【蝿の囀り】

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【蝿の囀り】

 ブオンブオンブオンと扇風機が唸り声をあげて懸命に風を送っている。ニュースでは東京の気温がどれだけ高くなったのか、過去の記録と比較してこれは異常だと騒ぎ立てている。  ブブブブブブブ  僕が住む田舎はまだエアコンを必要としない。窓を開けて扇風機を回せば快適に過ごせる。その代わり、窓を開けたら虫が侵入してくる。蝿だ、蝿。我が家によく入ってくる虫は蝿が堂々の一位だ。何年も首位を独走している。  東京にいる知人曰く、気温が三十五度を超えた日は虫なんて見かけない。それが羨ましく思ったことはあるけど、ほんのちょっとだけだ。虫は退治すれば良い。でも暑さはいくら対策したところで暑いものは暑い。対処できる虫の方がマシというものだ。  さて、今日も今日とてテリトリーに入ってくる蝿を退治しなくてはならない。  ハエたたきと殺虫スプレーを片手に蝿の密集地帯へ行く。現場は台所。生ゴミにたかってる蝿が五……十...…十五……。数えるのは止めだ、きりがない。  ああ、交尾している個体もいるじゃないか。繁殖行為は重罪だ。これ以上増えたら面倒だ。僕は殺虫スプレーを構えて無感情に引き金を引いた。  夜になっても僕の戦いは続く。蝿たちは明かりを求めて電球に群がる。極めてうっとうしい。放っておくと寝てる間に飛び回って僕の安眠を妨害する。許される行為ではない。  プシューと勢いよく殺虫スプレーを噴射する。そして動きが鈍くなった個体をハエたたきで仕留めていく。床に散らばった蝿どもの処理をし終わったところで今日の仕事は完了。後は寝るだけだ。  夢を見た。  蝿を退治する夢だ。夢の中でも蝿をやっつけなければいけないのかと苛立つ。夢という認識がある――これは明晰夢と言われるやつだろう。初の明晰夢が蝿退治だなんて最悪だ。  ブブブ……ブュユ……ブィブブ……。  夢の中の蝿は奇怪な音を発しながら飛んでいる。何かを訴えるかのように僕の周りを旋回している。  ブルブブ……サブブブブ……。  音はだんだん大きくなっていった。不愉快度が頂点に達する直前、不意に影が僕を覆った。耳を引き千切りたくなるほどの不快な羽音が聞こえてくる。嫌な予感はするが、振り返らずにはいられない。  背後には一軒家ほどの巨躯を持った蝿が扇風機のように羽を動かしていた。  巨大な蝿から発せられる音に人の言葉が混じっている。何を言っているのかと不快さに目を細めながら耳を傾ける。  ユ ル サ ナ イ  よく見ると卵のようなものを抱えている。蝿の卵なんて見たことないが、ここには僕と蝿しかいないから蝿の卵で間違いないだろう。  昼間の交尾が頭をよぎる。この蝿は子孫を残せなかった蝿達の恨みが集まったやつなのだろうか。ユルサナイと言われてもこっちからしてみれば勝手に家に侵入してきた不届きものだ。ユルサナイと言いたいのは僕の方だ。  ユルサナイ ユルサナイ ユルサナイ ユルサナイ ユルサナイ ユルサナイ  通常サイズの蝿も同調してユルサナイと騒ぎ立てる。  ブオンと大きな音を合図に、蝿達は一斉に突っ込んできた。逃げようにも人間では蝿には敵わない。あっという間に纏わりつかれ、うぞうぞと体中を這いずり回り、薄っぺらいシャツの中へ次々と入り込んでいく。  眼から侵入を試みようとする蝿まで現れた。咄嗟に目を瞑って防ぐ。これでは鼻や口からも侵入されかねない。絶対に口を開けるものかと引き締め、左腕で鼻を呼吸ができる僅かな隙間を残して塞ぐ。  しかし耳だけはどうしようもできない。耳を塞ぎつつ鼻も塞ぐには、蹲って両手で耳を覆って膝で鼻を隠すしかない。だが身動きを封じられたら一巻の終わりだ。逃げるしかない。耳に入らないよう祈りつつ、僕は前へ前へと走り出した。薄目で状況を確認し、転びそうになりながらも走る。  だが走っても走っても何もない。真っ白な空間でひたすら蝿と追いかけっこしてるだけだ。ちくしょう! 夢なんだから隠れるのに都合の良い建物があればいいのに!  やがて走る体力は尽き、息苦しくなる。  ブブ……ブブブ……ユルサナイ  耳元で蝿が囁く。五月蠅いと右腕を思いっきり振る。  ジジジジジ!  けたたましい音が聞こえてきて僕は目を見開いた。  青と灰色の家具が映し出される。ここは寝室だ。汗でびっしょりと濡れた体が気持ち悪い。とんでもない夢を見た。朝から最悪な気分だ。  ジジ……ジジジジ……  右から今にも途切れそうなか細い音が聞こえてくる。  蝿がのたうち回っている。夢が終わる直前に右腕を振ったことを思い出す。どうやらこの蝿は腕に当たって落下したようだ。よく見ると羽が片方なくなってる。これではもう飛べないだろう。  僕は蝿をティッシュで包み、ゴミ箱へ捨てた。ユルサナイと喚くなら家に入ってこなければいいのに。僕は悪態をついて、夢を忘れるために朝食のことを考え始めた。  ユ ル サ ナ イ  ゴミ箱の傍を通るたびにそんな声が聴こえる。  ユ ル サ ナ イ  声はゴミ箱を空にするまで聴こえた。  そして再び蝿退治に勤しむ。  「「「ユ ル サ ナ イ」」」  幾重にも重なった声が家全体に響いた。
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