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クルトと語り合っていたとき、こちらを凝視していたレオンハルトの瞳は――戦場で敵と対峙しているかのような、背筋を凍らせる冷たさを帯びていた。
自分がクルトに抱きついたのは自身の恐怖ではなく、クルトがもし部隊員と知られれば命が危ないと思い、レオンハルトから護ろうとしたのだ。
痩せた躯を労わるようにそっと抱かれた三日前、ふたりで果てた後で彼はクルトのことに言及した。
『君が親しそうに話してあんなにしがみ付いているものだから、てっきり彼を君の想い人だと勘違いしてしまった』
苦笑いしながら、レオンハルトは嫉妬心を起こしたことを正直に告白した。
当日の夜、彼の愛撫がとりわけ優しかったのはそれゆえだったのだと、アウリルはやっと理解できた。
あれはクルトのもとに行ったりしないでくれという、レオンハルトの切実な願いが籠められていたのだと。
哀願にも見えたのは、当たらずと言えども遠からずだったのだ。
立場上、愛していると告げることも出来なかった彼が、せめてと躯と行動で伝えてくれた愛情。
その愛情を察し取るどころか刃で報いた己の行為が改めて恥ずかしく、レオンハルトが味わった絶望を思うとアウリルは軽々しい弁明も為せず、ただ、彼の広い背を力の限り抱き締めかえして、謝りながら涙を流すことしかできなかった。
そんなアウリルの髪と背を、レオンハルトはずっと撫でてくれた。
謝らなくていい。君が早く元の躯に戻って、側にいてくれればいい。そう囁きながら。
行軍中のザクセン伯の陣屋をクルトが仲間と共に訪れ、アウリルの受難を始めとして、彼の生まれ育ちからベーリッツ伯の部隊に入るまでの経緯、部隊の性質、失敗した際の制裁の規則、今回の戦闘に当たって主人が用意した兵士の数などを全部告白したのは、最良の手段だった。
それでザクセン側の家臣を納得させることが出来て、彼らは急いで南に下ってくれたのだから。
※ ※ ※
事件の三ヶ月後に突然ベーリッツ伯のもとに書状が届いたのは、レオンハルトが本復するまでにそれだけ掛かったからだ。
その間、家臣は主君の重傷を領民や他国の間諜から見事に隠しおおせた。
重態の主君の第一発見者は見張りの兵士であった。
寝室から立ち去るアウリルの挙動が普段になく慌てていたため、兵は不審に感じて様子を見に行き、扉を叩いても主人の返答がないことから室内に入って難事を知ったのである。
ただちに城内に厳重な箝口令が敷かれ、アウリルを捕縛するべく追手が放たれると同時に医師たちが手当に掛かった。
刺されてから五日間、レオンハルトは意識不明の重態であったが、アウリルの手が震えていて傷が致命の深さに至らなかったこと、さらには短剣を抜かないでおいたことが幸いし、出血は酷かったが失血死寸前で命は取りとめ、意識を回復した。
以降はベーリッツ伯のみならず各地の間諜を油断させるために実弟フリードリヒが表に立ってすべての差配を行い、兄の極秘の療養生活を支えた。
三ヶ月掛けてやっと傷も完全に塞がり、失った血も体力も取り戻すと、レオンハルトは主人のもとに戻ったであろうアウリルを取り戻すためにラテン語で書状を書かせ、直筆の署名も行った。
当初こそ従兄弟の仇討ちの名目でべーリッツ伯の所領を奪うつもりだったが、アウリルが去ってからは建前を利用して彼を奪い返すこと、そして己と他の皇帝党貴族たちを害した敵への報復という目的がレオンハルトを突き動かしていた。
家臣もフリードリヒも、ベーリッツ伯を滅ぼすことは大賛成しても、アウリルの保護には反対した。
美女しか相手にして来なかったレオンハルトが、際立った美貌を誇るとはいえ同性の騎士と深い仲になったことは多少の戸惑いと驚きでもって当時の家中で噂になっていた。しかし所詮は再婚相手が決まるまでの気慰みと黙認されていたし、温厚で教養深いアウリルは宮中でも一目置かれ、慕われていた。それだのに返されたのが主君の暗殺未遂では、騙されたと憤らないほうが無理である。
他の貴族同様に主君がベーリッツ伯の毒牙に掛かって滅ぼされる寸前であったのを、皆で力を合わせてどうにか喰い止めただけでも、配下らにとっては冷や汗ものの危機であったのだ。
実は疾うからベーリッツ伯の刺客と知っていて閨に招いていた、自らの腕と遠い血縁を恃んで油断した私の過誤と述べたレオンハルトの大胆な言は、忠実な幕僚をさらに動揺させた。
どのみち刺された際の状況を知られている以上は隠しだてをしても始まらぬ、これで忠誠が離れるならそれも良しとしたレオンハルトの潔い判断であったが、大きな動揺が広がる中、代々の重臣として敬愛を集める老人がゆっくりと口を開いた。
『古代の畏き神々はもちろんのこと、アレクサンドロス大王も美女や美男の親友を手放さず、賢帝ハドリアヌスもまた美男を寵して神殿まで建てた由が伝わっております。閣下が敵の刺客とご承知でありながらかの騎士に心奪われたのも、等しく惑いやすき人心の為せる術と思えば、大いなる過ちとは申せますまい――卑劣の首魁は孤児たちを悪行の道具にして、人々の心につけ入って謀略を遂行してきたベーリッツ伯。閣下が命拾いなさったのは偶然ではなく、伯を斃すべしとの運命の巡りと存じます』
そして、遺恨はいったん措いて従兄弟の遺児としてアウリルを保護したのち、本人の意向を見極めれば良いと老臣は続けた。
もし本人が過去の罪を悔いて行動を改め、なおかつ養父母から紋章の証言が得られたならデルフト家の跡取りとして迎えることで血族に恩を売ればよい。万一罪人のまま心を入れ替えないならば処刑すればすむ話だと。
老人の慎重でもっともな見解によってザクセン伯陣営の不穏はいったん鎮まり、出陣の合意が得られたのだった。
クルトたちが現れたのは、まさにその陣営が南下している最中であった。
レオンハルトへの目通りを願うなりクルトはくだんの説明を行い、部隊員は過去にベーリッツ伯の命令に従っては来たがそれは生殺の手綱を握られていたからであって、自らの意志で喜んで行ったことは一度もない、アウリルもそれは同様で、止むに止まれなかった今回の決断に寛恕を賜りたい、現に彼は罪の意識に苛まれて食も睡眠も拒み続けたばかりか、ザクセン伯暗殺失敗の咎めを受けてベーリッツ伯に幽閉され、明日の命も知れない状況にあるという旨を切々と訴えた。
アウリルが充分すぎる罰をすでに自らに下していること、クルトが携えたベーリッツ伯の軍備情報はザクセン側の間諜が齎した情報と同じものであったことから反間の疑いは晴れ、レオンハルトの麾下に依然燻っていた不協和音も一掃され、改めて一致団結してベーリッツ伯殲滅に向かったのだった。
戦闘後の帰途、今後の生活をレオンハルトに訊かれた時、クルトたちは異口同音に答えた。
ドイツでもイタリアでもフランスでも、どこでもいい、傭兵稼業で暮らしますと。
ならば私が君たちを雇いたいが、どうだ――レオンハルトはそう応じた。
ザクセン伯の、前の主人とは比べものにならない優れた人格を認めていた部隊員たちは彼のためならば喜んで働けると考え、了承した。『オヤジ』と呼んでいた指揮官はべーリッツ伯の城での戦闘で命を落としており、彼らを縛るものはもうなかった。
彼が亡くなった事実は、部隊員にとってそれなりに感慨深いものがあった。
すべての訓練は彼が施してくれたし、伯爵の無理な要求を彼が緩和させてくれたことも多々あったからだ。
アウリルもベーリッツの死には何の感情も持たなかったが、指揮官の死にだけは溜息を吐いた。
「仕方ないさ……オヤジは生きててもベーリッツ伯の所以外じゃ働けなかったと思うぞ、クソ律儀な親父だったしさ――逆にこれで良かったのかも知れないぜ」
「そうだね……」
二人で思い出話に耽っていると、レオンハルトが公務を終えて戻って来た。
クルトはすかさず『お邪魔しました』と笑いながら、ぺこりと頭を下げて部屋を出て行った。
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