Der Meuchelmoerder

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 アウリルがレオンハルトと共にザクセン入りしたのは、それから二週間のことであった。  いくら現当主兄弟の母方の縁戚といえど、冷眼が家中から完全になくなったわけではない。  しかしアウリルは病んだベーリッツ伯の犠牲者に過ぎなかったことは明らかであったし、当時の支配者は寛大の精神も美徳としてしばしば求められたため、アウリルのみならず降伏したベーリッツ伯の旧臣らを傘下に加えたレオンハルトの行動は、最終的には称賛寄りの評価で落ち着いた。    中断されていた婚約者選びは、ほぼほぼ決まり掛けていた候補の令嬢がまたも病で亡くなり、ついに本人が打ち切った。実弟フリードリヒに才ある嫡男が二名いる以上、男子後継者に困らないという判断も大きかったのである。  兄思いのフリードリヒがアウリルを側付きにすることに難を唱えたのを、ゆくゆくは家督を弟側に譲るという約定のもとに了承させ、レオンハルトは半ば公然の形で独身を保つことになった。  さすがにそれは、と貴族社会の仕組みを知るアウリルは絶句して反対したが、レオンハルトはさばさばした様子で意にも介さなかった。 「候補者にも妻にもこう何度も先立たれると、さすがに縁がないとしか言いようがない。私に縁づくと短命になるという噂も立ち始めているし、陛下にもその旨をお伝えしてお許しをもらえば良い」 「ですが……」 「そも皇帝陛下も、小姓を寵愛しておられる。私が君を贔屓したところで、お小言は仰有るまいよ」  両シチリア王国で東西の美女を集めてハーレムを作っている、と教皇庁から蛇蝎のごとく厭悪されては破門をちらつかされてばかりの現皇帝は、教養も君主としての度量も桁外れであり尊敬すべき存在であるが、規格外の家庭生活までも倣わせるわけにはいかない。アウリルはそれとなく窘めた。 「あの、それは。皇帝陛下は貴妃だけでなく嫡男のドイツ王も庶出の皇子も大勢いらっしゃるがゆえの御遊興であって……」 「私にはすでに甥が二人も居る、それで充分だ。兄弟間の相続が珍しくないことくらい、君もよく知っているだろう」    正論でことごとく論破され、挙句の果てに「ようやく君と暮らせるようになったのに、その君が私に結婚しろとは」と苦笑いされてはアウリルも返す言葉がなく、最終的にはレオンハルトのしたいようにさせた。  当時の宗教観では同性愛は当然ながら認められていないが、罰則の及ばぬ貴族が美しい小姓を愛人にするのは実はそこまで珍しいことでもなく、アウリルは“伯爵の護衛であり第一の友人”という建前で周囲の暗黙の了解を得た。  デルフト家の跡取りの資格があるのだし、そうするかとレオンハルトが訊ねてきたが、それについてはアウリルは否定した。 「仰有ったでしょう、貴方の言うことは何でも聞くんだよって……お傍にいないといけないって言われたじゃないですか。跡を継いでしまうと、それどころではなくなってしまいます」 「それもそうだな」  一本取られたレオンハルトは、新しい寝室で至極満足そうにアウリルを抱き寄せる。  もうアウリルの躯も元に近くなり、抱いても骨格の感触が先に感じられるような痛ましい身ではなくなった。  燭台の前で上着もシャツも脱ぎ捨てたレオンハルトに、アウリルはおずおずと歩み寄る。  剣と馬術で鍛え抜かれ、くっきりと筋肉が浮かび上がる胸板に刻まれた、短い傷。  少しだけ盛り上がったそれは、胸筋と腹筋の境界、やや左側に位置している。  ――どれだけ痛かったことだろう。俺のせいで……  傷を指先でなぞるうちに、眦から悔恨と自責の涙がいくつも伝い落ちる。  レオンハルトは傷の痛みや闘病生活の辛さには一言も触れたりしなかったが、アウリルには彼がここまで回復するのにいかに苦しい思いをしたかが手に取るように判る。  罪を償うためにも彼に命を捧げ、生涯仕え抜こうと、アウリルはうやうやしく傷に唇を当てながら誓う。  黒髪を優しく撫でるレオンハルトの手は、仕えたりするな、側に居てくれればそれで良いと語っていた。  レオンハルトがかつてそうしたように、アウリルも彼の足元に膝を折る。  見上げると、青色の瞳は限りなく温かい光を湛えてこちらを見つめていた。  その瞳に全身が融け込んで行きそうな陶酔を覚えながら、アウリルは何のためらいもなくレオンハルトの下衣をくつろげ、彼自身を唇で呑み込む。  驚いた彼に急いで止められたが、アウリルは拒んで続けた。  はじめての行為だったが、厭悪感はなかった。あるとすれば慣れない愛技で彼が不快になるのではという、その不安だけだった。  同性ならではの勘と手探りでおずおずとレオンハルトの欲を育ててゆくうちに、己の躯の熱もまた高まってゆくのを感じた。  しばらく彼は耐えていたが、やがて肩に置かれた掌によって、身を離すよう促される。   「レオンハルト……」  やはり拙かったかと怯えながら恋人の表情を探ると、彼は荒い呼吸混じりに首を振って否と示した。   「判るだろう、アウリル――これ以上は私が持たない」  云いざま、レオンハルトはアウリルの靭やかな身体をひと息に寝台に押し倒し、激しい接吻の合間に服を全部剥ぎ取った。  そして手首を上着の飾り紐で軽く縛り、頭上に遣った。  何故こんなことをされるのか理由が判らず視線で訊ねると、レオンハルトはアウリルの脇腹を辿りながら悪戯っぽく笑い掛けた。 「また寝首を掻かれては堪らないからな、あらかじめこうして置かないと」 「……だって……あっ、寝首を掻きたければ来いって仰有ったのは、貴方ですよ……」 「む、それもそうだ――君には一本取られっぱなしだな」  抵抗を封じられ、肌の上を這う唇と手に身を捩るしかないアウリルと、そんな彼の艶態を見て楽しむレオンハルトは、二人で声を揃えて笑う。  こんな冗談口と戯れの餌に出来るほど、ベーリッツ伯存命時の過去は二人のあいだで完全に消化されていた。  紐の縛り方は緩く、そうしようと思えばアウリルは簡単に解くことは出来るし、レオンハルトも承知している。  けれど今は、解いて逃げることなど考えもつかなかった――与えられ、思うさま嬲られる淫靡な快楽に捉えられ、その虜になっているから。  もう止めて下さい、と涙を零して懇願するようになるまでレオンハルトはアウリルの乱れた姿態を堪能し、それから紐を解いて、ようやく抱いてくれた。    目覚めたその日に互いの情熱に負けて抱き合ったあとは、体力を使うからと彼は決してアウリルに触れて来なかった。  三ヶ月の別離とこの数週間分のすべての想いを叩き付けるように、レオンハルトは細い身体を責め抜く。  それにアウリルも応え、愛しい男の名をひたすら呼び続ける。  広い背に指を立て、もどかしく彼の腰に脚を絡みつけ、喉を逸らして。  炎に囲まれて崩れ掛けた回廊で、こちらへ飛び降りるんだと絶叫したレオンハルトの声をアウリルは一生忘れることはないだろう。  あたりを揺るがす轟音よりもはっきりと聞こえた、あの声を。  彼の真摯な叫びによってアウリルの心は蘇り、ふたたび生への前進を始めた。  二階から空中に身体を投げ出した次の瞬間、しっかりと受け止めてくれた両の腕。  薄れ行く意識の中で、レオンハルトがアウリル、アウリルと何度も呼び、背を固く抱き締めているのを感じ取ったときの、息が止まるような幸福感――    あの時と同じ強さで、彼は来いと言っている。  自分と一緒に行こうと。  背筋から全身に広がる甘美な戦慄に、共に溺れながら。  アウリルはレオンハルトの名を呼ぶ事で、そうしてほしいと答える。  ――連れて行って下さい。  貴方が導いてくれるなら、地獄でもどこでも俺は喜んで赴きます。  だから……  甘く潤んだ灰色の瞳が訴えるその懇願にレオンハルトも接吻で応じながら、一層深くアウリルの躯を侵略する。  二人が至福と愉悦の極みに達したのは、同時だった。 ※ ※ ※  くだんの短剣はアウリルの実の両親の鎮魂を籠めて、近隣の大聖堂に奉納された。  忌まわしい宿縁を神の祈りで断ち切り、浄罪したいという願いのもとに。  両親から続くベーリッツ伯とレオンハルト、アウリルの因縁はこれによって完全に封じられた。  クルトたち部隊員はザクセン領でそれぞれ善良な女性を娶り、幸せな家庭を得たかたわら、戦場でも日常でも主君の周囲を常に固めて護衛の役割を果たしている。  容姿も腕も皆が皆ずば抜けており、レオンハルトに危機が迫るたびに難なく退けたため、他の貴族からは羨望と賞賛を籠めて“ザクセン伯の親衛隊”といつしか呼ばれるようになった。  レオンハルトと、デルフト家の紋章を掲げた軍服姿で寄り添うアウリルの仲は、端から見ているクルトをして『当てられる』と苦笑させるほどに良好であった。  養父母はアウリルが実はザクセン伯爵家の縁戚であったと本人の口から聞かされると、紋章付きの産着に包まれていたとはいえ、まさかそんな高貴の血筋だったなんてと引っくり返らんばかりに驚いたが、それでも彼はやんちゃで可愛い息子であることに変わりはなかった。  何年経とうとも、彼は養父母にとっては教会の前で人の温もりに飢えて泣いていた赤ん坊であり、両親の農作業を喜んで手伝った幼子であり、悪戯っ気が過ぎて養母に窘められた男の子であり、ベーリッツ伯に引き取られる時に目を擦って涙を堪えていた少年であったのだ。  ベーリッツ伯の部隊に入ってからは身の自由が利かず、養父母のことが気に掛かりながらも十年間、アウリルは会いに行くことさえ出来なかった。以前は白髪などなかったのに、養父の黒髪にも養母の淡い金髪にも白い物が混じっているのを目にすると、歳月の長さと二人の労苦を思わずにはいられない。  だが明るい気性の養父母は「お前にこうして会えたら、白髪が元に戻りそうな気がする」と朗らかに泣き笑い、再会の感動に縋りつくアウリルの髪を、節くれだった手で昔のようにいとおしく撫でてくれた。 「まあまあ、ほんとうに……あんなに小さかったのに、立派になりなすって。ねえ、父さん」 「なあ。昔からお星さまみたいにきらきらしてて、そりゃあ綺麗な子だったが、まさかザクセン伯爵さまのお従兄弟さまと、ベーリッツ伯の奥方さまのお子だなんて、いったい誰が思うもんかね。いやはや、たまげたわい」 「でも、俺を育ててくれたのは父さんと母さんじゃないか――俺はずっと、これからも、父さんと母さんの子供だよ」 「あら、まあ。もったいないねえ、なんだか」  別れたときと同じように涙を指先で擦りながら身を離し、育ての恩を生涯忘れることはないと言い切った青年を、養父母は目を細めて見上げた。  十二歳だった少年は、最後に別れたときは父の肩先にも届かぬ背丈だったのに、今では父を追い越す長身を誇る美青年となった。実の両親の血にふさわしい豪華な服を纏って佇む姿を二人は飽くことなく眺めては見惚れ、家族がふたたび出会えたことを喜びあった。    レオンハルトと共に暮らす以上、アウリルもこの南の地にはめったに来られない。  だからどうかザクセン地方に来てくれと本人が何度も説得すると、養父母はようやく頷いてくれて、住み慣れた南を離れてザクセンに移った。  農家に慣れているし気兼ねもないという理由で二人は城内で贅沢に暮らすことを断り、居城のすぐ近くに農地と家を与えられ、そこで再び農耕生活に戻った。時おり訪ねてきては作業を手伝ってくれる息子と心置きなく笑い合い、語り合うささやかな幸福を享受しながら。  第十二代ザクセン伯レオンハルトと、彼を支える十名の親衛隊はいつまでも家臣や民衆に慕われ、歴代伯爵でも屈指の秀麗な容姿と名君ぶりを謳われることとなった。    その領主の側には、影のように寄り添う美しい黒髪の騎士の姿が、常にあったという―― ―Fin―
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