赤いスーツケース

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 夜の山道は、闇色に沈んでいた。風が吹くたびに、木々や茂みが大きな真黒い化け物のようにざわざわと揺れる。円(まる)い懐中電灯の光がなでた所だけ、草木はオレンジ色がかった緑色を取り戻す。 (ゆるさない)  私は歩き続けた。  舗装されていない道は、石が転がっていて、大き目の物を踏むと靴底を通しても足裏が痛い。  頭上で、鳥が鳴きながら大きな音を立てて飛び去った。足元では、虫がジージーと鳴いている。  普通ならば、こんな時間にこんな山道を歩くなんで怖くてできなかっただろう。  だけど、今の私には平気だった。心臓を焼くような憎しみで、頭が半分マヒていたから。 (ゆるさない)  浮かぶのは、思い出したくもない職場の先輩の憎らしい笑い顔だけだ。  いやみ、うっかりを装ってかけられた熱いコーヒー。わざと仕事をとめられ、その遅れを自分のせいにされる。 (ゆるさない)  肩にかけた小さなバッグには、ワラ人形とクギと金づち。 (ゆるさない)  ネットで知った噂話。この山の頂に、廃神社がある。そこにあるご神木で丑(うし)の刻参りをすると、呪いが本当に成就するらしい。  その話が本当かどうかは関係ない。もしほんの少しでも、アイツを苦しめられる可能性があるならば。  ますます坂はきつくなり、切れた息はますます苦しくなる。  足がもつれ、転びかける。その驚きで、まるで熱に浮かされているようにぼんやりとした意識が少しだけ現実に帰ってきた。  ザッ……ザッザッ。  小さく、土を削るような音が前から聞こえ、私は思わず足を止めた。  最初は誰かが歩いているのかと思ったが、足音にしては大きく、規則正しくない。 (誰か、いるの?)  どうしようか迷ったのは一瞬だった。  好奇心もあったし、丑の刻参りは見られたら呪いが自分に降りかかるという。もし誰かがいるのなら、居場所を把握していたほうがいいだろう。  懐中電灯を下にむけ、光が必要以上に広がらないように手で覆う。そして、できるかぎり音を立てないよう忍び足で進み始めた。  しばらく行った先に、茂みの陰から、白い光が滲み出ている場所があった。ザ、ザ、という音は、そこからしているようだ。  そこに近づくにつれ、土の匂いがだんだんと強くなる。  私は、木の影に身を隠し、そっと茂みの奥をうかがった。  キャンプ用のランタンが、地面に置かれていた。その灯りの近くで、何か動いている。やせ細った人影が、地面を掘っていた。  草や虫から肌を守るためだろう、夏なのに長そでと長ズボンを身に着けている女性。服からのぞく手足は、驚くほど白く細かった。  スコップが土に突き立てられるたびに、ザッザッと音がする。  そして、そのそばに置かれた赤い、大きなスーツケース。  こんなシチュエーションが意味することは一つしかない。 (この人は、死体を埋めようとしてるんだ)  いつか見たドラマのワンシーンが頭に浮かんだ。スーツケースの中、体育座りの姿勢でつめられる背広姿の中年男。  不思議と怖いとは思わなかった。  スーツケースの中の人間も、私の先輩のように殺されて当然の奴なのだろう。この世には、そんな奴がたくさんいる。だから、殺人事件なんて起きて当然のことだ。  それに、私は名前も知らない目の前の女性を、少し尊敬する気持ちになっていた。私は惨めたらしく先輩を呪うだけだが、あの人は見事にやってのけた。恨みを自力ではらしたんだ。  この女性に何があったのか詳しいことは分からないけれど、ジャマはしない方がいいだろう。私は、静かにその場を離れようとした。  「あれ、もう行っちゃうの?」  掘る音がぴたりと止まる。  急に声をかけられ、足と一緒に心臓が止まるかと思った。 (まさか、気づかれていたなんて) 「なにも、そう警戒することないでしょう?」  まるで友人か家族に言うように、明るく穏やかな口調だった。  振り返ると、女性はこっちを見つめて微笑んでいた。  ランタンの弱い光のせいで、女性の白い顔が暗闇にぽっかりと浮かび上がってみえた。こけた頬、血走った目、青ざめた唇からのぞく真白い歯。肩で切りそろえられた髪は、ぼさぼさに乱れていだ。 「こんな時間に、こんな所にいるのだもの。お互い後ろ暗い者どおし、遠慮することないじゃない」 (確かに、普通じゃないよね)  私は自分のカバンの中に入っている物を思いだし、少し笑いそうになった。  女性は、再び穴を掘り始める。 「酷い人なのよ、この人は」  女は、穴の底を見据えている。  風向きが変わったのか、土の臭いのほかに何か生臭い匂いが混じり始めた。 「この人と結婚した時は、本当にいい人だと思ったのよ。子供も産まれたのよ。病気がちで体が弱かったけど、本当にかわいくてね。そのころは幸せだった。でもそれがだんだんと冷たくなって……」  ザク。ザク。  女は、またスコップで地面をえぐり始めた。八つ当たりするような勢いで。 「まさか、浮気されているなんて、ぜんぜん気づかなかった! 浮気相手と二人して、テツヤの……息子の手術代を盗んで逃げるなんて! 思いもしなかった!」  ザッ、ザッ、ザッ! 「おかげで、あの子死んじゃったわよ! 手術できれば治ったのにね!」  彼女は、シャベルを放り投げ、夜空を見上げるとゲタゲタと笑い声を上げた。その目に貼りついている狂気を見ていられなくて、私は顔をそらした。  縦長で楕円状の穴は、もう人が横たわれるほど大きくなっている。草の生えた斜面の中で、その部分だけぽっかりと虚ろに見えた。 「それで……それで彼を殺したんですか?」  穴の中に、カブトムシの幼虫だろうか、白く、太い短い物が転がっている。  臭いはますます強くなる。おそらくスーツケースからしてくるのだろう。でも、こんなに臭いが漏れるものだろうか? スーツケースって結構密閉できると思うのだけれど。 「ううん、違うわ。私が居場所を突き止めたとき、彼はもう事故で死んでいたの。とっくに墓になってたわ」 「え……」 「ひどいと思わない? 許せないでしょう? それじゃあ、逃げ得じゃない」 (え、じゃあ、死体遺棄じゃないの?)  彼女は、スーツケースの留め具を開けた。  赤いろうそく。金で複雑な模様が描かれた、黒い表紙の本。得体の知れない粉の入った小さなビンがいくつも。  女は、スーツケースの中から、白い粉の入ったビンを取り出した。そして穴の上でフタを開ける。白い粉が、ランタンの光を受けて輝きながら穴の中に降り注ぐ。  幼虫が、痙攣(けいれん)するようにぴくりと動いた。 (違う、あれは……)  幼虫じはない。幼虫の頭に爪は生えていない。関節なんてない。あれは人の指だ。 「だから、もう一度生き返らせて殺すことにしたの! 盗んだ骨から再生させて! 恨みをはらすために!」  くぐもった呻(うめ)きが、土中から染み出してくる。  穴の底の土が、波うち始める。  私は彼女に背を向け、逃げ出した。  視界の端に、キラリと光りが見えた。  怪しげな道具の中に、先の尖った大きな包丁があるのを、私は確かに見て取った。  どこをどう走ったのか、気づいたとき私は山のふもとで息を切らしていた。  走ったのと、恐怖とで心臓が暴れ狂っている。  あれから、生き返った男は土から這い出たのだろうか。そしてあの女は、もう一度脈打ち始めた胸に包丁を突き立てたのだろうか。  遠くで、男の悲鳴が聞こえた気がした。
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