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牢に閉じ込められてから、いったい何日経っただろうか。
闇に慣れて物の形も捉えられるようになったとはいえ、日も射さない中では時間の感覚がなくなってしまい、食も摂っていないことから、アウリルは横たわってその日を遣り過ごすことが多くなっていた。
一日一回、通気口から水の椀とごく小さなパンを差し出されるたびに見張り兵が今日は七日目だとか、明日で十日目だとか教えてくれるが、麻痺した思考は過ぎてゆく刻にも何も感じない。
クルトもあれ以来、一度も来なかった。
最初にここへの侵入に成功して以来、警備はこちらからも判るほどに厳重になってしまっているからだ。
――何故死ねないのだろう。
早く死にたいのに、人間って意外としぶといな。
涙も流せないほど気力と体力が失われた身でありながらいまだ生命を失わない己を、アウリルは皮肉に嗤う。
とはいえ全身を苛む牢の寒さと狭さに、若い身体も限界が近くなりつつあった。与えられる水で顔を拭った直後は気分も多少ましになるが、もう意識も途切れがちだ。
質の悪い藁が飾りばかり敷かれた程度の寝具では、横になっても腰骨や肩の骨が床に当たって痛み、入った直後と比べてもずいぶんと肉が落ちているのを実感する。
文字通り骨と皮になって死ぬのかと目を閉じていると、突然外が騒がしくなった。
――何だろう……
聞くともなく聞いていると、兵士たちが狼狽える声と走り出す足音のあとで、見張りの気配がごっそり消えてしまった。まるで怪物の襲来から一目散に逃げるかのように。
しばらくして、地上で大きな破壊音が轟いた。
地下まで届いた振動で壁から漆喰の欠片がぱらぱらと顔に落ちてきて、地滑り前の崖か地震にも似た現象にアウリルは驚き、思わず目を開いた。
先の時代にシチリア島で大地震が起こった時は万の人が落命したというが、この地方には地震などないはず。訝しみながら起き上がって、何事なのかと様子を窺っていると、もう一度上下方向への強い振動が起こった。
寝床から跳ね飛ばされたアウリルはしたたか背を打ったが、どうにか膝を突いて起き上がった。
顔を上げて出入口を見れば、先刻の大きい衝撃のせいで扉の蝶番が歪んで壊れ、外への道が薄く開いているではないか。
――もしかして……外に、出られる……?
生きる意欲は失っていても、閉じ込められていた場所から出たくなるのは本能的なもの。
操られるようにアウリルが数歩を歩き、扉をぐっと押すと、外に出られる程度の空間が現れた。
見張り兵はよほど慌てたものか武具を放りっぱなしで、槍の穂先で手枷の繋ぎ目を器用に外したアウリルは、地上に通じる石の階段をゆっくりと踏み締めながら上って行った。
――明るい……
まぶしい……
外って、こんなに明るかったんだな。
闇に慣れた目を懸命に瞬きながら出口に辿りつくと、今度は眼前に広がる一面のきなくさい煙と破滅的な光景に声を失い、咳きこんだ。
目に沁みる煙を払い、咳を鎮めながら周囲を見渡すと、堅牢で美しかった城の壁はもろくも崩れ落ち、あちこちで火の手が上がっている。
建物自体は石造りであっても、隅々に施されている装飾や跳ね橋、扉、タペストリーなどは当然燃えやすい木や布である。それらを餌にして焔が城を舐めるように覆い尽くそうとしている様は、イーリオスの陥落さながらの惨状であった。
城内を常に彩っていた華やかな文官女官らの姿はなく、代わりに鎧を着た雑兵らが右往左往しているが、鎧の特徴からしてベーリッツ伯側の兵士ではない。
――これは、何事だ? 戦闘が起こっているのか?
彼らはどこの兵士なんだ?
ああ、そうか。ザクセン伯の遺臣が、ついに攻め込んで来たんだな……
ならばあの大音と振動は、投石機から城に打ち込まれた岩の塊のせいか。
遠くに聞こえる喧騒を耳にしながらアウリルは戦火を逃れるということも思いつかず、あてどなく廊下を歩こうとしたが、すでに地上への道は火が回っている。
階段をさらに上り、まだ火が来ていない二階の回廊に逃れるしかなかった。
ベーリッツ伯の兵士たちは衆寡敵せずと我先に逃げたのか、階段の途中でも、二階でも、人影は見当たらない。
栄養不足と十日に渡る幽閉生活のせいで、頭がふらつく。アウリルは壁に手を突き、肩を擦るようによろけながら一歩一歩進み続け、扉が開いた部屋の前に辿り着いた。
中には入らず通り過ぎようとしたとき、アウリル、と強い声が投げられた。
声の主は、ベーリッツ伯であった。
振り返れば、軍勢が攻めて来ているというのに彼は痩せた普段着に鎧も着ず、武器のひとつも、小姓も傍に置かず――あるいは人払いをしたのかもしれないが――思い詰めたように一人でそこに佇んでいた。
アウリルが牢から脱出していることに驚く様子もなく、彼は厳しい声で命じた。
「ここに入れ、アウリル」
主人の命令は絶対である。仕方なく戸口から身を滑らせるように豪奢な室内に入った。
出会った時よりも金髪にずいぶんと白髪が増え、四十代のはずが口元の脇に刻まれた苦々しい皺は老いさらばえた六十代のように乾き、陰険さも露な濁った目には光がないに等しい。
こんな自棄の風情で、強力なザクセン伯の猛攻から城と領民をどう守るつもりなのか。
いや、守る気概も胆力もないからすでに落城寸前に陥っているのだ。
策をあんなにも張り巡らせ各地の有力者たちを無慈悲な死に追いやっておいて、いざ攻め込まれればこのざまとは。
軽蔑に物も言えないアウリルの顔をじろりと見遣ると、ベーリッツ伯は状況にそぐわぬ問いを突然発した。
「何故私の名前を呼ばない、アウリル」
「………」
呼べるわけもない。
その力も残っていないし、力があったところで己の人生を破壊しつくした男の名前と敬称など、死んでも呼びたくなかった。
蒼ざめ、頑として口を開かない青年の態度に、伯爵は天井を仰ぐなり絹を裂くような笑いを呵呵と上げた。
「あれも……あれもそうだった、許そうとせっかく牢から出してやったのに、あれは私の前に来るなり、『ナタナエル様はどこに』と言いおった……この私が、夫たる私が目の前に居ながらだ!」
いったい彼は何のことを、何のつもりで喋っているのだ?
言葉の意味が判らない。話の筋がさっぱり見えない。
アウリルは呂律すら怪しい主人の言動に真の狂気を読み取り、背筋がぞっとした。
「生かしておくわけがない……私が不在の間に妻の心を奪った男など、容赦するとでも思ったか? そうだ、ナタナエルは殺してやった、見苦しく命乞いでもすれば追放で済ませてやったものを、あの男は自分を殺せと言い放った……だから私は殺した、我が伯爵家に代々伝わる、この短剣で……」
何も持っていない右手を、あたかもその短剣を持っているかのように見下ろした伯は、明らかに過去と現在の間を漂っていた。
そして突然面を上げて血走った目でアウリルを睨むと、お前の母親がどうやって死んだか教えてやろうと続けた。
「むろんカタリーナに教えてやったとも、この短剣でお前の恋人は喉を切られて死んだとな、そうしたらあれはどうしたと思う? 私の手から短剣を奪い、その場で喉を刺して死んだ……お前の騎士叙任の時に与えてやった短剣だ、アウリル――判るか? お前が大事に手入れし、肌身離さず持っていたそれは、お前の両親の血を吸った剣だったのだよ」
「………っ!!」
引き攣った悲鳴を上げ、アウリルは愕然と後退った。
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