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ザクセン伯の使者は、携えた文書をベーリッツ伯の前で重々しく読み上げた。
――今を去る二十年前、ザクセン伯の従兄弟に当たるナタナエル=フォン=デルフトとその一行を鏖殺し、闇に葬ったこと。
彼とベーリッツ伯夫人との間に生まれた一子アウリルを断りもなく部下とし、後ろ暗い仕事に手を染めさせていること。
さらには皇帝派の有力貴族たちを策によって陥れ、時には謀殺という手段を用いていること。
ベーリッツ伯を名指しの上でこれらの罪状を厳しく糾弾すると共に、従兄弟の仇を討ちデルフト家の正当な跡取りを取り戻すとの宣言が、ザクセン伯爵家当主レオンハルトの名で羊皮紙に認められていた。
悪戯か気の狂った冗談としか思えず、聞き終えた後もベーリッツ伯はしばし唖然として、書状を直接読み下しもした。
しかしラテン語で書かれた文書の末尾にはっきりと署名されているのはレオンハルト=フォン=ザクセンの文字であり、印璽も押されている。
ザクセン家の書記官はドイツきってのラテン語の名文家で知られており、特徴ある明瞭な文体は間違えようもなければ、署名の筆跡もレオンハルトのものに酷似していた。
――ザクセン伯爵はとっくの昔にアウリルが殺したはずだ。
ベーリッツ伯は混乱に陥った。
一ヶ月前にザクセン伯家の様子を探らせた間諜によると、レオンハルトの実弟フリードリヒを中心に宮廷は辛うじてまとまっているものの本人は長らく姿がなく、内部のそちこちに動揺が見られるという報告が返ってきていた。
ただ領民にはまだその旨は隠されているようで、いずれは時期を見計らってレオンハルトの死が布告され、采配力が実兄より劣りはしても嫡男が二名いるフリードリヒに家督が移るだろうとすっかり安心し切っていたのに、なぜ今頃になって亡霊が蘇るのか。
しかも書かれてある内容は、アウリル本人がレオンハルトに教えていたとしか思えないことが、ベーリッツ伯の混乱と怒りをさらに煽った。亡き妻が産みの母とアウリルが薄々勘付いているのを、伯も承知していたからである。
――主人である私を、アウリルは欺いたのか。
ザクセン伯を殺したと見せかけて、のうのうと戻って来たのか?
生い立ちを簡単に喋るほどに、敵のあの男に気を許したのか?
デルフトの従兄弟である男に!
激怒に我を忘れたベーリッツ伯はアウリルを地下牢に即刻投獄し、食事もほとんど与えなかった。
事情をもっと探ってはどうですとの、指揮官である騎士の説得にも耳を貸さず。
一方、クルトは謎の書状とアウリル投獄の報を聞くと同時に、潮時と踏んで残り九名の仲間と打ち合わせた。いったん城から逃げて街に潜伏し、状況をもっと把握してからアウリルを助けよう、と。
ザクセン伯の宣戦布告を受けた直後にベーリッツ伯は領内の全兵力を結集させており、逃げても追手が来る心配はまずない。まさに千載一遇の好機だった。
これまで逃げられなかったのは、伯の執念深い追求から逃れることは極めて難しかったのと、大抵の隊員は任務で飛び回っていて全員で脱出の手筈を整える機会がなかったからであった。
九名は取りあえず北に逃がし、クルト自身は近くの街に潜むことにすると、彼らはすぐさま城を脱出して散らばった。
めいめいが身の安全を確保したのを見届けた上で、頭領は地下牢に捕らえられたアウリルの元に向かった。
※ ※ ※
アウリルは何が何だか、さっぱり判らなかった。
指揮官に呼び出された直後にいきなり兵士に捕らえられ、地下牢に押し込められたのだから。
この三ヶ月、軽い任務しかこなせなかったものの、失敗はしていない。いくら記憶を探しても処罰の理由に行き当たらず、当惑するしかなかったのだ。
食が細くなっていたせいで朦朧としがちな頭を支えて寒い牢の壁際に座っていると、呻きと何かが倒れたような音がした直後に、アウリル、と扉近くの足元に開いた通気口から声が聞こえた。
アウリルはクルトの頼もしい声に喜色を浮かべ、両手首の枷をものともせず扉の前に駆け寄った。
クルトが見張りを一時的に昏倒させたようだが、時間がないのはアウリルにも察せられる。
無駄な話は互いにしなかった。
「アウリル、大変なことになったな……だけど俺たちが何とかするから、それまで辛抱しろよ。ここの鍵は伯爵しか持ってないし、簡単には破れそうにない構造なんでな」
「俺、何でこんな所に閉じこめられたんだろう、理由が判らない」
「判らないのも無理はないな、伯爵もオヤジも、お前に何も話さなかったんだろう?」
「うん」
「あのな、俺も詳しい事情は判らないんだがな――どうやらザクセン伯爵が生きているみたいなんだ、彼の名前で宣戦布告の書状がベーリッツ伯宛てに送られてきたんだよ」
アウリルは仲間の科白に、牢の中でひとり首を振った。
「ありえない――俺は確かに彼を殺したんだ、それはないよ」
「だったら彼の名前を騙っている奴が居るかだな、可能性としては弟君のフリードリヒ殿か……書状では、伯爵の従兄弟に当たる男の仇を討つのと、そいつの息子であるお前を跡継ぎとして取り戻しに行くと明言されてたんだが、この内容に心当たりはあるか?」
そういえばレオンハルトは言及していた、従兄弟筋に当たる男がひょっとするとアウリルの父かも知れないと。
けれど証拠がない上に、二十年も前の話だと遮ったのはこちらの方だ。
古い家臣に聞いたと話していたから、その老臣が主人の遺志を汲んで今回の書状を作ったのだろうが、それとて憶測の域を出ない話だ。不確定情報は非常事態には無益と知る聡いアウリルは、判らないと答えるに留まった。
クルトもそうか、と相槌を打ったきりそれ以上の追求はせず、皆は城を無事に脱出したから俺たちのことは心配するなとアウリルを安心させると、立ち去った。
仲間の気配が扉の向こうから消えたあとも、アウリルは『ザクセン伯爵が生きているらしい』との一文を頭の中で反芻していた。
――ありえない。絶対にありえない。
自分は胸を突いたのだ。
手元が少し狂ってしまって即死させることは出来なかったが、彼はそのまま枕に頭を沈ませた。
あの反応で、あの手応えでレオンハルトが死んでいないはずがない。
だが、いつもなら脈を確かめるが、それをする気力もなかったために完全確認をしていなかったことに今さら気付いた。
――馬鹿を考えるな。
アウリルは自分を叱りつけた。
百歩譲ってレオンハルトが生きていたところで、何になるだろう。
寝ている間に自分を殺そうとした人間になど、彼は二度と会いたくないに決まっている。
あの時の彼が味わった気持ちを、アウリルは我が身に置き換えて考えると、今こうして生きていることさえ恥ずかしくなる。
信頼して眠りを漂っていた時にいきなり刃を振り下ろされた相手の心は、単に傷付いたとか辛いとか、そんな生やさしい物ではない。
彼の瞳に浮かんでいた表情は身体が味わっている苦痛ではなく、心が負った苦痛を示していた。
もし自分を殺そうとした人間がいて、何とか魔手を逃れて生き延びたと仮定しよう。
その人間の側で安穏と時を過ごすことなど、はたして出来るか?
――出来る訳がない。
想像しただけで心が張り詰め、休む暇など一秒たりともない。
危害を与えた存在を避けるために、動物としての本能が働いているとしか言いようがない拒絶感なのだ。
自分もそうやって、本能的に彼に厭われる。敵味方という以前に、存在全部を拒絶される。
そんな相手の前に、どんな顔をして出られる?
愛する者にそこまでの厭悪感を突き付けられてしまったら、自分の心はさらにずたずたになってしまう。
――もう、良いんだ。
都合の良い想像は止めよう。レオンハルトは生きてなどいない、絶対に死んでいる。アウリルは何度も理性に言い聞かせた。
彼を殺めた下手人はベーリッツ伯の回し者と知った家臣たちが、主君の横死を容易に公表できないために生きていることにしているのだ。従兄弟が殺されたとの建前を掲げつつも、裏では主人を殺された復讐のために大軍を引き連れてこの地を訪れ、ベーリッツ伯を討ってひと段落したらレオンハルトの死を公にしてフリードリヒに家督が移るのだろう。
何のために想いを抑えて彼を殺したのか。
平穏に暮らしている人々を戦乱に巻き添えにしたくなかったからああまでしたのに、遺臣たちの報復を考慮に入れていなかった。考えればすぐに判ることだったのに。
結局は自分のしたことは、何もかもが無駄だった。
せめて仲間が助かったことを、ちいさな救いにするしかなかった。
食事は一日一回、ほんの僅かばかり出されていても、それは飢え死にしろと言われているに等しい量だったし、アウリルも食欲がもとからなく、手も付けなかった。
冬が近く通気口があるきりの地下牢は当然暖炉など皆無で、凍るように冷たい。
部隊員たちは捕縛時の脱出法を指揮官からみっちり教わっているだけにベーリッツ伯も警戒し、蝋燭すらも食事の際に短い一本のみという過酷な処遇で、闇の中でアウリルは震える指先を不自由に擦りながら、希望の見当たらぬ先行きに思いを馳せた。
――クルトは助けてくれるって話してくれたけど、これじゃもう、助かりそうにない。
俺が死んでも、どこにも行けない。
天国なんて無理だ。だってレオンハルトが居るのだから、俺なんかが傍に行ったらいけない。
だったら地獄に堕ちるしかないのかな……?
そうだな。俺には地獄が丁度なんだろう。
真剣に愛してくれた人を裏切って、卑劣な手で殺して。
だのにまだ生きている俺には、救いのない場所が相応しいんだ。
生まれた時から捨てられた自分。
養父母の庇護もつかの間、伯爵に暗殺員として養成され、いいように利用されて使われて来た自分。
そして今、手枷を嵌められ牢に閉じ込められている自分……
この世に生を享けた時から、実は居場所なんてどこにもなかったのだと、アウリルは哀しく結論付けた。
祝福されない生を送り出すくらいなら、なぜ俺なんか生んだんだ。
アウリルは再び両親を詛い、自らを呪うと、声に出さず呟いた。
――もう、生きたくない。
じめじめした牢の壁に背を凭せかけたまま、瞼を伏せた。
もし眠ることが出来たとすれば、そのまま目覚めたくないと願った。
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