Der Meuchelmoerder

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「寝首を掻きたければ、いつでも来るがいい――相手をしてやるぞ」  屈辱に身を震わせる騎士を残して、男は姿を消した。  狙いを誤ったことなど一度もない短剣を、叩き落されて。  宮廷に現れたときから気に留めていたと語られ、強引に唇を奪われて。  しかもそれだけではない、自分がこの地を訪れた真の目的まで始めから看破されていたとは。  両手で携えきれぬ数々の敗北に憤激を覚えない人間がどこにいるだろう?  暗殺者として養成されてきて十年、いまだかつてこのような侮辱を己に浴びせた男はいなかった。  漆黒のマントを精悍な片肩に掛けた貴族は地面に頽れるアウリルを残し、回廊の向こうに歩み去った。 ※ ※ ※  アウリルが産まれたのは、十三世紀の中部ドイツの地であった。  親の顔は知らない。  養い親である農夫の話によると、籠の中で豪華な紋章入りの襁褓(むつき)に包まれ、教会の前に捨てられていたのだという。  早朝にたまたま通りかかってちいさな産着姿を見つけた夫婦は赤ん坊をたいそう憐れみ、自分たちに子がいなかったこともあり養子にした。広い畑を有する農夫は豊かな暮らしをしており、みなし児をひとり養ったところで切羽つまるようなことはなかったのである。  襁褓に挟まれていた紙片の文章を、文盲の夫妻は教会の司祭に読んでもらった。 『立派な方の子供です。名前はアウリル。大切に育ててやって下さい』  夫婦はその紙に書かれてある通りに子供をアウリルと呼び、大切に育てた。  物ごころついた際に一連の経緯を教えられた少年は、道端に息子を捨てておいて何が大事に育てろだ、と実の親を憎み、温かい愛情を注いでくれる養父母こそが本当の親と心底から懐いた。  灰色の瞳と艶やかな黒髪は年を経るごとに近所でも評判になるほど美しさを増し、図抜けた美少年の噂が隣の領地を支配するベーリッツ伯爵の耳に届くと、今度は領主から『彼を引き取る』と強制的に申し出があり、夫婦は仕方なく養子を手放した。  四十代近い領主は十二歳の少年を見るなり、ほう、と呟いたきりだった。  その視線は憎悪と好奇心の混じった実に不可思議なもので、アウリルは不快な気分を味わわずにはいられなかった。 「そなたの美しさならば、充分部隊に入る資格がある」  領主はそれだけを告げると、いかにも軍人らしい恰好をした中年の騎士を呼び、アウリルを入隊させよと命じた。  拝命した騎士は、少年を城の一室に連れて行った。  そこは領主が政敵対策に養成している暗殺部隊の溜まり場であった。  騎士は領主と部隊の橋渡しと初期訓練を与える指揮官で、実働部隊の直接の長は別にいた。  クルトという名の青年である。  彼はここに入ってから十年になる最古参で、当時は十五歳だったのが今や二十五だと自分で苦笑しているけれど、領主の目に適った美しさは相変わらずの、快活な若者だった。  部隊は主として、ベーリッツ伯の政敵の夫人を誑かすことでその夫をも破滅させる作戦のために形成されており、容姿が優れた青年あるいは少年が選ばれていたのはそれが理由である。  クルトを始めとして、仲間たちは何かにつけてアウリルに良くしてくれた。  生まれつき人好きのする性質が彼にはあったし、それに編成員はたいてい孤児が拾われて来るのに、彼は優しい養父母から引き離されたという境遇に皆も同情を隠さなかったのだ。 「かわいそうにな――俺たちなら、得体も知れない生まれなのに勉強を教わって騎士叙任までしてもらえて結構だって思えるけどさ、お前はせっかく親がいたのに、わざわざこんな事させられなくてもなあ」  仲間たちは口々にそう語り、アウリルを大切にした。  部隊は十人程度で、衣食住を共にしているので非常に仲が良い。しかしこれは伯爵の策略だった。  同輩との絆を深めさせた上で、誰かが任務に失敗したら残りの全員が制裁を受けるという罰則を設ければ、皆が自分の失敗のせいで仲間を傷付ることのないよう、懸命に努力するようになるからだ。  その策は実に効果的で、隊が形成された初期にある少年が失敗した際、残りの部隊員に加えられた処罰の苛酷さは『制裁は単なる脅しではない』と思い知らせることになり、以来一度も失敗者は出ていないほどだ。  アウリルも当然、伯爵のためではなく仲間のためだけに全力を尽くし、失策は絶対に犯さなかった。  任務は月単位に及ぶこともあれば、ただの殺しの場合はせいぜいで一週間程度ということもある。  外に出ておらず待機中の部隊員は溜まり場で武器の手入れをしたり、雑談で各地の最新情報を交わすのが日々の習慣になっていて、初対面時の伯爵の視線に関する手掛かりを得たのも、その部屋での会話がきっかけだった。  「お前を見て真っ先に思ったのはさ――伯爵の亡くなった奥方にそっくりだってことだよ」  ようやく読み書きを覚え、訓練にも付いて行けるようになって生傷も減ってきたある日の夜、暖炉の側で剣の手入れをしながらクルトは口を開いた。 「俺は奥方を一度だけ見たことがあるけど、とても綺麗な人だった……ちょうどお前と同じ、黒い髪に灰色の目で――使用人たちにも親切でみんな彼女を慕ってたんだ、でも俺が来てすぐに亡くなってしまってさ。伯爵は『病気だ』って俺たちには説明したけど、噂ではフランドル出身の旅の貴族とこっそり恋仲になってたことがばれて、それを怒った伯爵が相手ともども殺したんだって言われてる」 「え……じゃあ、僕は……」  クルトは先を読んだ少年に、そうだろうなと頷いた。 「多分お前は奥方様とその男の子供で、伯爵が戦で不在の間にこっそりお産みになったんじゃないかなあ……だったら産衣が紋章入りだったってのも納得だし、伯爵がお前を妙な目つきで見たってのも判るってもんだろ」 「ならどうして僕を殺さなかったんだろう? その子供だって薄々判ってて――」  さあな、とクルトは剣を炎に透かし、血曇りが残っていないかどうかを確かめながら、さほどの興味もなさそうに答えた。 「伯爵は奥方が亡くなって以来人が変わっちまってさ、何を考えているか判らないっていうのが皆の一致しているところだ――それに俺なんかにゃ、お偉い貴族様の頭の中身なんてとうてい想像は付かないね」  クルトは頭領とはいえ結局は他人事であるから、アウリルほどの真剣味は持てないようだった。  しかし本人にしてみればそうは行かない。  伯爵はめったにアウリルを眼前に連れて来させることはなく、どこの宮廷にも出入り出来るよう騎士叙任を受けさせられた際も、指揮官の騎士伝てに長剣と短剣がひと振りずつ授けられただけなのだが、その接触の少なさは明らかに意図的で、かえって気味が悪かった。  ――夫人と恋人を殺したくらい激怒したくせに、二人の恋の生きた証拠である俺になぜ手を下さないのだろう?  わざわざ金を費やして騎士として育て、後ろ暗い手駒にしている動機は何なのだろう?    新たな疑問がアウリルの心の中に生まれはしたが、与えられる訓練も勉学も淡々とこなしたし、十代の後半に入ってからは現場も任されるようになった。  両親の死の経緯がクルトの説明通りとすれば、他の女性たちを母と同じ末路に陥れるわけで、実行に当たって心が痛まなかったと言えば嘘になる。  が、本当に伯爵の奥方が自分の母親かどうかは不明のままであるし、第一そうだったとしても自分を捨てた女性を母などと呼びたくもなく、根深い罪悪感には至らないままであった。  アウリルの繊細な美青年ぶりは行く先々で持て囃され、少し甘い言葉さえ囁けば、政略結婚で嫁いだ夫に愛情を持てず時間を持てあましていた女性の心をたちまちに掴むことができた。  旅の騎士と名乗っても、立派な服装と教養高い振舞いはどこでも疑われず受け入れられ、アウリルは二十二の歳になるまで不手際を犯したことはなかった。  部隊の常套手段は、偽りの愛を耳打ちして貴族の夫人をのぼせ上がらせ、寝物語に情報を引き出したり夫に不利な行動をするよう使嗾した挙句、当の夫にわざと仲を知れるようにして姿を消すというものだ。  夫は正当な罰として夫人を処刑するが、しかし当の不倫相手は行方をくらましているため、両成敗にならない。  政略結婚を結ぶほどの女性であれば、当然実家もそれなりの高家になる。一族の女性を殺されてただ黙っているわけがなく、大抵は係争に発展するため、あとはその夫が諍いで自滅するのを待つばかりとなり、軍を繰り出すよりも楽に敵を追い落とせるのである。    むろん伯とて籠絡策ばかりではなく、時には標的を直接手に掛けるよう命じることもある。  今回、北ドイツ地方を治めるザクセン伯爵のもとにアウリルが派遣されたのも、皇帝派の雄たる彼を教皇派のベーリッツ伯爵が疎ましく思い、抹殺するのが目的であった。  
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