Der Meuchelmoerder

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 レオンハルトは待っていた。  ただ、常と違って『来たか』との一言も発さず、立たせたままこちらの服を脱がせに掛かった。毎日帯びていたお陰で短剣はもはや装飾の一部とでも思われているのか、不審がられることもなく黙ってベルトを外され、上着もシャツも落とされ、全身が露にされた。  白皙の肌を燭台の薄闇に浮かび上がらせる若者の立ち姿をレオンハルトは眺め、両頬を挟んで、ゆっくりと唇を塞いだ。  ――どうせ俺のことを好きでもないのに、何故こんなことをするんだ?  アウリルはそう難詰したかった。  彼を好きだと自覚してから最初で最後の刻となる今だからこそ、触れるのを恐れているかのような、いつもよりも繊細で優しい所作は泣きたいほどに心に沁みた。  無言で顔を背けると、その首筋にレオンハルトは口付けを落とし、腹筋まで唇を這わせたあとに足元に跪く。  アウリルは思わず彼を見下ろした。  これまではずっと、寝台に組み伏せられてから服も剥ぎ取られる手順だったのが、今夜は勝手が違う。  訝しむ暇もなく、彼はアウリルを呑み込んだ。  急いで身体を引こうとすると、腰を両手で捕らえられてしまった。 「いやだっ……」  恥ずかしさに身を捩った。  抱かれてからというもの、躯の奥底までも奪われては来たが、これは初めてだった。  好きな人に、こんなことはさせたくない――アウリルは融けてゆく理性の中で懸命に抗うも、誇り高いレオンハルトが足元に跪いているさまは自分が彼を支配しているようにも見えて、不可思議な昂りが腰にわだかまる一方だった。  何故だろう?  今日の彼の愛撫は、どこか哀願が感じられる。  こちらを嬲りながらも、どこか抑え切れない情が籠もっているような気がする。  レオンハルトへの真の気持に気付いたから、いつもと同じでもそう思ってしまうのだろうか。  それとも、本当にそうなのだろうか……  息を弾ませながら温かい舌の感触に身を委ねているうちに、アウリルは自分を制御する余裕もなく果てた。  女性相手ならばともかく、よもや身分も年齢も上の男の口中に放ってしまったことがいたたまれず、場を逃げ出したかった。  ところがレオンハルトは嫌がりもせず、そのまま飲み干すではないか。なぜ、と顔を歪めるアウリルを見上げて立ち上がると、今度こそ寝台に連れて行く。  ――どうして?  好きでもないなら、こんなことはしないで欲しい。  どうしてそんなに優しく撫でてくれるんだ?  どうしてそんなに柔らかく接吻してくれるんだ?  決してアウリルの思い違いではなかった。  明らかに、レオンハルトの愛しかたは普段よりも細やかで優しかった。  それなのに濃密で情熱的で、喘ぎ声がまったく抑えられない。  こちらが乱れれば乱れるほどレオンハルトは一層深く責めてきて、徹底的な焦らされ方と心の痛みに、アウリルは涙を流し続けた。  ――こんなに貴方が好きでも、届かない……    どうせこの後に待っているのはあの醒めた態度と、短剣を持った自分。  ならばどうして初めての時も、それから後も、冷たい態度で抱いてくれなかったのだろう。  自分は宮廷で出会った瞬間から彼に惹かれていた。強い青色の瞳に心がざわめいたのは、それゆえだった。  でも実像のない優しさを与えておいて、この美しい貴族は自分を突き放した。  来る夜も来る夜も。  彼の眼差しや行動に一喜一憂した自分。  何だったのか、あれは。  そう、単なる道化だ。  今こうやって抱かれているのも、道化だ。  女代わりに扱われているだけの、虚しい刻。  自らが満足するために相手を宥めて、簡単に言うことを聞かせるのが目的の偽りにすぎないのに、どうしてそれだけのために彼はこんなに心を尽くして優しさを装うのだろう。    全身に官能の波が襲い掛かり、包み込もうとしている。  彼に運び去られるたびに達する、激越な波。  アウリルはその中で悲鳴を上げて、意識を失った。  一緒に昇りつめたとき、レオンハルトが自分の名を呼んだような気がしたのは、幻聴だったのだろうか―― ※ ※ ※  目が覚めたのは、アウリルが先だった。  レオンハルトはいつもアウリルを肩に抱き寄せて眠るのに、今回は疲労に頽れたのか隣で眠りを貪っていた。  湿った栗色の髪を枕に広げ、上体を剥き出しにした仰向けの姿勢で。  大理石を刻んだ古代の彫刻が生きて在るような、この見事な体躯の命を自分は奪わなければならない――アウリルは暗澹と沈む心を何とか支えながら彼を見つめると、そっと寝台から滑りおり、肌を拭って服を纏い、短剣の鞘を払った。  ――考えるな。考えてはいけない。  何も思わず、一息に殺るんだ。    自分に言い聞かせながら、足音を忍ばせて寝台に引き返した。  これまでどんな人間を手に掛けようと胸の鼓動が早まることなど皆無だったのに、動揺と緊張で息が詰まりそうだ。    衣擦れを立てないよう短剣を持ち上げ、彼の胸に突き立てようとしてから、アウリルはやっと気付いた。  レオンハルトは敵の刺客である自分が傍にいるにもかかわらず、何も疑ったりしないで、安心し切って眠っていることに。  今だけでなく、いつもそうだった。  自分が逆の立場なら、とてもではないがいつ殺されるか判らないとぴりぴりして、眠れなどしないというのに。  それなのに、彼は。  こんなに自分を信じてくれている。  武具も寝台に立てかけてはいても、身構えなどせず、安らかに寝息を立てている。  人並み外れて豪胆で腕に覚えがあるからというだけで、こうはならない。アウリルを信じているからこその行動だ。  いったい、これ以上の信頼がどこにあるというのだろう。  レオンハルトをただの上流貴族だ、感情がない冷血漢だと評した自分。  彼の何を見ていたのか。  今から為そうとしている行いを振り返るがいい、本物の冷血漢は己のほうではないか。    寝首を掻きに来い、と彼が最初に語った科白が脳裏に蘇る。  アウリルを悩ませたほどに何重もの意味を含んだ、遠回しな誘いだった。  事後の冷静な態度もあれと同様に、心を率直に示すことが出来ない彼の不器用さの表れだとしたら。立場を忘れることは許されない支配者としての意識だったとしたら。  そうだ。唇に乗せることが叶わない想いを、その分レオンハルトは優しい愛撫で精一杯示していたのだ。  洗練された貴族という横顔とはまったく違う、不器用で、けれど真摯な愛情……  彼は、自分を好いてくれていた。  いや、それだけでなく、きっと――愛してくれていた。  自分と同じように。  アウリルは確信すると同時に、唇を噛んだ。    ――俺は最低だ。  こんなに愛してくれている彼の真心を裏切って、それも眠っている間に殺そうとするなんて。  どんなに堪えても、涙が止まらない。  光る粒は顎まで伝い、服を濡らし続ける。  ゆったりと瞼を閉じているレオンハルトの端整な寝顔は少年のようで、心が引き絞られた。  ――赦して。  赦して、レオンハルト。  貴方を愛していた。  貴方も俺を愛してくれた。  それなのにこんな形でしか報いることが出来ない俺を、どうか赦してほしい。  目を瞑って、心臓を狙った。  一番苦しくない場所を。  身体に刃が喰い込む、いつもの手応え。  眠っているレオンハルトの唇から、ぐっと低い呻きが鈍く漏れる。  鍛え上げられた筋肉が刃を巻き締め、血が肌の上に広がり始める。  ゆっくりと、男の瞼が開いた。  その時の瞳。  アウリルはいっそ自分が死んでしまいたかった。  短剣の柄から指を離すアウリルの腕を、レオンハルトは震える手で掴んだ。  彼は何も言わなかった。  ただ、無限の絶望と苦悩が浮かんだ瞳で、アウリルを見上げていた。  ――何故だ――  彼の瞳は、そう言っていた。  何故、愛し合った後であるこの時にと。  何故己の信頼を打ち砕いたと。  愛されていた証拠をその瞳にはっきりと見て取ったアウリルの心もまた、血を流していた。  ――赦して。こうするしかなかったんだ。  仲間に、領地の人々に俺ひとりのために迷惑を掛けないためには、こうするしか。  涙を溢れさせるアウリルの顔をなおもレオンハルトは凝視していたが、やがて腕を掴んでいた指の力が抜け、敷布の上に滑り落ちる。  瞼も閉じられ、がっくりと頭が枕に沈んだ。  アウリルはせめてと短剣を抜こうとするも、どうしても抜く気は起きなかった。  抜けば余計に血は流れるからだ。  彼は死んだのに、何を今さら出血量を気遣うのかとアウリルは自分を嗤ったが、それでも出来なかった。  哀しい情景、自らの想い、罪悪感、すべてを振り切るように急いで踵を返すと、部屋を出た。  最後に寝室に滞在していたのがアウリルであることは護衛兵が承知している。一刻も早く城を脱出してベーリッツ伯の領地に入らなければザクセン伯の暗殺犯として即座に疑いが掛かり、捕縛される。  とにかく南に向かい、逃げ切らなければならない。  アウリルはすでに纏めていた荷物を携えると、夜明け前にもかかわらず厩舎に向かった。自分の手で愛馬に馬具を着け、城門の見張り兵に門を開けさせるなやいなや一散に走り出て、嗚咽を堪えながら南の街道を下った。
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