Der Meuchelmoerder

3/14
131人が本棚に入れています
本棚に追加
/14ページ
 城に滞在して一ヶ月目に入ろうとしているが、アウリルは状況の変化に自分でも戸惑っていた。  レオンハルトに抱かれてからというもの、城主の友人扱いで傍から離してもらえなくなった。いつ“寝首を掻く”か判らない自分だというのに、昼は平然と身近に置き続けるし、夜は当たり前のように責め抜く。  その後では欧州情勢から世間話、学問、国内貴族の噂話までとりとめもなく寝物語に語りあう日々が続いている。  自分は女性でもないし、彼の臣下でもない。政敵の部下なのだ。  暗殺者を寄越させるほど反目し合っている敵の。  一体、何のつもりでこんなことをするのか。  自分が過去にそうして来たようにこの身を籠絡して有益な情報を得ようとしているのかと身構えもしたが、さにあらず、彼がアウリルから機密を引き出そうとしたことは一度もなかった。  寝室に出入りさせるのはそれが最終目的に違いないと思いこんでいただけに、アウリルも拍子抜けと混乱を覚えたのは否めない。 ――美しい愛人が何人もいるのに、なぜ敵方の男である俺を……?  ベーリッツ伯の部隊は全員が宗教の教えに染まらぬよう育成されているが、同性に抱かれることに本能で怖れ、困惑し、震えるのは当然の話だ。  拒まなければと理性は重々承知しているのに、いざ彼に呼ばれ、逞しい腕に抱き締められると息が乱れてしまう。  当初の目的からしてレオンハルトに好意など持っていなかったが、こうまでされてもなぜか厭悪感も湧かなかった。  剣を交えた時や公務を行っている時の冷徹な横顔とは違い、抱いてくる所作にはそれなりの熱意があったからかも知れない。  女性の籠絡術はベーリッツ伯家の熟練の侍女に訓練され、実行してきた。だからこそ己が貴婦人らを抱いてきたその手管とは比べ物にならないほどに、レオンハルトの愛撫に細やかな気遣いが籠っていることが察しとれたのだ。  こんな風に他人から欲されるのは、生まれて初めてのことだった。  そもそもアウリルは真正面から一対一で人と向き合った経験に乏しい。  人生の最初で実母に捨てられ、養父母に子として慈しまれはしても、ベーリッツ伯に引き離されて。  利用価値を高めるためだけに学問と武術を教え込まれ、政争の道具として各地に派遣されてきた。  友人といっても養子時代に近所の子供らと仲良くしていた程度で、部隊の仲間は苦境を共にするかけがえのない同輩であって友人とはいえず、主人の命令で言い寄った女性たちはアウリル自身ではなく、単に不倫の慰みを欲していたに過ぎない。    利害というものを抜きに、一個の対等な存在として見られたことがないゆえに、レオンハルトとの刻では物理的な喜悦よりも求められる精神的な喜びのほうが大きく、彼の閨に出入りすることを自らに許すようになっていった。  いや、待ち望んでさえいた。  身体は慣れぬ情事に苦しみと痛みを感じているのに、いつしか真っ白な快楽のうねりの中で自分を見失い、昂ぶりを迎えるのが常だった。  けれどレオンハルトはいったん身を離せば最後、労わりを忘れたような言動を繰り返す。  彼がアウリルに優しいのは、抱擁のときの唇や手の動きだけ。  二人で達した直後ですら、辛辣な物言いを向けるのだ。  その切り替えに慣れるのにアウリルは苦労した。たしかに自分も女性との情事の後は冷静になったし、与える側のレオンハルトが即座に醒めるのも判らないではなかったが、しかしこうまで丹念に愛された後でこちらが中々抜け出せないのは無理からぬ話ではないか。  なのに彼は僅かな時間の余裕もくれない。  いつまで敵同士の立場を忘れているつもりなのかと言わんばかりの態度で接して来る。  相手の変わり身に付いて行く術をアウリルもどうにか身に付けはしたものの、後に残るのは寒々しさと虚しさだけだった。  しかも逢瀬を重ねるうちに、初対面の時に感じた落ち着かない気持ちが強まっていることも、それに反比例して彼への殺意が弱まりつつあることも、アウリルは自覚していた。  このままでは失敗するばかりか、仲間が酷い拷問を受けてしまう。  クルトたちを辛い目に遭わせたくない。  今回とて『ザクセン伯爵は手強い奴らしいけど、お前ならきっと大丈夫だよ』と皆で励まして送り出してくれたのに……  胃の腑を捩じられるような焦燥に駆られ、悄然と枕に背を預けているアウリルを、目を覚ましたレオンハルトが笑いながら見上げてきた。 「どうした、主人が恋しくなったか」  アウリルは彼と同等の無神経な態度を作り、貴方には関係のない話だと遮った。 「いや、関係なくはないな。ベーリッツ伯爵の狡知ぶりは北方のこちらにまで聞こえて来ている、だからこそ私も君が彼の刺客だと判ったわけだが」  なにゆえにレオンハルトが正体を言い当てたのかは、すでに本人から説明されていた。  かなり以前から皇帝派の間で、ベーリッツ伯が何らかの卑劣な策を用いているのではと囁かれていたのだという。  何しろ彼の敵が勢いを増したころに、夫人の実家との諍いが都合よく起こるのだ。不審に思う者がいても不思議ではない。  しかしベーリッツ伯も慎重で、その手を頻繁に使うわけではなかったし、夫人の不倫騒ぎは中世にはどこの国の貴族でも――王族の中にすら――ある話だったので、証拠もない以上は偶然の一致だろうとの結論で終わっていたが、レオンハルトだけはそうは思わなかった。  敵の家庭を掻き回したあとで不倫相手が姿を消す手際の良さや、場合によっては暗殺が行われることから、単に容姿だけが優れている部下を派遣するのではなく、徹底的に訓練を叩き込まれた手練たちが養成されているはずと考え、あちこちで情報収集に当たらせた。  フランスやイタリア、ドイツなど、欧州の主な国に放った間諜たちが持ち帰った情報は、レオンハルトの推測を裏付けることとなった。  そして教皇派と皇帝派の係争が激化している現況から推測すると、近いうちにそれらしき騎士が自分のところにも現れるはずと待ち構えていたのだと。  ここまで内情をつまびらかにされているからには、隠しても仕方がない話。  アウリルもそれを知ってからは、当たりさわりのない程度に会話の相槌は打つようになったし、出自のことも教えていた。   「任務に失敗すれば、制裁が待っているのは容易に想像がつく――ベーリッツ伯のことだ、さぞかし効果的で陰湿な方法で君を処罰するのだろうな」 「………」 「ならばここにずっと居ればよいではないか? 少なくとも君一人を匿える程度の力は私も有しているぞ」 「しょせん敵の一兵士にそうまでして下さらずとも結構です」  醒めた遣り取り。  匿うだの何だのもこちらの安全を心配しているのではなく、言葉の軽い投げ合い程度なのがあからさまだ。  これが本当に先刻まで肌を重ね、汗を惜しみなく流して抱き合った人間同士の交わす会話だろうか?  視線を闇の彼方に向け、レオンハルトの方を見ないようにしているアウリルは心の中で唇を噛んでいた。  そんなアウリルの虚しい努力も知らぬ気な、押し殺した笑いが傍らの男の喉から響いた。 「兵士だ、確かに――だが君の美しさと気品はどこぞの名門貴族の子弟と名乗っても充分通用する、伯が集めているのは孤児ばかりと聞いていたから、君が現れた時には意外だったな……もっとも君が話していたように伯の夫人が本当の母君であるのなら、頷けない話ではないが」 「あくまで推測です、それに私の本物の両親は養父母だ、それ以外ではありません」  レオンハルトは皮肉な嘲笑で答えた。 「あの伯の部下とは思えないほどに情に篤い青年だな、君は――ベーリッツ伯の精神は疾うの昔に病んでいる、こういう事を君たち部下に行わせるのは、自分自身への理由づけに過ぎないというのに」 「理由づけ?」 「夫以外の男に心を傾けるのは、どの女性でも同じだと思い込みたいのだよ……そうすれば自分の奥方だけがとりわけ心弱い、不貞な性格ではなかったと少しは納得が行くからな――そして他の女性たちを同様に破滅させることで、夫人ひとりが悲惨な目に遭ったわけじゃないと言い訳をしているのさ、まったく気の毒な方だ」  クルトも自分も探り切れなかったベーリッツ伯の心理に深い洞察をしてのけるレオンハルトの言葉は、有り得るかもしれないと思わせるもので、アウリルは考え込んでしまった。  なるほど、だから主人は不倫の手口で女性を陥れたがるのか、と。  こちらの様子には頓着せず、男の響きの良い声が続ける。 「さすがに私も、亡き夫人の息子にまでこういう汚れ仕事をさせる心理はよく判らないな。まあ狂人の思惑など我々には量りようもないが……だが君たちの頭領が証言したように君が奥方に瓜二つであるのなら、似姿を側に置きたいだけかも知れないがね」  言い終えると共に、己の横顔に強い視線が注がれているのが判る。  向くまいとしても、レオンハルトがこちらを見つめていると思うと、アウリルは心が揺らぐ。  傍らの男を見下ろす。  目線がぶつかり合う。  精悍な腕が伸びてくると同時に、躯を組み伏せられていた。  青色の瞳が自分を覗き込んでいる。  言葉とは裏腹に真剣な瞳。  力強く、すべての抗いを奪ってゆく瞳。  自分がどれだけ傷付きながらも彼から離れられないのは、この瞳で見つめられるからなのだろうか――  覆い被さる唇に応え、腕を回した。  先刻までの刻の贖いを求めるかのようにアウリルは強くレオンハルトの背を抱き締め、彼もまた贖うかのように無言で情熱的な愛撫を繰り返す。  判らない。  何もかも判らない。  自分たちの関係も、己の心も、相手の心も、何ひとつ真実は判っていない。  課せられた任務。  自分と仲間たちへの拷問と処罰。  先に待つ未来を考えるだけで心は懊悩に沈む。どうにかしなければと焦りが募る。  けれど今は、この愉悦の時を気が済むまで味わい尽くしたい。  アウリルは願った。  もしかしたら互いを本当に理解しあえる、唯一の刻かもしれないから……
/14ページ

最初のコメントを投稿しよう!