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一週間後、アウリルはベーリッツ伯の城に到着した。
脇道ばかりを選んだのが幸いしたか、追手に追いつかれることは一度もなかった。
南下の最中、宿屋に立ち寄るたびにそれとなく聞き込んでみてもザクセン伯の噂は流れておらず、どうやら伯爵家は主人の横死をうまく隠しているようだった。暗殺の内部混乱が収まればレオンハルトは“病死”とでも公式発表され、同母の弟が跡を継ぐに違いない。
指揮官の『オヤジ』に聞いた話では、アウリルの帰還が遅すぎることに伯爵はたいそう不機嫌だったという。それでも蛇よりも執念深い彼からくどい文句が出なかったのは、任を果たした結果を主人なりに評価したからなのだろう。
他方、クルトはハノーファーから帰って来たとき、アウリルの変貌に言葉を失った。
毬が弾むような無邪気さを見せていた美貌からは、かすかな笑みさえも完全に喪われていた。
花が咲き乱れる春の庭園のように明るかった双眸は真冬の空よりも曇り、黒く濃い睫の下に伏せられがちになっていた。
愛した男を殺したと同時にアウリルは自らの心をも殺してしまったのだとクルトは察さざるを得なかったが、あまりの痛々しさに慰めの言葉も見つけられなかった。
「クルト、アウリルはどうしちまったんだ。怪我したわけでも、しくじったわけでもないのに」
他の弟分たちが心配して物陰で訊ねて来るたびにクルトは言葉を濁していたが、アウリルが負った心の傷は簡単に癒えるような浅さではない以上、いつまでも誤魔化しきれるものでもない。
ついに事情を一から説明した。
アウリルがベーリッツ伯の刺客であると百も承知で、ザクセン伯が寝室に誘ってきたこと。
夜を重ねるうちに、アウリルは同性の彼にいつしか真剣に想いを掛けてしまったこと。
しかし遅延によるベーリッツ伯の不興をクルトから伝えられ、当初の命令通りザクセン伯を暗殺したこと。
心に逆らった行動の結果、アウリルの精神はぼろぼろに打ちひしがれ、感情を失くしてしまっていることを。
皆の反応は嫌悪や軽蔑による拒絶どころか、クルトと同じ憐憫であった。
美しい容姿を持ちながら、ベーリッツ伯に引き取られる十代後半まで孤児としてしたたかに巷間を生き延びてきた青年たちである。その間に男女を問わず大人の汚い二面性、非情さ、肉欲、嘘というものを嫌というほど見聞きして体験してきた自分らとアウリルでは、人との関係や交わりに対する姿勢は異なって当然だ、と語りあった。
「俺たちは、どんな美女だろうと生まれのいい貴族の奥方だろうと一皮剥けば、ってのはあったからな」
「ああ。だからのめり込まずに済んだし、奥方を騙した結果がどうなろうとどうでも良かった」
「でも、アウリルはな……親父さんお袋さんに、ちゃんと育てられて来てたからな」
重い溜息と共に異口同音に語られる述懐を聞いて、遅かれ早かれ、いつかは起こる悲劇だったのかもしれないとクルトは痛感する。
きっかけとなる相手が同性のザクセン伯であったのは単なる偶然というだけで。
逆に云えば自分たちがこの年齢まで心を破壊することなく生き延びて来られたのも前歴ゆえの必然であり、身分社会への意趣返しという側面もあったからなのだろう。ベーリッツ伯は当然そこまで深謀を巡らせていたわけではなく、単に後腐れのない孤児を拾い上げていたに過ぎないのだが。
とにかくアウリルの心を出来るかぎり乱さず、自死にも走らないようそっと見守ろうとクルトが言い渡すと、弟分たちも頷いた。
以後も毎日、アウリルはただ呼吸して生きているだけだった。
物を考えることも出来ず、任務にしても簡単な類しかこなせないのは明白で、仲間が肩代わりしてくれた。
そして毎晩夢を見る。レオンハルトの夢を。
笑っている彼、眠っている彼。
そして胸に短剣を突き立てた自分を見上げる、あの哀しそうな瞳……
剣で彼を刺したときの生々しい手応えが、未だに掌から離れない。
誰よりも逢いたい面影のはずが罪悪感のあまり夢で彼に出会うのも苦痛で、アウリルは眠りも拒絶するようになっていった。
幽霊のように生気のない日々を送り、食事も見るからに量が減った。
クルトが勧めれば水は飲むし、パンも齧るのだが、味を感じているどころか砂を噛んでいるような無表情。
葡萄酒も何度も飲ませてみたが、気分が持ちあがる様子はない。
どうすれば彼が元に戻るのだろうと仲間たちは毎日心を痛めたが、どう足掻いても無駄だということも判っていた。
生まれて初めて好きになった人を、自分の手で殺したのだ。
その衝撃と悲歎は想像にあまりある。
たまに眠ることが出来ても、アウリルは必ずうなされ、涙を流していた。
いっそ彼自身も死んでいたほうが楽だったかも知れないのに。
クルトは何度思ったことか。
けれど生きていれば。
命さえあれば、いつかは立ち直るかもしれない。ザクセン伯と同じとまでは行かずとも、彼に向けたような愛情をどこかの女性に注げる日が来るかもしれない。
そんな相手と巡り会えれば、前に進む力を持てるようにもなるだろう。生きようという新たな意欲も生まれるだろう。
――とにかく、命を保たせることだ。死んでは何にもならない。
クルトはかたく信じて、力を尽くしてアウリルを守り、庇うに留まった。
仲間のこうした数々の親身な助力によって、アウリルは生きた人形さながらであっても何とか生き続けた。
そして、ザクセン伯暗殺から三ヶ月が経過したある日のこと。
ベーリッツ伯を震撼させる一通の文書が、城に届いた。
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