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蛇石昌彦
「蛇石先生、さようなら!」
「さようなら」
「ありがとうございました!」
「気を付けて帰るんだよ」
「はーい!」
蛇石は、受け持ちの小学生たちが帰っていく様子を最後の一人まで見守った。
子供たちの体から発せられる熱が充満していた教室は、彼らがいなくなった途端に冷え込み、蛇石の体はブルッと震える。
時計の針は10時を指している。
電気を消すと、教室内は真っ暗。窓の外の方がネオンや街灯で明るいほどだ。
教職員室に戻ると、「蛇石先生、お疲れ様でした。この後、飲みに行きますが、一緒にどうですか?」と、年配の同僚に誘われた。
「すみません。明日の教材を確認したいので、残業します」
「そうですか。蛇石先生が最後なので、消灯と施錠、お願いしますね」
「分かりました」
蛇石に断られた同僚は、残念がる様子もなく、他の職員たちと連れ立って出て行った。
外に出ると、一人が『中学受験ゼミナール』と書かれた看板の電気を消した。
見上げると、小さなビルの蛇石がいる一角だけ明りが灯っている。
「変わり者」
一人がボソッと呟いた。
グループは、ネオン輝く繁華街に向かって歩き出した。
「蛇石先生を誘っても無駄だって言ったでしょ。誘いに乗ったことないんですから」
「誘われて断るのと、最初から誘われないのとは全然違いますから。一応気を遣ってあげないと、今の人はすぐ辞めちゃう」
塾講師は常に人手不足である。
「付き合いは悪くても元教員。うちの塾では貴重な人材ですもんね」
「あれでよく公立教師をやってられたな。毎回、毎回、断られる身にもなって欲しいよ」
「彼が向き合っているのは、生徒たちだけなんでしょう」
「教師の鑑ですね」
称賛よりも皮肉が込められている。
蛇石のこととなると、いくらでも愚痴が出る。それだけ、彼の経歴が異質で注目の的ということである。
教え子が何人も亡くなったこと。
彼の身の回りで、猟奇的な殺人事件が多発したこと。
そして、一番の驚きが蛇石が犯人逮捕に大いに貢献したことである。
教員免許があり、知識、経験は申し分ない上に英雄的な側面もあって、蛇石の応募があると本部は喜んで採用した。
授業に熱心であるし、指導も適切で子供たちから慕われている。
しかし、それは教室の中だけで、一歩そこから出ると無表情になり口が重くなる。その変わりようも、同僚たちに不気味がられる一因であった。
ここで大切なことは、いかに合格率を上げるかであるから、同僚との付き合いは関係ない。とはいえ、程度と言うものがあるだろうと同僚たちは考えていた。協調性とか、チームワークとか、気にする人は多いのである。
無駄口一つ叩かず、誰よりも早く出勤し、誰よりも遅くまで残っているから本部の評価は高い。誰も文句は言えないが、それがまた神経を逆なでする。
つまり同僚たちから見ると、ちょっとだけ不気味で煙たい存在なのである。
居酒屋に入るとテーブル席を4人で囲み、運ばれてきた生ビールをグイグイ飲みながら、噂話に花を咲かせる。
「教え子が4人亡くなったんでしたっけ?」
「あれ? 5人じゃありませんでした?」
「私なら、1人だけでも無理です。病んでしまいます」
「彼だって、事件の後、2年ほど休職していたんでしょ。結局、小学校教員を辞めちゃって。そりゃあ、そうなるよな」
同情する声も出たが、中には、「教え子が5人も死ぬって、普通、そんなことってありますか? 怪しくないですか?」と、関与を疑う者もいた。
「呪いだったりして」
好奇の目を向ける同僚もいた。
「呪いは、さすがに非科学的で無理がありますよ」
「でも、彼のいた村ではたくさんの人が亡くなっていて、呪われた村だって言われているらしいですよ」
「先生、ネット情報なんて、鵜呑みにしないことですよ」
「犯人は捕まったんでしょ?」
「それも、元教え子だったとしたら?」
「そうなんですか?」
「だって、彼の関与で捕まったんでしょ? そんなに都合の良い話ってありますか? なぜもっと早く捕まえられなかったんでしょうか? 何らかの裏がある気がしませんか? 犯人については、なぜか情報がほとんど出てきていません。二人共成人しているのに、不思議ですよね?」
「言い過ぎですよ。全部、憶測ってことですよね」
「そうですけど、情報がないから、ついつい勘繰ってしまいますよね。あれ? これも呪いですか? 私、呪われちゃったんですかね? 彼のことばかり気になってしまう」
「虜になる呪いですか?」
「何でもかんでも、呪いのせいにし過ぎです」
「呪い万能説!」
ワッハッハー、と笑い声が上がった。
生徒の成績について話すよりも、蛇石の話題の方がいくらでも盛り上がれる。このところ酒の肴として、彼らのストレス発散に蛇石は利用されていた。
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