135人が本棚に入れています
本棚に追加
ぼんやりと瞼を開けば、レオンハルトがこちらを覗き込んでいた。
初対面の時のような鋭い目ではなく、見たこともないような穏やかな眼差しだった。
寝台に横たわったままアウリルは脳裏を探るも、回廊から庭に飛び降りて以降は記憶が途切れていた。いったいあれからどれくらいの時間が経ったのだろう。
霞みがかった視野のまま天井の高い空間を見回すと、鎧戸は閉められ燭台が灯されている。とすれば今はもう夜らしい。室内装飾からしてザクセンの城ではないようだが、とアウリルはどうにか見当をつけた。
こんなに暖かい場所は久しぶりで、石のように強張っていた心身に安堵感が沁みる。
上質な寝台のお陰で腰骨や腕、背中の骨が痛くなることもない。
幽閉生活で汚れていた髪と肌もいつの間にか綺麗にされているところを見ると、意識がない間に湯浴みで整えてもらっていたらしい。
おぼつかない仕草で瞬くと、アウリルの前髪をレオンハルトの指がそっと梳いた。
「クルトから報せを受けて行軍を急いだのだが、それでも十日掛かってしまった――牢ではろくに食事も出なかったのだろう? こんなに痩せてしまって、可哀想に」
「ここは……どこですか……」
「ザクセンの南にある城だ、君用の部屋だよ」
「俺用?」
ザクセンで客間を与えられていた厚遇を思い出し、アウリルは顔を歪めた。
側に居る資格がない自分を助けただけでなく、どうしてこんな贅沢な部屋なんて……
灰色の瞳にみるみる涙を溜めるアウリルを、レオンハルトは微笑んで見遣った。
「泣き虫なんだな、アウリルは……以前の一ヶ月でも、私は君が泣いていた表情のほうをよく覚えているよ」
貴方の前だから――でなきゃ、泣いたりなんかしない。
喉が詰まって言えない言葉を、レオンハルトは正確に読み取ってくれた。
震える唇の上に、そっと口付けが与えられる。
触れるだけの硬質なくちびるの温度、優しい仕草。
記憶にあるレオンハルトの接吻そのままなのに、彼を間近にしても現実が信じられず、アウリルはしゃくりあげた。枕に顔を押し付けて嗚咽を殺すその肩を撫でながら、レオンハルトは囁いた。
「もう少し眠ると良い……それとも食事が良いかな」
どちらも要らない、とアウリルは首を振る。
飢餓に慣れた躯も、罪悪感に支配された心も、食を頑なに拒んでいた。
アウリルは涙を懸命に抑え、まともに話せる自信がついてからようやく顔を上げると、胸を潰しそうな自責の念を吐き出した。
「俺は……俺は、貴方に顔向け出来ないほどに最低なことをした……謝るのすら恥ずかしい、貴方が俺を殺して下さい、でないと俺は貴方の側でなんか、とても生きられない」
「アウリル」
「貴方が生きていて、本当に嬉しかった……今でも信じられないんです……でも、俺は――」
レオンハルトは寝台に腰掛けて、細くなったアウリルの背を精悍な腕でゆっくりと起こした。
抱き締めてくれる胸の中で泣き続ける青年の耳に、落ち着いた声が届く。
「確かに、私も辛かった――君に命を奪われるのはもちろん覚悟してはいたが、あの時を狙われるのは……私が甘かっただけなのだがね、君は敵を斃すのに適切な機会を量っただけだから」
声音に憾みや難詰は微塵も籠っておらず、レオンハルトは自らの油断に全ての責任があると本気で思っているようで、違う、とアウリルは夢中で首を振った。
青色の服を掴んで、貴方は少しも悪くないと掻き口説く。
「貴方は俺の前で眠るほどに俺を信頼して下さっていたのに、俺はそれを裏切った……いくら主人の命令だからって、卑怯すぎる……全部、俺が悪いんです」
「アウリル、あのとき君は泣いていただろう――辛そうに涙を流して、私に止めを刺すどころか出血を慮って刃も抜かなかった。そんな君を、憎んだりできるわけがない――君は仲間のためにベーリッツ伯の命令を遂行したに過ぎないんだ、君こそ悪くない」
「でも、伯爵様……」
「その呼び方はもう止めてくれ、君は私の従兄弟の子供なんだ、レオンハルトでいい」
「そんな……無理です」
困り切った声を上げるアウリルに、レオンハルトは論議は終わりとばかりに、悪戯っぽく笑い掛けた。
「あの回廊で、クルトは『生きてこそ償いも謝罪も出来る』と言ったね? 私もそう思う……自分を殺してくれと君はさっき言ったが、そんなことはしないよ。これから一生私の側で、私の言うことを全部聞くことで君には償いをしてもらう。まず第一番目が、私の名前を呼ぶことだ」
いつもの彼らしい遠回しな物言いだったが、今度は易しく、解釈に悩む必要はなかった。
かつての敵同士として在るのではなく、対等な人生の伴侶になってくれという、互いの生涯の刻を重ねる約束なのだと。
アウリルは濡れた頬をレオンハルトの服に埋め、小声で呟いた。
「やっとベーリッツ伯がいなくなったと思ったら、今度は貴方が俺の新しいご主人様ですか? まいったな……」
その語調には言葉の意味とは裏腹に、レオンハルトの命令ならばどんなことでも喜んで聞くというアウリルの恋情が溢れていた。彼の言うことに従わないなど、思いもよらぬ話だった。
「そうだとも、これからは私がご主人様だ――ただし前よりも良いご主人様なのは保証するよ、何しろ君にべた惚れと来ているからな」
今度は不意打ちの、唐突で率直な告白。
面喰らったアウリルはとっさに返答出来なかった。
自分もだ、と言いたかったものの、つい怯んで素直に返せない。
彼を一度は殺めようとした自分に、ここまでの愛を受けて返す資格がはたしてあるのかと。
迷いを振り払わせるように顎に手が添えられ、やや強引な所作で上向けさせられる。
美しい青色の瞳が、言葉に出してくれと語っていた。
この世の誰よりも愛おしく、自信と覇気の漲る、一目見ただけで心を奪われた瞳が。
見詰めるうちに自然に微笑が浮かび、アウリルはすんなりと心の裡を形にした。
「俺も、貴方を愛しています……レオンハルト」
言い終わると同じくして、深く唇が塞がれた。
初めて奪われた時のように烈しく、情熱的な接吻。
頭の芯が痺れてゆく、甘美な刻。
そのまま身体を寝台に押し付けられ、性急にシャツを剥ぎ取られても、アウリルは逆らわなかった。
※ ※ ※
「やっと起きたか、良かったなあ――ベーリッツ伯の城からこっちに引き揚げる間、お前ずっと眠りっぱなしだったんだぜ。この城に着くまでの三日間、それから二日の合計五日、ザクセン伯爵はお前の側を離れなかったんだ」
目覚めてから三日後に寝室を訪れたクルトの説明に、アウリルは寝台に横になったまま、本当に?と目を瞠った。
肩を竦めたクルトは、そうなんだと相槌を打つ。
「お前が眠り続けているあいだ、侍女や医者がこの部屋に入ってさえ、まるで狼がお前を襲いに来たといわんばかりに伯爵に睨まれたらしいぞ。俺たちが近付こうものなら、きっと野良犬以下の扱いだったな」
今回の戦で得たベーリッツ伯爵領の整理のためにレオンハルトが不在であるのを幸い、クルトも気楽に軽口を叩く。
彼は地下牢で会話を交わした後で九名と一緒にザクセン伯爵の元に赴き、アウリルの難事を告げたのだった。
「なにしろ頼れるのは生死不明のザクセン伯爵だけだったし、藁をも掴む思いだったんだ。でもな、もしあの宣戦布告の書状が本物で、伯爵が生きているのなら、俺は絶対にお前を助けてもらえると信じていたよ」
「どうして?」
「お前の肩をザクセンの城の庭先で抱いていたときの、伯爵が俺を見つめる目が本気だったからさ。あの人もお前に惚れているんだって、俺はその時点で判ってた」
最初のコメントを投稿しよう!