Der Meuchelmoerder

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 アウリルはこれまでと同様、ザクセン伯の居城にもたやすく入りこむことが叶い、家臣らも彼を歓迎した。  外国のお話を聞かせて下さいまし、と上流階級の女性たちに賑やかにねだられても、嫌な顔ひとつせず、その通りにしてやった。  貴族が居城で築く宮廷は政治外交の場であるが、第一級の社交場で流行の発信という役割も負っている。  ドイツ国内だけでなくフランスや現皇帝が支配するイタリアまで赴いたことがあるアウリルの、各地を巡ることで磨かれてきた最先端の見聞と洗練された口説、爽やかな物腰に夢中にならない女性はいない。  楽器の弦を掻き鳴らしても一流、時には即興でソネットを作って貴婦人に捧げることも出来る美貌の騎士はたちまち宮廷一の人気者になり、引っ張りだこの毎日となった。  そんな騎士を、ザクセン伯は家臣と護衛に囲まれた壇上からいつも無表情に見つめてきた。  アウリルの方も初対面時から『この男は腕が立つ、油断がならない』と密かに心を引き締めてはいたのだが、彼の双眸になぜか落ち着かない気持ちにもさせられ、ときどき混乱することがあった。  ――彼が恐いのか? いいや、まさか。  伯爵と目が合うたびに滲む感情にこれという適切な表現が見つからず、首を傾げはしたものの、あまりに鋭い眼光と警戒のゆえだとアウリルは無理に片付け、心の揺れを押さえつけ続けた。    ザクセン伯レオンハルトは現在二十九歳。  側妾は何名かいるものの、正式な夫人は不在の状態だ。  十代の時に婚約成立した両シチリア王国伯爵家の長女は結婚前にマラリアで亡くなり、次に結婚した某辺境伯の次女も病がちで子供がないまま昨年身罷り、今はあちこちから持ち込まれる縁談を精査中だという。  ベーリッツ伯が彼の暗殺を決意したのは、有力な皇帝派の娘と再婚されて勢力を増されては困るという思惑によるものだ。婚約成立の前に殺せとの指令であったが、降るほどの再婚話の数のためにザクセン伯家が決断しかねている状況は、任務に慎重な時間が欲しいアウリルの助けとなっていた。    率直なところ、彼の独身に各地の良家が目の色を変えるのも無理はないとアウリルさえ感じる。  兜を被りやすいよう顎で切られた金髪混じりの栗色の髪、澄んだ青色の瞳。  宮廷では礼儀正しく教養豊かな貴族、戦場では勇敢な武人であるとの風評通り、伯爵の見事な長身と端麗な美貌、濁りのない低い声音は女性のあこがれを一身に集めていたし、皇帝家の覚えもめでたい出世頭でもあったのだから。     護衛らの監視の厳しさといい、本人の腕前と隙のなさといい、ザクセン伯を倒すのはこれまでのどんな標的よりも難しいと思われたが、アウリルとて修羅場と厳しい訓練を経てきた青年だ。それなりに負けない自信はあった。  好機を虎視眈々と狙っていた二週間目の矢先、客人に庭を案内したいと伯爵のほうから持ち掛けられ、アウリルは用心しつつも受けた。  自分の正体を知られてしまったための罠である可能性は大きいが、相手から誘われたのを幸い、暗殺を果たそうと考えたからだ。  夜宴のあと、ザクセン伯爵は黒のマントをゆったりと肩に羽織り、襟の詰まった青色の服を纏って待ち合わせ場所に現れた。護衛も伴わず、たったひとりで。  篝火が遠く照らす中、人気のない石畳をレオンハルトは進み、その数歩後ろにアウリルは付いて行った。  客分として城の最高権力者に遠慮していると装いながらも、実は周りの林に潜んでいるかも知れぬ刺客を恐れたためで、いざとなれば伯爵を楯にして逃げるつもりでいた。  が、貴族はそんな青年を笑った。 「さっきから足音が硬い、いったいどうしたのだね――まるで敵の中にいるみたいじゃないか」 「いいえ伯爵様、とんでもない……お思い違いをしていらっしゃいます」  アウリルは繕った笑顔で答えたが、内心ではひやりとしていた。  足音だけで殺気を勘付くとは、想像以上の手練のようだ。  いつもの護衛兵の気配は、両脇の林からは感じられない。この場には、完全に伯爵と自分の二人きりらしい。  ――今しかない。  短剣の用意までも悟られることのないよう、気息を一層潜めて歩みを進めていたが、右手を振りかざした瞬間に伯爵がこちらを振り返り、同時に剣は叩き落されていた。 「っ――!」  瞬時の反撃と衝撃に呻いて体勢が崩れた隙を逃さず、レオンハルトがアウリルの腕を捕らえた。  しまったと咄嗟に身を引く前に、唇に何かが押し付けられた。  それが相手の唇だと理性が認識するまでに時間が掛かってしまい、その間に強引な舌は口腔内まで割って入ってきて、気が付けば深く絡め取られていた。  ――冗談じゃない。  男に、それも暗殺の標的にこんな事をされるなんて!  過去に女性相手にこの程度のことはして来たが、よもや同性と接吻を交わすなど想像もしたことがなく、しかも貪られる側になるなどとは常識の範囲外で、それゆえにアウリルは動揺したのだが、理性を立て直すころにはレオンハルトは完全にこちらの力を奪っていた。  必死に抵抗しても、狡猾な舌はアウリルを責めるのを止めない。  息が詰まり、女性とのそれですら感じたことのない、頭が痺れるような感覚に襲われた。  ようやく解放され、耳朶を舐められた時は知らず知らず吐息が漏れていて、それを他人事のように聞いた時は自分自身が信じられなかった。 「君が城に現れたときから、ずっと目を止めていたよ――私を殺しに来た、ベーリッツ伯爵の一味である騎士を……こんな汚れ仕事をさせるのはもったいないくらいの美しさだな」  まさか、最初から目的を知られていたのか。  愕然とその科白を聞くアウリルにレオンハルトは悠然と笑みを浮かべ、締め括った。 「寝首を掻きたければ、いつでも来るがいい――相手をしてやるぞ」  怒りと屈辱のあまり拳を相手の鳩尾に突き込もうとしたが、部隊でも一、二を争うと言われる腕利きの攻撃をレオンハルトはかわし、膝を払った。  そして地面に腕を突いた騎士に慈悲の一瞥すら与えることなく踵を返し、回廊に戻って行った。 ※ ※ ※  ――寝首を掻けとは、どういう意味なんだ。    アウリルは辛うじて身を起こし、客間に帰ったあとで一晩中悩みぬいた。  真正面切って来いと挑発されたり、女性の刺客にそう告げるならともかく、男の自分にそんなことを言ってのけるとはと。  だいたい城主の寝室など、どこでも警備が一番厳しい。文字通り寝ているところを襲おうとしても簡単に忍び込めるものではなく、考えたこともなかった。  しかも当初から自分に目を付けていたと放言したり、無理矢理に接吻して来たり、レオンハルトの行動は何もかも訳が判らない。  ――同じ男にそんな事をするなんて、あの男はどこかおかしいんじゃないか。  眉を顰めてみても、ふとした拍子にレオンハルトの唇の感触が蘇るのは止められなかった。  どこまでも強引でありながら、優しく己を侵略した、身の裡が震えるようなあの接吻が。  記憶を辿るだけで頭の芯の痺れにまたも襲われそうになり、アウリルは与えられた責務に急いで思考を引き戻すと、その日は仕方なく休むことにした。  翌日から城主の警護が一番緩むときを改めて調べてみたところ、それはレオンハルト本人が語ったとおり城内の私室に引き上げる時であり、意外な結果にアウリルは唖然とした。  素姓を知られた以上はいつ殺されるか判らず、逆襲を想定して身構えるも、伯爵がアウリルの正体を臣下に教えた様子はなく、相変わらず旅の途上の身分高い騎士として優遇を受けることができていた。  ――これは……やはり、寝間に来いという事なのだろうか?  警備が一番緩いその時を狙って来いとの、伯爵独特の挑発だったのか?    いかにも豪胆で腕に覚えのある男らしい言い草だが、そこまで自分の力を見くびられたのは、若いアウリルの自尊心をひどく傷付けた。  その傷付いた矜持を回復するには、相手が望む状況に乗ってやった上で、こちらが勝利を果たすしかない。  アウリルが庭での出来事の四日後にあえてレオンハルトの寝室に赴いたのは、それが理由であった。 ※ ※ ※  城主の寝室に繋がる廊下を要所で警備している兵士たちに『伯爵に御用事で呼ばれた』と説明すると、彼らは疑いもせずアウリルを通した。どうやらレオンハルト本人が、旅の騎士が現れれば奥に通せと命じているようであった。  樫の扉を規則正しく叩くと、中から『入れ』という気楽な返事。  懐に短剣を忍ばせたまま中に入れば、客間以上の豪奢な内装に彩られた空間がそこにはあった。    広い室内には紋章入りのタペストリーが壁に掛かり、槍や長剣をはじめとする武器も幾つか備えられ、薄暗い蝋燭の光が燭台に灯されている。  ひとわたり目を走らせると、大きな寝台にシャツとタイツ姿のレオンハルトがのんびりと横になっていた。  しかし傍には鋼鉄の鞘に納まった長剣がさり気なく立て掛けられているのをアウリルは見逃さなかった。 「ずいぶんと遅かったな、アウリル――こちらから訊ねて行こうかと思っていたところだ」  レオンハルトは両手を栗色の髪の後ろに組み、枕に頭を預け、底意のない顔で笑っている。  その笑顔を無視して、アウリルは寝台に歩み寄りながら冷たい声で尋ねた。 「こうまでして、私をお試しになりたいのですか」 「それもあるな、ベーリッツ伯爵の抱える秘密部隊の騎士とは、どの程度の力量なのかとね――残念ながら君に私は倒せないが」 「やってみなければ判らないでしょう」  負けず劣らず辛辣に返す若者に目を据えたまま伯爵は身を起こし、床に足を下ろしながら再び笑った。 「止めることだ、私は君を殺したくはないからな」  レオンハルトの右手が剣の柄に触れる前に、アウリルは一気に踏み込んだ。  瞬時に鞘が払われ、心臓目掛けて下ろされた短剣が受け止められる。  刃が打ち合う鋭い金属音が響き始めた。  短剣かつ相手より身長が低い以上はアウリルの方が不利と見えても、広い戦場と違って間合いが詰めやすい。  接近戦にはむしろ長剣より有利な面が多いが、レオンハルトが巧みに間を広げて長剣の利を最大限に引き出そうとして、両者とも譲らない。  鍔迫り合いの間も、アウリルは己が殺されるとは微塵も感じなかった。  レオンハルトと同等、あるいは上といってもいい指揮官から、あらゆる敵を想定した立ち回りの訓練を受けてきた。  血反吐を吐いてもまだ足りないあの日々を乗り越えた自信が、受けた屈辱への怒りが、攻撃の集中力と化して相手に向かっていた。    レオンハルトも当初こそ稽古で弟子をいなすような、ある程度の余裕を見せていたのだが、切っ先がすれすれの処を掠めても巧みにかわすアウリルをどうにも捉えきれず、眉宇に苛立ちを浮かべつつあった。  その隙にアウリルが白絹のシャツの前身頃を薙いだ瞬間、彼の目付きが変わった。  切れ長の碧眼が真剣になり、視線だけで相手を射倒すような恐ろしい光を放つなり、間合いをより縮めようとする。  じりじりと詰め寄られていると見せかけながら、アウリルは壁に掛かった武器に近付いていた。  察したレオンハルトが先回りして封じようとするも、その前にアウリルの手は細い剣を素早く取り上げた。  抜剣する一瞬を突いて、レオンハルトの長剣が眉間にまっすぐ振り下ろされる。  アウリルは両手の剣を逆手に持って斜交いに構え、眼前で白刃を完全に受け止めた。 「―――っ!」  二人の瞳が互いを見据える。  激しい立ち回りにもかかわらず、どちらも息も乱れていなかった。  だが、アウリルの心の中は正反対だった。    先に刃を下ろしたのは、レオンハルトであった。  溜息を吐いて己の剣を壁の金具に引っ掛けると、アウリルに向き直った。 「判った……大したものだ、私でさえ本気にならざるを得なかった」 「………」 「剣を収めてくれ、アウリル。君を害する気など元からなかったのだから」  ――簡単に刃を下ろす気か?  こんな好機はまたとないぞ、いま殺さなくていつ殺すんだ。    アウリルの心はそう叫んでいたのに、レオンハルトの凝視に引き込まれるように、指が剣の柄を離した。  いや――力が抜けたと言った方が正しかったかもしれない。    ふたつの剣が床に落ちる重い音が、響いた。  近付いて来るレオンハルトを呆然と見つめたまま、恐ろしい予感におののき、喘ぐように息を継ぎながら、ただ、立ち尽くすしかなかった。    前回と同じように強い力で抱きすくめられ、唇を塞がれ、そして今度こそアウリルは抵抗力を完全に失った。  寝台に連れて行かれ、すべてを奪い尽されても、何も抗えなかったほどに。
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