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この世でもっとも忌まわしい短剣を、自分は喜んで受け取ってしまったのか。
騎士叙任を受けた十六の時から六年間、何も思わず研ぎ、丁寧に扱って来たのか。
それをこの男は遠くから嗤いながら見ていたのだ。
しかも自分はそんな刃を、誰よりも愛した人の胸に突き立て、命を奪った……
ベーリッツ伯がめったに会わなかったはずだ。己を殺さなかったはずだ。
彼にしてみればどちらも不要だったのだと、アウリルはようやく悟った。
強引に部下にした上に呪われた短剣を与えることで、ベーリッツ伯は目に見えぬ呪詛で亡妻の息子を長年に渡って縛りつけ、その両親への歪んだ復讐心を満たすことに成功していたからだ。
今さらながらにベーリッツ伯の自分に対する憎悪と執着の深さを思い知らされ、アウリルの精神はもはや崩壊寸前に陥っていた。
蒼白になってずるずると壁際に下がるアウリルに、伯爵は箍の外れた笑顔で近付く。
普段のアウリルなら素早く身を翻すことも出来たろうが、心身共に衰えている今はただ主人の妄執に怯え、立ち竦むしかなかった。
「どうして逃げる、カタリーナ……? お前は本当に美しかった、美しく貞淑な妻は私の誇りだったのだ、お前の息子が生きていると知って、今度こそ私は誰にも渡すまいとした、だのにその息子もあの男の従兄弟なんぞと易々と言葉を交わし、自分の出自を打ち明けた……ザクセンがナタナエルの従兄弟だったと知っていれば、あれを遣ったりはしなかったものを――失敗だ、また私は失敗して、お前を他の男に、ナタナエルに奪われたのだ!」
来ないでくれ。近付かないでくれ。
舌が凍りついて言葉も出せず、せめて心中で懸命に願っても、ベーリッツ伯はじりじりと近寄る一方だ。
狂気を孕んだ視線に射竦められたアウリルは震えが止まらず、逃げ出せない。
伯爵は完全に錯乱し、アウリルに妻の幻と、アウリル本人の両者を重ね合わせていた。
呼び掛ける呼称も喰い違い、ある時は妻の名を、ある時はアウリルの名を呼ぶ。
「どこにある? あの剣は、お前に渡した短剣は、どこに? お前を牢に入れてから探したが、長剣しか見付からなかった……一体どこに置いたのだ、あれを――」
この城に在るわけがない。
あの短剣は、命を喪ったレオンハルトの胸に遺したままにして去ったのだから。
――もう駄目だ。
背に壁が当たる感触。
ベーリッツ伯にあと一歩というところまで詰め寄られ、すべてを諦めたアウリルはその時、自分を呼ぶ声を聞いた。
懐かしい声。
二度と聞くことはないと思っていた、低くともよく通る、響きの良いただひとりの。
――天国から、あの方が俺を呼んでくれているのか……
その声は遠方から徐々に強まり、こちらに近付いているようだった。
何度も呼び掛けてくるそれは目前の主人と違い、何の迷いもなく、自分だけを呼んでいた。
恐怖で身動きが取れなくなっていたアウリルだったが、忘れ得ぬ声音に力を得て、惹き付けられるように部屋を逃れて回廊に出た。
見下ろせば階下の庭で、鎧の上に濃青色の軍服を纏い、黒のマントを羽織った騎士が馬にも乗らず、周りの焔も物とせず、扈従と共に何度もアウリルの名を叫んでいた。
「アウリル! どこだ、返事をしてくれ、アウリル!!」
幻としか、思えなかった。
この手で殺めたはずの彼が、殺める直前と変わらぬ壮健な姿で駆け、必死で辺りを探し回っているのだから。
けれど兜を脱いで剥き出しになっている栗色の豊かな髪も、端麗な面差しも、まぎれもなく記憶に刻まれているレオンハルトその人であった。
何よりも青いサーコートの胴に描かれているのは、四分割された盾型の中に白の十字と金黒色の縞で彩られた獅子の紋章。
幾度も城で目にした、余人が纏うことは許されないザクセン伯家直系の紋章である。
もう自分は死んでいるのだろうか、とアウリルは訝しく思った。
だからかの世に居る彼を、こうして見ることが出来ているのかもしれない。
凛々しい騎士姿を呆然と眺めていると、レオンハルトは視線を察したのかはっと回廊を振り返り、こちらの姿を認めるなり碧眼を安堵に見開いて叫んだ。
「アウリルっ! 無事で良かった、早く飛び降りるんだ、もうすぐ建物が崩れる、早く!!」
性急な大声で促すと、アウリルが佇んでいる場所に近付いて両手を差し伸べて来る。
その横には同じく鎧と軍服姿のクルトが兵士を引き連れて早足で現れ、レオンハルトの注視の先を追うなり、アウリル何やってんだ、早く来いと右手で手招きして怒鳴った。
――これは……何なのだろう。
はたして現実なのか?
クルトが一緒に居るということは、レオンハルトはちゃんと生きていて、この世の人だということになるのか。
正常な判断力を失っていたアウリルは二人にいくら呼ばれても夢現のようで、動こうともしなかった。
しかも背後で、ベーリッツ伯がこちらを食い入るように見据えていた。
「行くなアウリル、私を捨てないでくれ、あの短剣で、あれで私を殺してくれ、お願いだ!」
正気を失っているその科白は庭先にも届いたのだろう、馬鹿、そんな戯言を聞き入れるなと即座にレオンハルトが返した。
「来るんだ、アウリル! 早く、早く、もうすぐ火の手もそちらに回る、こちらに来るんだ、アウリル!」
繰り返される悲痛な懇願には、愛しい者への呼び掛けの響きがありありと籠もっており、疲労と哀しみに渇ききっていたアウリルの心を動かした。
周りにも徐々に火煙が這い、熱気が迫り始めていたが、それは認識の外だった。
――貴方は……
貴方を殺そうとした俺を、本気で助けようとしている……
本気で受け入れようとしている……
駄目だ。行けるわけがない。
どの面下げて、おめおめと貴方の前に出られる?
俺にそんな資格は皆無だ――
首を振って後ろにじわじわと下がるアウリルの意図を知るなり、レオンハルトは血相を変えて回廊に繋がる階段に向かおうとしたが、クルトと側付きの兵士たちに急いで両腕を掴まれ、止められた。
「いけません閣下、もう階段には完全に火が回っています! お気持は判りますが、とても二階に行ける状況じゃありません!」
「離せ、アウリルは死ぬ気だ! 離してくれ、私はどうでもいい、彼を助けないと!!」
屈強な男たちに両脇をがっちりと捕らえられ、身動きを封じられても、なおもレオンハルトはそれを振り解こうと手負いの獅子のようにもがいた。
冷静沈着な彼らしくないその動揺はベーリッツ伯と同じく、ある意味錯乱に近いほどの嘆きだった。
「アウリル! お願いだ、私の所に来てくれ、早くそこから飛び降りてこちらに来てくれ! お願いだ、アウリル、アウリルっ!!」
身体をふたつに折るようにして絶叫しているレオンハルトの、血を振り絞る呼び掛けと悲歎は、自分は彼に赦されているのだ、彼はまだ自分を求めてくれているのだと、アウリルの理性が理解するに充分足るものだった。
その理解に決定打を与えるように、クルトがレオンハルトの腕を何とか押さえながら叫んだ。
「死んじまったら謝ることも償うことも出来ないんだぞ、アウリル! こっちへ来るんだ、生きるんだ! 何をしているんだ!」
自分のことを誰よりも大切に想ってくれるレオンハルト。
仲間として自分を支えてくれるクルト。
――俺は、生きていいのか。
こんな俺でも。
二人の真摯な叫びによってようやく目覚めたアウリルは、操られるように回廊の手摺に足を掛けた。
「行くな、行かないでくれカタリーナ、私をお前の手で殺してくれ!」
背にベーリッツ伯の最後の願いが発されていたが、アウリルの耳には入っていなかった。
あの腕へ。
誰よりも力強い、ただひとりの腕の中へ。
それだけを想って、アウリルは手摺を蹴り、しなやかに飛び降りた。
腕の拘束を解かれたレオンハルトが一声叫ぶと駆け寄り、しっかりとアウリルの身体を受け止めた。
直後にそれまでアウリルが佇んでいた回廊が天井から崩れ落ち、轟音の中で焔とベーリッツ伯を巻き込みながら二階も崩壊した。
ベーリッツ伯家がザクセン伯家に敗れ、滅亡した瞬間だった。
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