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 正子は中学1年生でしたが、おばあさんについては、小さいころからいろいろと思い出がありました。  正子の家は町でも一番の金持ちで、彼女自身はあまり意識したことはありませんでしたが、この小さな町だけでなく近隣のいくつかの町を見渡しても、これほどの金持ちはいないだろうと思えるほどだったのです。経営しているのはお父さんですが、いくつか支店のあるスーパーマーケット、アパートの賃貸、林業や農園、はてはバスやタクシー会社まで手広くやっていたのです。だからお金持ちであっても何の不思議もないのですが、こんな田舎町にだって時代の波は押し寄せてきます。だから以前はやっていたけれど儲からなくなって、もうやめてしまった事業もあるのでした。氷室というのもその一つだったのです。  今と違って昔は電気冷蔵庫が一般の家庭には普及しておらず、暑い夏に食べ物を保存したければ、どこかから氷を買ってこなくてはならなかったのです。正子の住む町は山間にあり、冬にはとても寒くなりました。すると池などにはもちろん分厚い氷が張ることになります。厚さ15センチを超えることだって珍しくないほどです。それをノコギリで切り出してきて、氷室と呼ばれる建物の中に何十トンと積み上げておくのです。  氷室というのはかなり大型で窓がなく、まるで倉庫のような見かけの建物です。でも壁は倉庫よりももっと分厚く、夏でも外の暑さをさえぎることができます。といっても氷が解けるのを完全に防ぐことはできませんが、冬に集めたものが夏までにすべて解けてしまわなければよいのです。半分しか残っていなくても、それでも何十トンという量です。売れば十分商売になるではありませんか。  でも時代は変わり、今ではどこの家にだって冷蔵庫があります。お金を出してわざわざ氷を買おうとする人などいません。だから氷室はもう何十年も使われておらず、正子の家の裏山の奥深く、日の当たりにくい場所にずっと放置されていました。でもなぜか小さいころから、正子はこの氷室に心ひかれるのを感じないではいられませんでした。  おばあさんの部屋には仏壇があり、ご先祖がまつられていましたが、その部屋の壁の少し高いところで、まだ小さいころの正子には顔を真上に向けないと見ることができないような場所でしたが、額がひとつかけてありました。四角い形をしてガラスがはめてあり、写真が飾ってあったのです。サイズは電話帳ほどもあるから、かなり大きな写真といってよいでしょう。白黒の古めかしいものでしたが、黒っぽい制服を着た若い男が写っているではありませんか。 「おばあちゃん、これは誰の写真?」ある日、正子は質問してみました。 「それはおまえの伯父さんだよ」とおばあさんは答えてくれました。 「こんなに若いのに?」写真の中の人物は本当に二十歳前ほどにしか見えなかったのです。『伯父』とは自分の父親と同年輩以上の人々をさすと思っていたから、正子にはひどく不思議に思えました。 「和夫は19歳で死んでしまったからね」 「どうして?」  背伸びをして額を降ろし、手に持たせておばあさんはもっとよく見せてくれました。とてもハンサムな伯父であることに正子が気がついたのは、このときのことでした。彼について、おばあさんはもう少し詳しく話してくれました。和夫はちょうど昭和元年の生まれで、昭和二十年の時点で、あと少しで二十歳に手が届くというところでした。陸軍に入隊し、戦闘機に乗っていたのです。  終戦までもう少しというころですから、そのころにはアメリカ軍はもう戦闘機を日本の本土上空へ飛ばすことだってできるようになっていました。日本の近海まで空母がやってきて、そこから発進してくるのです。そして戦艦でも飛行場でも軍需工場でも、見つけたものは手当たりしだいに破壊してゆきました。でも日本軍だって、それを黙って見ていたわけではありません。戦闘機を飛び立たせ、迎え撃とうとしたのです。その中の一機に和夫は乗っていたのです。空中でアメリカ軍機と一騎打ちとなり、だけど被弾して墜落し、戦死してしまったわけでした。  戦死といっても、それを通知する書類が一枚、軍から送られてきただけで、遺骨が戻ってきたわけではありませんでした。墜落場所が不明だったので、遺骨の収容はあきらめるしかなかったのです。  この話は、正子の心に強い印象を残しました。でもそれ以上に深く刻まれたある思いがありました。どうやら正子は、和夫に恋をしてしまったようだったのです。彼女が生まれる何年も前に死んで、写真でしか見たことがなく、しかも自分の伯父にあたる人です。だけど乙女の心には、それは大した障害ではなかったのかもしれません。  本当にかわいがっていたらしく、写真の入った額を正子が自分の部屋へ持ってゆき、机の上に飾ることはおばあさんも許してくれませんでした。でも写真屋を呼び、写真を複製するように手配してくれたのです。だから数日して正子の勉強机の上にも、小さなサイズのものですが和夫の写真が飾られるようになったのです。  家族の人たちはそれを笑って見ていました。中学生の女の子の気まぐれだと思ったのでしょう。でも正子は本気だったのかもしれません。このことがあってから、正子とおばあさんの間のきずなはさらに深まったようでした。二人がともに大切に感じている和夫を中心にしてのきずなでしょう。でもそんなある日、おばあさんがなくなってしまったのです。  それなりの年齢ではあったので、誰も驚きませんでした。正子も覚悟をしていたのかもしれません。でも本当の驚きは、お葬式がすんだ後にやってきました。始めてみる顔の中年の男がやってきて、「お嬢さん、お話ししたいことがあります」と正子に言ったのです。男は弁護士で、おばあさんの遺産相続の件を担当しており、もちろんすぐに応接室へ通されました。その場には両親も同席していましたが、そこで初めて正子はおばあさんの遺言の内容を聞かされたのです。  遺産の大部分は、当然ながらお父さんが受け取ることになっていました。それはごく普通のことでしょう。でもそこに変わった条項が付け加えられていたのです。なんと廃墟になったあの氷室だけはお父さんにではなく、直接正子に譲られるというのです。  何の役にも立たない施設ですから、氷室の資産価値はそれほどではありません。ただ山の中で立ち枯れているだけのものです。あんなものをなぜわざわざ孫娘に残したがったのか、おばあさんの考えは誰にも理解できませんでしたが、とにかくそういうことだったのです。法的にも問題はなく、すぐに氷室は正子の名義に書き換えられました。弁護士の手から正子が氷室の鍵を受け取ったのは、いうまでもありません。  思いがけず自分のものとなった氷室を訪ねてみようと正子が思い立ったのは、その何週間かあとのことでした。夏休みの最中の暑い日で、町の中と同じように山中だって暑いに違いないけれど、『氷室』という名の涼しげな雰囲気にひかれて出かける気になったのかもしれません。麦わら帽子をかぶり、物置から自転車を引っ張り出したのです。  きつい坂道を登って、それでも15分ほどで着くことができました。町の中よりも標高が高く、山影でもあるけれど、暑いことに変わりはありませんでした。日差しの強さに、あちこちでかげろうが立ち昇るのが目に入るほどです。自転車を止め、正子は氷室の高い屋根を見上げることになりました。ひさしは深く長く、彼女の上におおいかぶさるようです。トラックを横付けして氷の出し入れをしたのでしょう。正面には幅の広い大きな扉があり、しっかりと鍵がかかっていますが、そのキーがいま正子の手の中にあるのです。  さび付いているかもしれないと思っていましたが、キーを差し込むと鍵は意外にもパチンと開いてくれました。あまりにもあっけなく、少し奇妙な感じがしなかったわけではありません。でも両手をそえ、全身の力を使って、正子は扉を開き始めたのです。  氷室の扉は二重構造になっていました。だからもう一枚が正子を迎えてくれたわけですが、もちろんこのキーもポケットの中に入っていました。風雨を受けていないぶん、この扉はもっと簡単に開くことができました。  もう何十年も使われていないのだから氷室の内部は空っぽで、何もないはずでした。正子だって、何かがあることを期待していたわけではありません。窓すらない建物だから、入口から差し込む光以外は真っ暗であるに違いないと思っていたのです。でも正子の予想は大きく裏切られることになりました。真っ暗どころか、氷室の内部は明るかったのです。  その光がどこからやって来ているのかはすぐにわかりました。屋根が破れ、大きな穴が開き、そこから外の日差しが降り注いでいたのです。  はじめ正子は、自分が何を見ているのかなかなか理解することができませんでした。あたりが暗いからではなく、光は十分にあるのですが、あまりにも意外なものだったからです。一機の飛行機でした。  墜落して屋根を突き破っているのですが、氷室全体を破壊するにはいたっていませんでした。だから大きな飛行機だったのではありません。せいぜい一人乗りで、色は濃い緑に塗られ、翼と胴体には丸い円のマークが赤く描かれているのです。日の丸に違いありません。  こんなに小型の飛行機で敵と戦ったのかと、正子も少しばかり感慨を感じないではいられませんでした。もちろんジェット機ではなく、機首にはプロペラがついているのです。墜落のショックで風防ガラスはすべてなくなっていますが、幸運にも炎上することはなかったようです。だけどものすごいスピードで衝突したのは間違いありません。屋根だけでなく、氷室の床にも大きな穴が開き、この戦闘機はその中に半分ほどめり込んでいるのでした。  おばあさんがなぜ自分にこの氷室を譲ってくれたのか、それまで正子も不思議に思っていなかったわけではありません。何人かいる孫たちの中でも、特に正子がおばあさんとは親しかったというのは事実でしょう。だけどその親しさと氷室とは、正子の頭の中でも結びつくことはありませんでした。それ以外に言えそうなことといえば、おばあさんも正子も伯父の和夫に対して特別な親愛の情を感じていたということでしょうか。  このことに思い至ったとき、正子はまた違った目で戦闘機を眺める気持ちになりました。ある考えが思い浮かんだのです。どうしたらそれを確かめることができるだろうと、正子は考え始めました。「家の表札のように、戦闘機の機体にもパイロットの名前が書いてあったりはしないものだろうか」と正子は思いました。そして探し始めたのです。  穴の上に宙ぶらりんに引っかかっているだけなので機体はひどく不安定で、よじ登ることなどもちろん不可能でした。そんなことをしたら、正子がもたらす重みや揺れで、いつ下へ落ちてしまうかわかったものではありません。少し奇妙なことでしたが、地中に開いた大きな穴の上にこの氷室は建てられていたのです。そんな穴の存在など、きっと誰も知らなかったのでしょう。ここの地面の下には数メートルの厚さを残して、ずっと昔から空洞のようなものがあったのだけど、それを知らずに氷室を建ててしまったようです。でも地面の上からは何も見えないのですから、無理もありません。  だけどある日、その上に飛行機が落ちてきたのです。屋根を突き破り、床に激突し、地下の空洞にまで届く大穴を開けてしまったのです。  しばらく探し回って、とうとう正子は伯父さんの名を機体に見つけることができました。翼の付け根のわかりにくい場所ですが、ペンキで小さく『羽田和夫』と書かれていたのです。それが担当パイロットの名だったのでしょう。これが伯父さんの乗機であったということは、伯父さんは戦死場所が不明だというのではなく、敵弾を受けてこの場所、つまり自分の家が所有する氷室の真上に墜落してしまったということになります。伯父さんが所属していた航空隊はここから程遠からぬ町にあったということでしたが、それにしてもなんという偶然なのでしょう。  この残骸を目にして、正子は何を感じたのでしょう。恐ろしさ? 悲惨さ? いいえ、奇妙に聞こえるかもしれませんが、ほっとする安堵だったのです。胸をなでおろす感じといえばいいかもしれません。伯父さんはどことも知れない山中で死んだわけではなかったのです。もちろん軍には内緒ででしょうが遺体は回収され、火葬され、もうずっと以前から羽田家の墓所におさまっているのに違いありません。  墜落場所が自分の家が所有する氷室であったことをなぜおばあさんは軍に届け出なかったのか、その理由は想像してみるしかありませんでした。よく見ると残骸には敵機から受けた弾の跡がいくつもあり、それが墜落の原因になったことは間違いありません。家恋しさに戦闘機を奪って脱走し、ふるさとへ向かって飛行中だったということではないでしょう。墜落したのがここであったというのは、本当に万に一つの偶然でしかなかったのです。  でもあの時代の出来事です。「羽田和夫は弱虫だ」と世間から思われてしまう可能性があったかもしれません。それは真実ではないし、それ以上に、そんなふうに思われてしまうことが羽田家の人々にとっては耐え難かったのでしょう。だから墜落のことは誰にも話さず、これまでずっと秘密を守り通してきたのです。正子はそう納得することができました。その後も5分か10分の間、正子は立ったまま戦闘機を眺めていました。何年ものあいだ風雨にさらされ、あちこち色がかすれ始めています。ペンキがはげたその下に、アルミのフライパンのような白い金属の地肌が顔を出しかけているのです。  それでもとうとうため息をつき、正子は歩き始めることにしました。いつまでもここにこうしていることはできないからです。だけどそうやって足を動かしかけた瞬間、どきりとして、正子は心臓が口から飛び出してしまいそうな気分を味わうことになりました。氷室の中に突然誰かの声が響いたのです。男の声で、なんと戦闘機の下に開いている穴の中から聞こえてくるではありませんか。 「そこにハシゴがあるだろう? 足を滑らせないように気をつけて、正子も降りておいで」  声は親しげにそんなことを言ったのですが、正子は奇妙な思いを感じ始めていました。どこかで聞き覚えのある声だったからです。 「正子、こっちだよ」同じ声が再び聞こえました。声の主の正体については、もう正子も気がついていました。お父さんの声だったのです。 「お父さんなの?」 「そうだよ、正子」  首を伸ばして見下ろすと、穴の底にいる人物と目を合わせることができました。たしかに正子のお父さんで、こちらを見上げて、にっこりと笑っているのでした。  もちろん正子は言われた通りにしました。穴の底で合流するとすぐにお父さんは歩き始めたので、彼女も着いていったことはいうまでもありません。このときまで気がつかなかったのですが、これはただの穴や空洞ではなく、なんと洞窟だったのです。氷室の破れた屋根から太陽の光が差し込んでいますが、それで照らされているのは一ヶ所だけで、その前後に真っ暗なトンネルが続いているのが見えるのです。自動車が通れるほど大きくはありませんが、正子が窮屈さや息苦しさを感じるほど狭くはありません。懐中電灯を手に、お父さんは壁を照らしてくれました。  白っぽい岩でできていて、ぬれたようにつやつや光っています。鍾乳洞の一種らしく、ツララのような形の石が天井からいくつもぶら下がっています。「お父さんはどこからこのトンネルに入ってきたの?」正子は口を開きました。 「お父さんは家からきたのさ。このトンネルは山の真下をずっと通って、家の地下までつながっているのだよ」振り返り、お父さんは懐中電灯で背後を照らしてくれましたが、もちろん届くはずはなく、光は暗いトンネルの中に消えてしまっています。 「家のどこから?」  前を向き、お父さんは再び歩き始めました。「もちろんカラ井戸の底さ」 「ああ、あそこ」正子はうなずきました。正子の家は庭が広く、木もたくさん植えられ、それだけでなく今では使われていない建物などもあったのです。井戸跡もその一つで、水はとっくになくなっていたのですがまだ形は残っており、「危ないから絶対に近寄ってはいけない」と言われながら正子は育ってきたのでした。 「カラ井戸のフタは、鍵を開けると取り外すことができるようになっていてね。そうするとハシゴが顔を出すのだよ」お父さんは言いました。 「それを降りるとこのトンネルに出るのね」 「その通りだよ」 「でも、どうしてこんなトンネルがあるの?」 「それを今から正子にも教えてあげるよ」  懐中電灯の光しかない真っ暗な中を、正子とお父さんは歩き続けました。やがて水音が聞こえてくるようになったのは2、3分たったころのことでした。トンネルは何度かグネグネと曲がり、戦闘機の開けた穴から漏れてくる光など、振り返ってもとっくに見えなくなっていました。  水音といっても、ポタンポタンとたれる音ではありません。かといって流れる川のようなのでもなく、ピチャピチャさわさわという音なのです。耳にして、沼か池の水面を正子は連想しました。懐中電灯の光の中に水面が見えてきたのはそのときのことでした。  石の床が終わり、水がきらきらと光を反射するのが目に入ったのです。トンネルは少し広くなり、もうここではかなりの横幅があります。水面はその中央に丸く広がり、信じられないほど透明な水なのですが、岸を離れるとまるで切り立った崖のように水底はずんずん深くなり、見通そうとしても底などとても見ることはできません。ただ暗いばかりで、何にも反射することなく懐中電灯の光は水に吸収されてしまうのです。ぞっとするような眺めで、正子は思わず身震いをしないではいられませんでした。岸辺に立ち、最初に浮かんできた疑問を正子は口にしました。「この水はどのくらい深いの? トンネルはここで行き止まりなの?」 「深さはわからない。ほとんど底なしといってもいいだろうね。洞窟はこの先もずっと続いているのだが、この地底湖があるせいでこれ以上先へ進むことはできないのだよ。だから深さだけでなく、トンネルがどこまで続いているのかも見当がつかないんだ」  お父さんが懐中電灯を向けてくれたので、正子は水面の終わりを見ることができました。そこには垂直な岩壁があるのですが、お父さんの言うとおり水で満たされ、岸辺も床も見ることはできません。潜水服か潜水艦でもない限り、トンネルの先へ進むことは不可能なようでした。「ここへ何をしに来たの?」正子はお父さんを振り返りました。 「正子、よくごらん」  お父さんが突然かがんだので、正子は少し驚きを感じました。でも大したことではなく、お父さんはただ懐中電灯を水面に近づけただけだったのです。そうやって今まで見えていなかった部分を照らしてくれたのです。  水の中が明るく照らし出され、クリスタルガラスのような水の美しさに、正子はもう一度息をのみました。でも彼女を本当に驚かせたのは、そのことではありませんでした。光はあるものを突然照らし出し始めていたのです。  こんなに奇妙な物を、正子はそれまで一度も見たことがありませんでした。魚の一種であることは間違いないでしょう。泳ぐことに適した流線型の体をしているし、尾びれや胸びれ、背びれだってあります。 「正子、私たちの家がどうして今のような金持ちになったか、知っているかい?」お父さんが突然言いました。 「知らないわ」 「何百年も昔のことだが、羽田家は、殿様や町の人たちにとても味のよいアユを提供することができた。アユを売る商売をしていたのだよ。そのおかげさ」 「アユって、魚のこと?」 「そうさ。家の少し南に川があるだろう? あそこで取ったアユだということにしてあったが、本当は違うんだ。羽田家のアユは川で取ったものではなく、実は養殖魚だったのだよ」 「アユって養殖することができるの?」 「現在では可能だが、江戸時代には不可能だった。だからこそ大もうけができたのだよ。ごらん、ここの水はガラスのように透き通っている。夏でも涼しく、真冬でも水は適度に温かい」 「エサはどうしたの?」 「もちろん家から運んできたさ。このトンネルを通れば誰に見つかることも、怪しまれることもなかった」 「本当にそんなことをしていたの?」 「そうさ。そうやって羽田家は大きくなっていった。だがそれもいつまでも続くわけではなく、明治のはじめごろからは商売を変えることになった。それ以来この地底湖は見捨てられていたのだが、理由は正子にもわかるだろう?」 「そうね」正子もうなずくしかありませんでした。そしてもう一度懐中電灯の光を追いかけ、魚たちの姿に目をこらすことになったのです。  これが元はアユであったとは、正子にはとても信じることができませんでした。第一に体の大きさがまったく違うのです。小さなものでも1メートル以上、大きなものだと彼女の身長の2倍ほどもあるのです。胴体は丸っこく、でもあちこちが出っ張って、戦車のようにゴツゴツしています。頭などはまるで西洋の騎士が身につけるカブトのようではありませんか。わずかにアユらしいなごりといえば、優雅な形で二つに分かれた尾びれぐらいですが、これにしたって他のヒレと同じように鋭いトゲを生やし、なんだか凶暴な印象です。  そして最大の特徴は、この魚には目がないことでした。本当にすっかり消えてしまい、ヨロイのような頭にはかすかな跡すらないのです。そういう形の魚が何匹か水底に沈み、ゆっくりとエラを動かしているのでした。口をぽかんと開けている正子の表情に気がついたのでしょう。お父さんが言いました。「洞窟の中は真っ暗だから、目など必要ないのだろうね」 「でもそれ以外の体の変化はどういうことなの? ただのアユが、たった何百年かで、これほどの変化をしてしまうものなの?」  お父さんは少しため息をつきました。「それはお父さんたちにも少し不思議なんだ。だがある人の推測では、人類の知らないある種の魚がこの地底湖には何万年も前から住み着いていて、しかし私たちの祖先は、もちろん何も知らずにアユを放して飼いはじめた。いいかい? この洞窟がこの先いったい何キロ続き、どこまでつながっているのか、どのくらいの量の水をたくわえているのか、誰も知らないのだよ。そこにはどんな奇妙な魚や生物がひそんでいるか、わかったもんじゃない。その未知の魚とアユとが出会い、交配し、雑種ができていったのだと思う。二種類の魚の性質が混じった新種が出来上がったのさ」 「それがあのおかしな魚なのね」正子は指さしました。でも魚たちは、正子やお父さんには何の関心もないようです。相変わらずじっとして、口とエラを動かしているだけです。「目がないから懐中電灯の光にも反応しないのね」 「そうさ。昔は近寄ってくる人の足音を聞きつけて、何十匹も集まってきたものだそうだが。人が来るとエサがもらえるとわかっていたからね。でもエサなどもう100年以上やっていない」 「それでも生き続けているんだわ」 「どこかで何かのエサを取って、それを食べているのだろうね。それが何なのかまったくわからないし、あの魚が何匹ぐらいいるのかすら見当がつかないのだがね」  だけどこれ以上、お父さんにも言うことはないようでした。正子と一緒にそのまま回れ右をして、家へと帰ってきたのです。戦闘機の発見にしろあの魚のことにしろ、印象深い経験ではあったけれど、正子にとってそれほど大きな出来事ではなかったのかもしれません。ときどき思い出すことはあっても、数日の間は何事もなく過ぎていったのです。でもそれも、あのニュースを耳にするまでのことでしかありませんでした。  お父さんが経営している会社の事務所は家の中にあったので、そこで働く人たちと顔を合わせるのは、正子にとってはいつものことでした。新三郎という人がその中にいて、短く刈った髪が白くなりかけた中年の男でしたが、ある朝、顔を見るなり正子に話しかけてきたのです。「お嬢さん、あの話をお聞きになりましたか?」 「なんなの?」事務室のすみの空いた机について夏休みの宿題を片付けようとしているところでしたが、正子は顔を上げました。この時代、クーラーのある家庭はまだ珍しく、正子の家でもこの部屋にしかなかったのです。 「昨日の夜、ダム湖で花火大会があったでしょう? あそこで奇妙なことが起こったんです」 「事故でもあったの?」正子が住む町から見れば隣町になりますが、ある谷を横切る形で新しい大きなダムが作られていたのです。谷の中央を流れる川をせき止めて水をため、ダム湖と呼ばれる湖ができました。その完成を祝って昨夜、花火大会が行われたのです。人が何千と集まる大きなイベントだったのですが、面倒くさがって正子の家からは誰も見に行きませんでした。でも新三郎は出かけたのです。 「へえ」新三郎は話しはじめました。「昨夜は大層なひとでで、一万人は下らなかったかもしれません。打ち上げられた花火は大小合わせて2500発。そりゃあ見事なものでしたよ。お嬢さんもお出かけになればよかったのに」 「それで何が起こったの?」 「ほとんどの見物人はダムのてっぺんやら、まわりの土手によじ登って見物しておりました。かくいうワシもその一人でしたがね。だけど気のきいた連中は、そんな場所で人ごみにもまれるようなことはしません。ダム湖にボートを浮かべて、それに乗って見物としゃれこみました。頭のいいやり方だと思いますね。でも問題は、花火の打ち上げが全部すんだ後のことでした」 「何が起こったの?」 「何も起こらないんですよ。ボートが岸にこぎ寄せてこないんです。浮かんでいる姿が見えるどころか、近寄ってくる気配すらない。土手の上の見物人たちはもうみんな帰りじたくを始めているというのにです。不審に思った者たちが、懐中電灯を使って湖面を探し始めました。光をいくつも集めて、広い湖面を照らして回ったんです。するとボートはすぐに見つかりました。湖の中央あたりをポツンとただよっていました。奇妙なのは、その上には誰も乗っていないように見えることでした。『おーい』と岸にいた連中が呼びかけてみたのはいうまでもありません」 「それでどうなったの?」 「どうもなりませんでした。返事もないし、ボートの上にはやはり人影一つないのです。無人のままただよっているんです」 「乗っていた人たちは?」 「こりゃおかしいというのでもう一つボートが用意され、岸からこいでゆくことになりました。たまたまそばにいたので、ワシもそれに乗り込んだのです。他の何人かと一緒にオールを使い、湖の中央へと急いだわけです。だけど行ってみても、やはりボートの中は空っぽでした。横付けしてワシたちは乗り移ったのですが、本当に一人もいないんですよ。12、3人は乗っていたはずなんですがね。食べかけの弁当やジュース、ビールの空きビンなどが転がっていました。花火の打ち上げが始まったときまで人が乗っていたことは間違いありません。目撃者はたくさんいますから。でも花火が終わってみると、もう一人の姿も見えなかったというミステリーですから」 「その人たちは今も見つかっていないの?」 「そうです。警察が呼ばれて調査がされましたが、何もわかりませんでした。水に落ちたにしても十人以上が一度になんて変だし、弁当やその他のものはそのまま残っているわけだから、ボートが転覆したということも考えられません。もしそうなら、弁当類も一緒に水に落ちるでしょうから」 「そうね」正子はうなずきました。 「結局何もわからないまま、警察も引き上げるほかなかったんですが、ボートの上で奇妙なものが発見されたんですよ」 「何なの?」 「ほら」ポケットに手を入れ、新三郎は取り出して見せてくれました。「何枚も落ちていたから、一枚ぐらいかまわないだろうともらってきたんですがね。残りはもちろん、警察が全部集めて持って帰りましたよ」  それは一体何だったと思います? 手のひらの上に乗せられ、正子は目を丸くすることになりました。銀色をした魚のウロコだったのです。でもその大きさが問題でした。とてもじゃないけど普通の魚のものとは思えません。直径は10センチを越え、正子の手のひらからだって、はみ出してしまうのです。だけど形といい色といい、セルロイドの下敷きのような手触りといい、やはり何かの魚のウロコとしか考えられません。 「大きなウロコね」そういいながら正子は新三郎の手に返しましたが、それと地底湖で見たあの魚のことが頭の中で結びつくことはまだありませんでした。結びつくには、事件がもう一つ起こるのを待たなくてはならなかったのです。  この年の夏は前線が長くいすわり、雨の日が多く続きました。花火大会の夜にボートに乗っていた人々のうち、誰ひとり発見されることはなかったのですが、時間がたつと事件そのものもゆっくりと忘れ去られていくようでした。でも警察は何もしないわけにはいきません。ボートをいくつも出し、大きな網を使って行方不明者の捜索を続けていたのですが成果はなく、とうとうダム湖の水をすべてぬいてしまうことになったのです。これは農業用と発電をかねたダムであり、本当は水をぬくなどとんでもないことなのですが、こういう事情だから仕方がありません。放水ゲートが大きく開かれ、まるで巨大な霧吹き器のようにして、ダムは水を下流へと噴き出しはじめたのです。  1分間あたり何十トンという量だったことでしょう。ダム湖の水位はゆっくりと下がってゆきました。新三郎に誘われて、正子もその様子を見物していました。本当はある町へ荷物を届ける用事があり、新三郎が小型トラックを運転して行くことになったのです。そのときに「お嬢さんも一緒に行きませんか」と誘われ、家の中のあまりの暑さと風通しの悪さにうんざりしていたこともあって、正子は首を縦に振ったのでした。  トラックが走ると、開いた窓からは涼しい風が吹き込んできます。髪をなびかせて正子はいい気持ちでしたが、帰り道にたまたま近くを通ったので、物見高い新三郎が「ちょっとダムに寄ってみましょう」と言い出したのです。  コンクリートの壁から吹き出す水は、たしかに涼しげな眺めではありました。新三郎はダムのてっぺんにトラックを止めたのですが、風に乗って吹き上げてくる水滴がポツポツと頬に触れ、くすぐったいような気持ちになります。太陽の光を受けて虹ができ、あまりにもあざやかなので思わずため息が出そうです。何分かして何気なく振り返り、ダム湖の水がもうずいぶんと減ってしまっていることに正子は気がつきました。  本格的な捜索は、水がゼロになってから行われるのでしょう。警察官の姿はまだ一人も見ることができませんでした。目分量でしかありませんが、水がすべてなくなるにはあと一日はかかりそうな感じです。それでもすでに湖底がかなり姿を現しかけています。水没していた山の斜面は、草や木がすべて枯れ、まるで真冬の山中のように、枝と幹しかない丸裸の木々が何十と立っています。ついには道路や村の建物までが顔を出し始め、泥とホコリで茶色に染まり、ここから見るととても小さくて、まるで子供が粘土で作ったおもちゃのようにしか見えません。  湖の水は、もう元の面積の三分の一もありません。渓流から流れ込む水ですから、にごってなどおらず、かなりの深さまで見通すことができます。そしてこのとき、水中に揺らめく無数の巨大な影に気がついて、正子がどれほど驚いたことか。  はじめは目の錯覚かと思えたのです。でも目をこらし、本当に見えているのだと納得することができました。ソーセージのように細長いもので、たしかに黒っぽいのですが、動くにつれキラリと銀色に光を反射する瞬間があります。「あれは何かしら?」と正子が思わず大きな声を出したのはいうまでもありません。 「おお」もちろん新三郎もすぐに気づきました。「こりゃあたまげた。あれではまるで、ウナギ屋の店先のようじゃありませんか」  言われてみれば、確かにそうではありました。ウナギ料理を出す店では、生きたウナギを業者から仕入れ、お客さんの注文に応じておなかを裂き、料理してテーブルに出すのです。その店先では、生きたウナギたちがよく大きなオケの中にまとめて入れられているのですが、まるで黒くて太いスパゲッティのようにうごめき、何十匹もがぬるぬるとからみ合っているところは、あなたも見たことがあるでしょう。水がなくなりかけているダム湖の底で起こっている光景は、確かにそれによく似ていたのです。  おかしな場面でおかしなことを思いつく新三郎に正子は思わず笑ってしまいそうになりましたが、そんな場合ではないということをすぐに思い出しました。ダム湖の底に見えているあの魚たちのサイズときたら、どういうことでしょう。花火大会の夜に起こった事件の犯人は彼らに違いありません。あの体でもって大きくジャンプし、一人ずつか、あるいは2、3人まとめてだったかもしれませんが、ボートの上にいた人々を次々に水中へ引きずり込んだのでしょう。岸の人々はみな上を向いて花火に注目していたわけですから、目撃者がいないことも納得できます。引きずりこまれた人々がどうなったか、その後の運命を想像するのは難しいことではありません。  ダム湖に見えている怪物魚たちと、地底湖で見た地底アユのことが正子の頭の中で結びつくには一秒もかかりませんでした。大きさには数倍の違いがありますが、二つは同一の魚に違いありません。どちらも目を持たないし、カブトのような頭の形、ウロコの模様やヒレの形にまで見覚えがあります。たしかに地底アユは、あの洞窟の中にしかいない魚です。百年間もあそこにひそんでいたに違いありません。でもある日、何も知らずに洞窟の上にダム湖が作られました。これだけの量の水がドスンと乗っかったのです。何万トンという重さに違いなく、ならば地面のどこかに穴やひび割れの一つや二つ、できてしまっても何の不思議もないではありませんか。  このころには正子や新三郎だけでなく、ダムの職員たちももちろんダム湖の異常な光景に気がついていました。あんなに巨大な魚など、この世の誰も目にしたことがなかったのです。甲高い音でサイレンが鳴らされ、職員たちがやってきて、トラックを移動させるようにと新三郎と正子に言ってきました。ここはあの魚たちにあまりにも近く、何が起こるか想像もつかないからです。そういえば、魚たちがあの体や尾の先でドスンドスンとたたくからでしょう。ダムの本体がゆらゆらと振動するのだって感じることができました。  新三郎がエンジンをかけ、正子を乗せてトラックはすぐに動き始めたのですが、正子の胸の動悸はなかなかおさまってくれませんでした。ダムを遠く離れても正子は不安なままで、心臓は今にも口から飛び出していってしまいそうなほどドキドキしており、ゆっくり鼓動することなどもう二度とないのではないか、という気までしてくるほどでした。 「たまげましたねえ、お嬢さん」と気楽そうに新三郎から話しかけられることさえ、正子には苦痛でした。「ダム湖にあんな怪物がいやがるなんて、誰も夢にも思いませんや。あれお嬢さん、どこかご気分でも悪いんですか?」 「ううん」と正子は首を横に振りましたが、それがウソだったことはいうまでもありません。  けれど正子の不安も、家が見えてくるころにはおさまってくれたようでした。汗をふいてトラックを降り、正子は家の中へと駆け込むことができたのです。でもそのとき、応接室の中の様子が偶然ドア越しにちらりと目に入ったのですが、深刻そうな顔をしてお父さんがイスに座り、誰かと話している姿が見えたのです。相手も男の人で、お父さんよりは年上に見えます。正子にははじめて見る顔で、口のまわりに濃いひげを生やしているのが目に付きます。この人も深刻そうな表情を浮かべていますが、足音に気づいて顔を上げ、正子に向けてお父さんが手招きをしたのはそのときのことでした。  少しびっくりしましたが立ち止まり、歩く方向を変えて正子は応接室へと入っていったのです。さっそくお父さんはその人を紹介してくれました。東京の大学で働いている有名な学者で、名前は下田先生というそうでした。 「実はね、正子。下田先生にはあの魚の件で来ていただいたのだよ」お父さんが言いました。 「花火大会の夜の事件のことさ」下田先生も口を開きます。 「新三郎さんが見つけたウロコは見ましたか?」目を丸くして、正子は言いました。 「ここにあるよ」テーブルの上に置いてあったのをつまみ上げて、下田先生が見せてくれました。「お父さんに案内されて、私もさっきあの洞窟の中を見せてもらったよ。だから心配しているのさ。あの魚がもし地上に現れたりしたら、大変なことになる。もしかしたらあの花火大会の事件も…」 「もう遅いわ」正子は思わず大きな声を出してしまいました。 「どうしてだね?」  新三郎と一緒にダム湖へ行き、そこで目撃したことを正子はすべて話しました。お父さんと下田先生の顔色がみるみる変わっていったのはいうまでもありません。  その夜、正子はラジオでニュースを聞きました。言うまでもなく、日本中がダム湖の異変のニュース一色だったのです。湖面は強力なサーチライトで照らされ、レポーターや記者たちが集まり、警察官や自衛隊員と一緒に監視を続けていました。県知事の要請を受けて、自衛隊までが出動していたのです。正子の家の前の道路だって、濃いグリーンに塗られた戦車が何台もごうごうと駆け抜けていくほどだったのです。  プラモデルでしか見たことのない本物の戦車を目にして、正子の弟は大はしゃぎをしていましたが、もちろん正子はそんな気持ちにはなりませんでした。この大事件が羽田家の責任であるような気がしていたのです。何百年も昔のこととはいえ、あの地底湖にアユを放したのは正子の先祖なのです。そのアユが変化をとげ、あのような怪物が生まれてしまったのです。正子と同じように感じているからこそ、お父さんも下田先生を東京から呼んだのでしょう。  この夜は遅くまで起きて、正子はラジオに耳を傾けていましたが、真夜中ごろ新しいニュースが入りました。なんとあの魚たちがダム湖からすべて姿を消してしまったというのです。ついさっきまでは何匹もいて、浅くなってしまったダム湖の水面をまるで煮えたぎるナベのように波立たせていたのですが、気がつくと静かになり、波も魚たちの影ももうすっかり見えないのでした。警察官や自衛隊員たちもあっけにとられていたに違いありません。サーチライトを動かし続けたのですが、何も見つけることはできませんでした。  真相が明らかになったのは日が高く昇り、ダム湖の水がさらに減ってからのことでした。もう湖底の泥の上を人が歩けるほどになっていたのですが、その泥の中央に大きな穴が開いているのが発見されたのです。それこそ汽車のトンネルほどのサイズがあり、泥の中央に、まるであくびをする巨人のように大きく口を開いていました。穴の内部にはまだ水が残っているのですが、にごっているせいで見通すことはまったくできませんでした。でも、この中をあの魚たちが通っていったのは明らかではありませんか。この穴は地底湖につながっていて、そもそも魚たちはこの穴を通ってダム湖へとやってきていたのでしょう。  このニュースを聞き、新三郎はあきれた声で言ったものでした。「なんのことはない。やつらは地の底からやってきて、食事をして腹がいっぱいになったからまた帰っていった、というだけのことでさあね」  まったくその通りなので、正子は何も言う気になりませんでした。  でも地底アユたちは、その後も地底でおとなしくしていてくれるつもりはないようでした。まだまだ被害が続いたのです。付近の河や湖だけでなく、40キロ以上離れた海岸にまで地底アユが姿を現したのには、誰もがひどく驚きました。淡水だけでなく、海水にも適応できることが証明されたわけです。さらに驚くべきは、地底アユのいる洞窟はまるで都会の地下鉄線路のようにして、あちこちの水系とつながっているということです。人間が知らないだけで、あらゆる河や湖の底にはチクワのように大きな穴がぽこぽこと口を開け、トンネルが縦横無尽につながっているのに違いありません。そうとでも考えないと、地底アユたちがまるで忍者のようにあちこちに出没できる理由が説明できません。  でもここで、地底アユたちがもたらした被害について詳しくお話しするのはやめておきましょう。ただ一ついえるのは、正子にとって少しばかり心が安らいだのは、花火大会の夜以降、一人の犠牲者も出ていないということでした。地底アユたちは養殖場を襲い、ハマチやタイを根こそぎにするようになったのです。人間よりもそういった魚たちのほうが味がよく、襲うのも容易だと考えるようになったのかもしれません。  驚くべきことは、川や湖からも遠い場所にあったマスの養殖池までが同じように襲われたことで、数百メートルの距離なら地底アユたちは土の上をはって歩くことができたのです。彼らが通ったあとは地面が掘り返され、まるで大型のトラクターが走ったかのような眺めでした。  正子だけでなくお父さんも相当悩み、警察に真相を話してしまおうかという気持ちになり、そのたびに下田先生からとめられるということを繰り返していました。 「あんたたち一家に責任があるとは私は思わないし」と下田先生は言ったものでした。「もし何がしかの責任があったとしても、もう何百年も昔のことだ。とっくに時効になっているよ」  その後、下田先生は東京へ帰っていきましたが、絶えず連絡は取っていました。その間も地底アユによる被害はポツポツと出ていたのですが、その神出鬼没ぶりには警察も自衛隊も手を焼いていたのです。でもとうとう、地底アユにも最後の日がやってきたようでした。  だけど正確には警察や自衛隊が退治したのではなく、地底アユたちが勝手に死んでしまったというべきかもしれません。ある川の河口に近いあたりでしたが、ある日おなかを上に向け、プカプカと浮いている姿が発見されたのです。おそるおそるボートがこぎ寄せられましたが、みな完全に死んでいて、足でけろうがオールでつつこうが、ピクリともしませんでした。すぐに数がかぞえられ、20匹いることが確認されました。  これまでの事件を目撃した人々の証言から、地底アユは全部で20匹存在するのだということがわかっていました。ということは、あまりにあっけない幕切れですが、巨大な地底アユたちはこれですべて死んでしまったということになります。  もちろん新聞はこのニュースを大きく取り上げ、日本中がほっと安心することになりました。怪物たちはみな死んでしまったのです。  でも正子やお父さんたちはまだ安心できませんでした。氷室の下のあの地底湖で、あの20匹とは別のもっと小さい地底アユたちを見ていたからです。20匹が死んでも、小さい地底アユたちがいずれ大きく成長して、また同じ災害を引き起こすかもしれないではありませんか。  死体で見つかった20匹はもちろん引き上げられ、解剖用メスの代わりに大きな包丁を手にした学者たちの手で解剖が行われましたが、暑い季節で腐敗が進んでいたこともあって、死因はよくわかりませんでした。病気を持っていたようにも毒物を食べたようにも、何かの敵に襲われたようにも見えなかったのです。それでも怪物が死んだことは確かでしたから、死因が何であれ、それで十分ではないかというのが日本中の人々の気持ちだったようです。
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