始めました。正子が思っていたとおり、表面に開けられたいくつもの穴を通って、水が箱の内部を満たしてゆきます。 「ではこの箱は一体何なの?」 「エストロゲンという名前を聞いたことはないかい?」 「エストロゲン?」 「中学の理科ではまだ教えないかもしれないが、化学物質のひとつでね」 「薬のようなものなの?」 「まあそうだが、面白いことに、かなり薄い濃度であっても水に混ぜれば、エストロゲンは魚に影響を与えることができるんだ」 「どんな影響なの? 死んじゃうの?」 「死にはしないさ」下田先生は首を横に振りました。「魚がまだ子供の時代にこの物質に接触すると、オスになるはずのものもみなメスに成長してしまうんだ」 「どうして?」正子が目を思いっきり丸くしている様子を想像するのは、そう難しいことではないと思います。 「詳しいメカニズムの説明ははぶくが、そういうものなのさ。すると魚たちの群れはどうなると思う?」  正子は少しのあいだ首をかしげていました。「女の子ばかりの学校のようになっちゃうの?」  そのたとえの奇妙さに、下田先生はくすりと笑いました。「もちろんそうだが、重要なのは、メスばかりだともう子供を作ることができなくなるということさ。メスが卵を産んでも、精子をかけるオスがいないのだからね。卵はかえらない」 「だから?」 「今すぐというわけではないが、いずれ地底アユたちはゆっくり全滅してゆくということさ」 「でもそのエスなんとかって薬は、そんなに長く効果が続くものなの? 何年もかかるのでしょう?」 「さっき沈めたあの箱の中にエストロゲンが入っていたわけだが、箱には少し仕掛けがしてあってね。時間をかけてごくゆっくり、計算どおりなら10年以上かけてエストロゲンを放出し続けるように作ってある。本当に少しずつだから、地上の生物に影響を与えるレベルではない。だが産卵場所であるこの地底湖には、十分な濃度を供給することができる。そのあたりの計算に手間取ったから、地底アユの対策にこれだけ時間がかかってしまったのだよ」  正子はもう一度水の中をのぞき込みました。「あの卵たちはみな死んでしまうの?」 「死にはしないさ。ただ生まれてくるのはすべてメスばかりということさ。10年以内には、地底アユにはもうオスは一匹もいなくなっていることだろうね」 「その後、何年もかけてゆっくり絶滅するのね」 「絶滅は仕方のないことさ。こんなに危険な魚だからね」  二人にはもうすることはありませんでした。地底湖に背中を向け、歩き始めたのです。下田先生が口を開きました。「正子ちゃんを見ていると、私の娘を思い出すよ」 「お嬢さんがいるんですか?」 「舞子といってね、血はつながっていないが、ひょんなことから引き取った。小学生だがおてんばでね。先日は学校で男の子とけんかして、髪の毛を引っ張ってとうとう泣かせてしまった。仲の良い同級生に洋一君というのがいて、この子がとめてくれたからよかったが、そうでなければどうなっていたか」 「そうなんですか」 「まったく女の子とい…」でも下田先生の言葉は途中で止まってしまいました。背後から大きな水音が突然聞こえてきたからです。だけど川の流れや、岩にぶつかる海の波のような音ではありません。二人とも聞いたことなどなかったでしょうが、浮上する潜水艦が水面を切り裂き、かき分けるときの音というのが一番近いかもしれません。  立ち止まり、二人はおそるおそる振り返りました。  魚の種類にもよるのですが、卵を産んだ後、たいがいの魚の親たちはそのままどこかへ行ってしまいます。卵はほっておかれ、誰にも世話をしてもらえないわけです。だけど、中にはそうしない魚もいます。そういう魚は大人が一匹、そばにつきっきりで見張りをし、卵を食べようとやってくる敵を追い払ったり、ヒレを動かして新鮮な水を卵にあててやったりするのです。  誰も知らなかったことですが、地底アユにもそういう性質があったようです。普通のアユにはない性質なので、正体不明の地底魚が持っていたものかもしれません。正子と下田先生がやってきたときには、たまたま食事のためか何かで見張り役が席を外していただけかもしれません。それが戻ってきたのだと考えるのが自然でしょう。  その姿を見て、二人は凍り付いてしまいました。体の前半分をすでに水から出し、岸の岩の上に乗せているのです。とがった頭部は、バスの車体に負けないほどのサイズがあるではありませんか。鼻の穴を大きく開き、匂いを確かめようとしているのかもしれません。ときどき頭を左右に動かしています。 「先生、あれ…」正子は小さな声でささやくことしかできませんでした。地底アユから二人までの距離はたった15メートルほどしかないのです。それにしてもなんという大きさでしょう。現物にこれほどまで近寄ったことは二人とも一度もなかったのです。 「くそっ、卵には見張り役がいたんだ」下田先生がささやき返しました。 「でもあのサイズの魚は20匹しかいなかったのでしょう? みんな死んでしまったはずだわ」 「実は21匹いたのだが、誰も知らなかったということさ。ゴタゴタ言ってもはじまらないよ」 「先生、1、2の3で走るわよ」 「だめだ。魚はとても耳がいい。足音を立てたら、すぐに飛びかかってくるよ」 「あいつは匂いをかいでいるんだわ」 「花火大会の夜の経験から、人間の血の匂いをよく知っているのだろう。だがケガでもして出血していない限り、君も私もかぎつけられる心配はないさ」 「そんなことを言っても、ここにずっと立ってはいられないわ。あいつが前進してきたら、どうするの?」 「いいかい正子ちゃん、あいつには目がない。だから…」でも下田先生は説明を続けることができませんでした。何がそうさせたのか、ささやき声が耳に届いたのか、地底アユが突然前へと身を進ませ始めたのです。もう我慢も何もできません。悲鳴を上げて正子は駆け出してしまいました。それが地底アユをさらに興奮させ、下田先生もドタドタと正子のあとを追っていったのはいうまでもありません。  途中でつまずいて下田先生が懐中電灯を落としてしまったので、今は残った一つを正子が手の中に握っているだけです。力いっぱい走るので、懐中電灯から出る光は、弾むボールのように洞窟の内部をはね回っています。正子はすばしっこいのでそんなことはありませんでしたが、地面から突き出している岩につま先をぶつけるときに上げる下田先生の悪態が、まわりに響きます。でももちろん、地底アユが立てる音はそれをかき消してしまうほどでした。  よく見ると地底アユの胸ビレと腹ビレは根元が太く頑丈に発達していて、足の代用品として十分に使うことができる形になっているのです。もしかしたら、魚類から両生類へと進化してゆく途中なのかもしれません。カブトのようにとがった頭をし、全体がウロコにおおわれ、ぬれてテカテカとひかり、しかもバスほどのサイズがある生物が後ろから追いかけてくる場面を想像してください。おまけに狭くて暗い洞窟の中なのです。このときの正子と下田先生の気持ちがよく理解できるだろうと思います。  本当の話、「これは夢でありますように」と正子は何回祈ったことか。一瞬後には目を覚まし、自分の部屋のフトンの中にいるのであればいいと何度願ったことか。でも願いはきき届けられませんでした。下田先生と一緒に走り続けるしかなかったのです。あまりにも恐ろしく、振り返って地底アユまでの距離を確かめる勇気はどうしても出ませんでした。  やがて二人は、天井からの光で洞窟の内部が薄明るく照らされている場所までやってくることができました。いうまでもなく氷室があって、あの戦闘機が屋根と床に大穴を開けているところです。今は夏休みの最中だということを、正子は恨めしく思い出さないではいられませんでした。この洞窟を一歩出れば、外には平和で明るい夏の日が広がっているのに違いありません。地面の上と下だというだけで、なんという違いでしょう。走り続けているせいでいささかあえぎながら、下田先生が声を出したのはこのときのことでした。 「正子ちゃん、その懐中電灯を私にかすんだ」 「どうして?」だけどそういいながら、正子はいわれた通りにしたのです。下田先生がさらに口を開きます。ヒゲだらけの口から見えている舌は赤く、必死な顔つきもあって、まるで鬼のような眺めです。 「私は地底アユを洞窟のもっと先まで誘い出すから、そのすきに君は戦闘機の隣のハシゴをあがって地上へ逃げるんだ」 「先生はどうするの?」 「考えがあるんだ。この洞窟は君の家のカラ井戸の底につながっている」 「でもあそこは鍵がかけてあって、地上へ出ることはできないわ」 「わかっている。だがカラ井戸の底は少し広くなっていた。なんとか地底アユを出し抜いて、私はあそこでUターンをして戻ってくる。地底アユを後ろに引き連れてだ。わかるね?」 「ええ」  その後も早口で少し相談をし、二人は別れました。もうあの大穴のところまで来ていたのです。地底アユの注意を引くため、なんと下田先生は突然大きな声で歌を歌い始めたではありませんか。男らしい太い声なのですが、いささか下手で音程が外れていることには気がつかないふりをすることにしましょう。また、歌い始めたのが第二次世界大戦の軍歌だったというのも、年齢を考えれば不自然なことではないかもしれません。  その間に正子はさっと進路を変えてわきへそれ、地底アユの鼻先をかすめるようにしてハシゴへと飛びついていました。氷室の床から洞窟の中へと降りてきているものです。この日は自転車に乗るためにスニーカーをはき、活動的な服装をしていたので、トントンとすばやく登ってゆくことができました。その彼女のすぐ下、つま先に軽く触れるようにして、地底アユの背びれが通り抜けていったのです。  いかにも魚くさい匂いが鼻に届いたのですが、その中にアユ独特のかぐわしい香りが混じっていることに正子も気がつかないではいられませんでした。やはりこれは元はアユだった魚なのです。そのことがいまさらのように強く感じられ、正子はなんだか泣きたいような気持ちになってしまいました。もし彼女自身が光のない地の底に閉じ込められ、正体のわからない他の生物と交雑して、姿を変えていかなくてはならなかったとしたら、どんな思いがすることだろうと感じてしまったのです。  だけど今は、そんなことを考えている余裕はもちろんありませんでした。下田先生の歌声は遠ざかっていきつつあります。正子も急がなくてはなりません。一度氷室の床の上に立ち、見回しました。その結果わかったのは、戦闘機は尾翼の先端の一ヶ所で本当に危なっかしくぶら下がっているだけだということでした。まるで片方のつま先だけでロープからさかさまにぶら下がっている軽業師のような感じです。戦闘機を下へと落下させるには、ただあの一ヶ所の引っ掛かりを外してしまえばいいのです。  心を決め、正子は戦闘機へと乗り移りました。足を滑らせないように注意して、パイプのように丸い胴体の上に立ったのです。垂直ではないけれど機体は縦に立っているので、ひどく不安定な姿勢でした。金属板が薄いせいで、体重を乗せると足の裏でベコベコとへこみ、そのたびに心臓が止まってしまいそうなほどハラハラしないではいられませんでした。  それでも両手と両足を使い、そろりそろりと登っていったのです。とうとう尾翼へとやってくることができました。飛行機のおしりのところに垂直に立っているシャモジのような形の板です。だけど正子はあせりを感じはじめました。尾翼は思っていたよりもしっかりと床材の間にはさまり、まるで万力のようにがっしりと固定されていて、彼女の力ではちょっとやそっとのことでは外れそうもなかったのです。そして、しばらくの間はすっかり聞こえなくなっていた下田先生の調子っぱずれな歌声が再び耳に届き始めたことに気がついたのは、このときのことでした。  体が熱くなり、自分の顔がさっと赤くなったに違いないと正子は感じることができました。最初は小さかったのですが、下田先生の声はどんどん大きくなってくるような気がします。とうとう正子は、戦闘機の胴体の上に乗ったまま、体を上下に揺らし始めました。金属同士がぶつかり、ガンガンと大きな音がします。  でも何も起きないのです。床材は相変わらずびくともせず、尾翼の先端を放してはくれません。 「伯父さん、お願いだから落ちて」  ついに正子は、胴体の上でどんどんとジャンプをはじめたではありませんか。もうかなりやけくそになっています。下田先生の歌声は、今ではほとんど真下から聞こえてくるような気がします。  戦闘機がズルリと落下を始めたのは、突然のことでした。正子が何度目かのジャンプをした瞬間でしたが、飛び上がって落ちてきて、あっと気がつくと足の下に戦闘機がなかったのです。バランスを崩してしりもちをつきそうになりましたが、体を支えるどころか、やっと捕まえることができた胴体に両手でしがみつくのが精一杯でした。でもおかげで、とんでもない勢いで迫ってくる尾翼に頭をぶつけるのは避けることができました。悲鳴を上げ、戦闘機と一緒に正子は落ちていったのです。  いいタイミングで、下田先生はその真下に差しかかったところでした。口を大きく開いて歌い続けながら、ちらちらと上を見ていたのです。どうやったのだろうと不思議に思えるほど上手に、正子は戦闘機を落下させてくれたわけでした。ただ下田先生が驚いたのは、正子までが一緒に落ちてきたことでした。  正子を乗せたまま、戦闘機は地底アユの背中に命中したのです。イモムシのように体をねじり、地底アユは悲鳴を上げました。大きな声なのですが、体のサイズの割にはかわいらしいキーキーとネズミに似た鳴き声でした。 「正子ちゃん、大丈夫か?」  戦闘機は地底アユにかなりの衝撃を与えたに違いありません。背ビレが裂け、血が流れ、うろこが何枚もはがれるのが見えました。戦闘機はすぐに転げ落ち、洞窟の床にたたきつけられる形になりました。正子が万一、機体や地底アユの下敷きになったりすれば、大変なことになります。だけどどういう幸運なのか、正子の体が丸くなり、戦闘機の操縦席の中へころころと転げ落ちるのが下田先生の目に入ったのです。操縦席は金属板で囲まれて小部屋のようになっていますから、踏みつぶされてしまうことはないでしょう。下田先生はほっと息をつくことができました。  でも装甲車のような見かけはダテではないということなのか、地底アユは信じられないほど頑丈な生物でした。あれほどの重量と衝撃を受けたのに、死んでしまうどころか、失神する気配すらないのです。顔を上げ、体をさらに激しく動かし始めたではありませんか。正子のことが心配でしたが、下田先生は再び走りはじめなくてはならなかったのです。  操縦席の中でどこかに頭をぶつけてしまったのか、何秒間か正子は何もわからなくなり、ぼんやりとしてしまいました。だけどここで時間を無駄にしているわけにはいかないことはよくわかっていました。頭を振り、少しでもはっきりさせようとしたのです。何か小さなものが自分の手に触れたことに気がついたのは、このときのことでした。  最初は、なぜこんなところに口紅があるのだろうと不思議な気持ちがしました。ひんやりとした金属でできていて、円筒形をして、サイズといい大きさといい、本当に口紅とそっくりだったのです。指でつかみ、まばたきをし、正子は顔の前へと持ってきました。そして正体に気がついたのです。  弾丸でした。銃やピストルに入れて使うものであり、口紅とそっくりに思えたのは、その薬きょうの部分だったのです。口紅なら赤い紅があるはずのところには、鉛色をした弾頭があります。でも正子が発見したのは、この弾丸だけではありませんでした。もっと大きく、角ばった形をしたものがひざに触れていることに気がついたのです。もちろんそれも拾い上げました。弾丸とは違ってずっしりと重いものだったのですが、なんと本物のピストルだったのです。  その二つを手にして、正子は目を丸くすることになりました。戦闘機の操縦席で見つけても別におかしくはない物たちですが、彼女にとっては始めて現物を目にするものだったからです。そしてこの後、少し奇妙なことが起こったのです。  そういえばこの間、下田先生はどうしていたのでしょう。  下田先生はまだ地底アユの前を走り続けていました。傷を受けて地底アユのスピードが落ちていたので、さっきまでほどは息を切らしていません。正子にかかわるこの後の奇妙な出来事を、下田先生はすべて目撃することになりました。地面をはう地底アユの立てる音をかき分けるようにして、ザッザッと近づいてくる足音にまず気がつきました。  振り返り、でも歩みを止めることはせず、下田先生は懐中電灯を向けようとしました。そこはたまたま洞窟が少し広くなっている場所だったので、ヒレやしっぽの動きをうまくよけながら、わきをすり抜けて地底アユを追い越し、自分のそばへ駆けてくる人影に気がついたのです。小柄な人物で、背もあまり高くはなく、体つきはきゃしゃといってもよいでしょう。思わず下田先生は懐中電灯で照らそうとしましたが、声が聞こえてきたのはそのときのことでした。 「そうじゃない。オレじゃなくて魚を照らすんだ」  その声にはどこかなつかしく、心を揺さぶる響きがあることに下田先生は当惑を感じないではいられませんでしたが、とにかく相手の言う通りにしたのです。懐中電灯の明るい光の輪が、迫ってくる地底アユのとがった頭を照らしました。いつの間にか下田先生は立ち止まってしまっていました。暗くて見ることはできませんでしたが、その人物も走るのをやめ、下田先生の隣に立ったようです。  カチリという金属音が突然聞こえ、下田先生を少し驚かせました。もう何年も聞いていない音だったからです。でも何の音なのかは一瞬で思い出すことができました。スライドさせて遊底を開くときの音に違いありません。軍隊にいたころ、上官から命じられて、下田先生自身も何百回も練習させられたものでした。何も見えない本当に真っ暗な中でも扱うことができるようになるまで、厳しく訓練されたものです。 「弾丸は一発しかないから、外すわけにはいかない」その人物が言うのが下田先生の耳に届きました。 「何だって?」  だけど返事はありません。石の上で靴を動かす音が聞こえ、その人物がある姿勢をとったことが感じられただけでした。足を大きく広げて体を安定させて立ち、ひじと腕を伸ばして前方へ向けて構えたのです。もちろんピストルをです。  息を止め、ねらいを定めるのが感じられました。そしてその人物は、引き金にかけた指をゆっくりと引いたのです。  数十年の月日がたっていても、火薬は湿っていなかったようです。銃声は洞窟の中に大きく響きました。あまりの大きさに、下田先生はもう少しで懐中電灯を落としてしまうところだったほどです。  気がつくと、弾丸は地底アユの額の中央に命中していました。体の大きさに比べると針の穴のように小さなものでしかありませんが、効果は絶大でした。声を上げることも体を震わせることもほとんどなく、地底アユは一瞬で死んでしまったのです。子供のころ、川でつりあげたばかりの魚の額の中央を釘の先で刺してすぐさま殺し、新鮮なままで家まで持ち帰るのが上手だった男の子がいたことを、下田先生は思い出さないではいられませんでした。この子と下田先生はその後も親友で、戦争が始まると同じ部隊にそろって入隊したものでした。でもその戦争で、彼は戦死してしまうのです。  懐中電灯を手にしたまま、下田先生はゆっくりと地底アユに近寄りました。だけどもちろん、地底アユはもう体をピクリとさせることさえありません。額に開いた穴から、血がゆっくりと流れ出ています。下田先生は振り返ろうとしましたが、声が聞こえました。 「下田、懐中電灯でオレを照らすのはやめてくれ。長い間真っ暗な中にいて、たったいま出てきたばかりなんだ。まぶしくてかなわんよ」 「なぜオレの名を知っている? おまえは誰だ?」 「おいおい、戦友の名を忘れないでくれよ…」  このとき下田先生は大きな間違いを犯してしまいました。誰でもやってしまいそうなことですが、懐中電灯をあげて相手の顔を照らそうとしたのです。だけど何も見ることはできませんでした。相手がいたはずのあたりには何もなく、懐中電灯の光はただその背後の岩壁を照らしているだけでした。下田先生は懐中電灯を下へと向けました。そしてそこに、気を失って倒れている正子の姿を見つけたのです。  地底アユの一件は、これで落着したようでした。でもなぜか下田先生は口が重く、洞窟の中で起こったことをきちんと話してくれないことが正子は不満でした。正子自身は、弾丸とピストルを見つけた後のことはまるでカスミがかかったようにぼんやりとし、なぜかほとんど思い出すことができなかったのです。  正子も、努力して思い出そうとはしたのです。でもだめでした。そのことでいささかすねた気持ちになり、口をとがらせたりもしたのですが、この件については自分よりも下田先生のほうがもっと頭を悩ませ、納得できないでいるに違いないということには彼女も思い至らなかったようです。その後も下田先生は考え続けました。あのとき自分の隣にいてピストルを使い、地底アユを一撃で倒してしまったのは一体誰だったのでしょう。  下へ向けた懐中電灯の光の中に浮かび上がったのは、気を失っていたとはいえ確かに正子でした。では正子がピストルを使ったのでしょうか。しかしそれはありそうもないことです。ただの中学生にすぎない女の子が知っているはずのないことばかりだからです。弾そうを引き抜いて弾丸を込め、遊底を動かして弾丸を薬室へと移動させるのです。それだけでなく、正しく狙いをつけて引き金を引かなくてはなりません。一見簡単そうに見えますが、訓練を受けた身でないと実際には不可能なことでしょう。しかも普通の場合ではなく、あのように緊迫した状況だったのです。  地底アユの死を見届け、軽く頬をたたいて正子の目を覚まさせ、下田先生はハシゴを昇って地上へと出ることができました。正子も元気でした。日が暮れる前には家へと送り届けることができたのです。その日、下田先生は正子の家に宿泊し、夜遅くまでお父さんと話し込んでいました。でももう困難は過去のものとなったのです。お父さんの表情に浮かぶ安堵の色を見て、正子もほっとし、下田先生とともに地下でおこなったことを少しばかり誇らしくさえ感じられるようになりました。  もう翌日には正子が住む町を離れ、下田先生は東京へと帰っていったのですが、町を出る直前、羽田家の墓所をこっそりと訪れたことを下田先生は誰にも話しませんでした。墓石に名など刻まれてはいませんが、幼なじみである戦友がここに葬られていることをすでに聞かされていたからです。  8月の終わりですがまだ暑く、丘の上にある墓所には太陽の光が強く降りそそいでいます。木々にはセミたちがとまり、遠慮なく鳴き声を上げています。気候の暖かいこのあたりでは、もちろん東京とはセミの種類が異なっているということに下田先生は気がついていました。下田先生もふるさとはこの町であり、ここで生まれて育ったのです。戦後、成人してからは東京へと出ていったのですが。  羽田和夫が葬られている墓石に下田先生は軽く手をつき、もたれかかりました。このあたりも子供時代の遊び場であり、よく二人でセミやカブトムシを捕まえたものでした。  何分間かじっと体を動かすことさえしませんでしたが、額の汗をふいて墓石に背中を向け、下田先生は歩き始めることができました。彼の心は穏やかで、もう悩みも当惑も感じられませんでした。もちろん下田先生は自分を科学者であると考えていたし、実際もう何年間も地質学者として働いてきたのです。でも今回の出来事を眺め、思いをめぐらせることに不安を感じることはありませんでした。科学者としてもちろん幽霊など信じてはいないし、これからも信じることはないでしょう。だけど、あの洞窟の中で自分は古い友人に出会ったのだと、この瞬間の下田先生は納得できていたのです。
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