音楽の園の王子様 モーツァルトと恋のメロディ

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真っ白のブレザーに、金色にかがやく音符マークの校章。 東京にある、レンガ造りのオシャレな校舎に集うのは 音楽界で、トップクラスの才能を持つ子どもたち。 ここは、私立シンフォニア学園、中等部。 通称「音楽の園」。 私は、ママみたいに世界で活躍するフルート奏者になりたくて 緑でいっぱいの田舎から、東京に出てきたの。 田舎にはフルートを習ってる子なんて誰もいなくて 練習はいつも、一人ぼっちだった。  シンフォニア学園では、歌や楽器が得意な友達と一緒に、音楽を楽しめたらいいなって、思ってたんだけど……。 入学前、王子様みたいにかっこいい男の子に、一目惚れされちゃった! 学校では、女好きだけど優しい男の子とか、美形でミステリアスな男の子とか クセのある男子が次々に登場! ステキな音色のなかで、おだやかに過ごすはずだったのに 個性的な友だちに囲まれて、泣いたり笑ったり、毎日大騒ぎ。 ドキドキしっぱなしのにぎやかな学校生活が、始まっちゃったんだ! 1  私、春野なずなは、今、人生でいっちばーん困ってる。 苦手なヘビが、通学路の真ん中でニョロニョロしてたときも。 テストで最悪な点数をとったときも。 すっごく困ったよ。 でも今は、そんなもんじゃないの。 もっともっと、も――――っと、困ってる! 東京って、なんでこんなに人が多いの⁉ ゆれる満員電車のなかで、私、今にも周りの人に押しつぶされそう。 新品の白い制服も、二つ結びでまとめてきた髪も、もうグチャグチャ。 顔からずれて、鼻の上でかたむいてるメガネを直す余裕もない。 大事な楽器だけはなんとか守らなきゃって思って、細長いケースを、ギュッと抱きしめてるんだけど。 力を入れすぎて、腕が疲れてきちゃった。 ううう、泣きたい。 こんなことなら、一人で来るんじゃなかったよぉ……。 ため息をついても、時間は巻き戻せない。 それは、わかってるんだけど。 やっぱり、東京の音楽学校なんて受験せずに、地元の中学に進学すればよかったなって思っちゃう。 あーあ、大後悔……。 ガタン、ガタンと音を立てて、電車がゆっくり止まっていく。 プシューッと空気が抜ける音に合わせて、ドアが開いた。 あれっ、誰も降りないの? 電車は満員で、私が通れそうな隙間は、全く見つからない。 私、どうやって降りたらいいんだろう。 誰か、助けて……! 思わず涙目になったとき、ふいに手をつかまれた。 「ひゃっ!」 うそっ、まさか、こんな最悪なタイミングでチカン? 私、もう、声が出ないくらいパニック! 背筋がすうっと寒くなって、目から涙がこぼれちゃった。 都会なんて大嫌い。ずっと田舎にいればよかった。 そう思ったとき、男の子のよく通る声が上から降ってきた。 「すみません、降ります!」 思わず振り返ると、私が着ているのと同じ、純白の制服が見えた。 私の手をつかんだの、同じ学校の人だったんだ。 そう気づくのと同時に、勢いよく手を引っ張られる。 顔を見たいけど、横顔しか見えなくて、よくわからない。 どんな人なんだろう、この人についていって大丈夫かな。 一瞬、不安な気持ちになったけど。 「絶対、大丈夫!」って言ってるみたいに、男の子の熱い手が、私の指先をぎゅっと握った。 この人を、信じてみようかな。  私は、つないだ手を離さないように、しっかりと握り返した。 後ろにいる私を守りながら、男の子が前を歩いて、道をつくってくれる。 満員電車の人混みのなか、ぶつからないように、カバンや足にひっかからないように。 一歩ずつ、出口に近づいていく。 そして私たちが外に出た瞬間、ドアは勢いよく閉まった。 「あの、助けてくれて、ありがとうござ……うわぁっ!」 顔を上げて、お礼を言いかけた直後。 私は、足元の点字ブロックにつまずいた。 わわっ、体のバランスが崩れて、足に力が入らない! 驚いた男の子が、目を見開いたのがわかった。 私は床にぶつかる覚悟をして、ギュッと目をつむった……んだけど。 あれ?  全然痛くない。 確かに転んだはずなのに。 メガネは落ちちゃったけど、まるで、クッションに倒れ込んだみたい。 ゆっくりと目を開けると、斜め上に、さっきの男の子の顔があった。 整った輪郭に、鷹みたいにまっすぐな瞳。 黒曜石の光を集めたような、はりのある黒髪。 一瞬で、目が離せなくなっちゃった。 まるで王子様みたい。 こんな人、本当にいるんだなぁ……。 なんて考えてたら、男の子が心配そうな顔で口を開いた。 「大丈夫か?」  ハッと気づくと、男の子の腕が私の背中に回っていて、バランスを崩した私の体を、しっかりと支えていた。  転びそうになった私を、この人が受け止めてくれたんだ。  まるで、抱きしめるみたいに。  そこで私、初めて、男の子にくっついてることに気がついた。 「あっ、えっと、大丈夫です!」  私は裏返った声でそれだけ言うと、落ちたメガネを慌ててかけた。  突然のことで、それ以上、なにも言葉が出てこない。 「痛いとこあったら言えよ、無理しなくていいから」 全力で首を振ったけど、男の子はまだ心配してくれてる。 わぁ、メガネかけてちゃんと見ると、ますますかっこいい。 ……って、ちがうちがう! 「全く痛くないんで、大丈夫ですっ」 「ウソ言うなよ。泣いてるじゃん」  そう言って、男の子は私に手を伸ばすと、人差し指でそっと目の下をなでて、優しく涙をぬぐってくれた。 「わぁっ!」 「あ、悪い。勝手に顔さわられたら嫌だよな」 「あの、えっと、そうじゃなくて。本当に、どこも痛くないんです」 「痛くないわけないだろ、ケガもしてるし」 「えっ、どこ?」  体のどこも痛くないのに、ケガ?  そう思って、男の子の視線をたどると、赤くなった私のひざがあった。  ほんの少し傷があるけど、もうカサブタになってる。  これは、おととい近所の山でタケノコを掘ったときに転んでできた傷。  ちょっとかゆいけど、もう全然痛くない。 「赤くなってるけど、平気です! これ、タケノコ掘りに行ったときのだから」 「…………タケノコ?」  男の子の頭の上に、クエスチョンマークが大量発生してる。 そっか、都会の人はタケノコとか掘らないよね。  私の地元では、春の恒例イベントなんだけど。 「えっと、あの、別にタケノコが大好物っていうわけじゃないんです。掘らないと竹が生えすぎちゃって、山に光が入らなくなって、竹林が大変なことになるから、親戚の人たちを呼んで、みんなで山に入って、それで……」  こんな説明で、都会の男の子に伝わるかな? 視線をそっと上にあげると、男の子はマスクの下でプッと吹き出した。 「お前、おもしろいヤツだな!」 そして、こっちがビックリするくらい声をあげて、楽しそうに笑った。 「そんなに笑わなくても、いいじゃないですか!」 「いや、だって言い訳するにしても、他にいろいろあるだろって思ってさ」 「言い訳じゃなくて、本当のことなんです! タケノコ掘り!」  ―――― ♪ ♪ ♪ 私がそう言ったとき、制服のポケットに入れていたスマホが鳴った。 慌てて画面を見ると、電話のマークが光ってる。 お兄ちゃんから、電話がかかってきてるみたい。 「わわっ、どうしよう」  男の子に視線を向けると、「出れば?」って言ってくれた。  スマホ買ったばっかりだから、まだ操作方法がよくわからないんだけど。  ぎこちない動きで通話のボタンを押すと、大音量で、お兄ちゃんの声が耳に飛び込んできた。 「なずな、今どこだ!」 「うわぁっ、お兄ちゃん、声大きすぎ!」  お兄ちゃんの声が耳に刺さって、鼓膜がやぶれそう!  思わずスマホを耳から遠ざけると、男の子が声を抑えて笑ってた。  うう、恥ずかしいよぅ……。 「おい、どうした? 大丈夫か?」 「大丈夫! 今は駅のホームだよ」 「まだホームにいたのか。改札の前まで迎えに行くから、早く上がってこい」 「えぇっ、一人で行けるって言ったのに」 「道に迷うかもしれないだろ。学校まで車で送る」 「えぇっ! 車で登校なんて、目立つからイヤ」  私がそう言うと、隣で会話を聞いていた男の子が、小声で教えてくれた。 「車でも目立たねぇよ。シンフォニア学園の生徒は金持ちが多いから、使用人に車で送迎してもらってるヤツも珍しくないし」 「えっ、そうなの?」 「初等部はそうだった。中等部も一緒だろ」 「おい、なずな。そこに誰かいるのか?」 「なんでもない! 今から改札に行くから、ちょっと待ってて!」  私はそう言って、通話をブチッと切った。  男の子のことを話したら、話がややこしくなりそうだから。  電車から降りられなかった、なんて言ったら、お兄ちゃんますます心配しそうだもん。 「じゃ、そろそろ行くか」  男の子に言われて、私は立ち上がった、けど。 「あの、改札って、どっちですか……?」  結局、私は男の子と一緒に改札まで行くことになったんだ。 2  「あのさ、大事なもの忘れてない?」  改札に向かって歩いてる途中、ふいに、男の子が聞いてきた。 「大事なもの? …………あっ、フルート!」  さぁっと血の気が引く。  どうしよう、どうしよう。命の次に大事な楽器なのに!  ……と思ったら、男の子がニヤッと笑って、カバンからフルートケースを出してくれた。 「忘れたら、楽器がかわいそうだろ」 「ありがとうございますっ! これがなかったら、私、もう、どうしたらいいか……。本当に本当に、ありがとうございます!」  私、思いっ切り深く、頭を下げた。  だって、ママからもらったフルートは、私にとって宝物だから。  ママが若い頃に使ってた楽器だから、ちょっと古いけど。 晴れ渡った青空みたいに、澄んだ音色なの。 「そんなに何度も頭下げんなって。初対面でこんなこと言うの変かもしれないけど、もっと堂々としてれば? あんまりペコペコしてると、学校で変な男子にからまれるぞ。電車のなかでも、周りのおっさんたちに押し潰されそうになってたし。見てるこっちが不安になる」 「ご、ごめんなさい」 「……まぁ、これからはオレがそばにいるからいいけど」 「え?」 男の子はそう言って、もう一度、自分の黒いカバンに手を突っ込んだ。 中から出てきたのは、私が持っているのと同じ、細長いケース。 ……これ、もしかして! 「フルート⁉」 「そ。中等部から、フルートの生徒が一人増えるって先生に聞いて、楽しみにしてたんだ。今までは、オレ一人だったから」 「私も、地元でフルート習ってるの私だけで、仲間がほしいなって思ってたんです!」 「気が合いそうでよかったよ。一緒にがんばろうぜ、なずな」  えっ、名前呼び⁉  突然下の名前で呼ばれて、私、固まっちゃった。  家族以外の男の人に名前で呼ばれるの、初めてかも。 「あの、なんで私の名前知ってるんですか?」 「さっき電話で、兄貴に呼ばれてたから。……って、おい。名前呼んだだけで赤くなるなよ! こっちまで恥ずかしくなるだろ! うちの学校は幼稚舎からあるから、女子を名前で呼ぶとか普通なんだよ」 ええっ、本当に⁉ 地元の学校では男子に苗字で呼ばれてたから、変にドキドキしちゃう。  私、意識しすぎ? 「ほら、そこ曲がったところ改札だから、ここまででいいだろ。オレは先に行くから」 「うっ、うん!」 「これから学校で会ったら、名前で呼ぶからな。早く慣れろよ!」 男の子はそれだけ言うと、私の顔を見ることもなく、走り去ってしまった。 あれ? 結局あの男の子、なんて名前なんだろう?  名前くらい、聞いておけばよかったなぁ。 一人でとぼとぼと改札に行くと、お兄ちゃんは黒縁のメガネを光らせて、怖い顔で立っていた。 「なずな、遅いぞ。それに、さっき電話したとき横にいたの、誰だ?」  ひぃっ、横に男の子がいたの、バレてる! 「知り合いでもいたのか?」 「えっと、知り合いっていうか、なんていうか……」  頭をぽりぽり。 一緒に電車を降りて、転びそうになったところを助けてもらって、フルートを拾ってもらって。 時間でいったら、きっと、ほんの十分くらい。 それなのに、あの人の顔が頭から離れない。 「もしかして、何か変なことでもされたのか?」  何も言わずに黙っている私を見て、お兄ちゃんが眉をひそめた。 「正直に言え。嫌な思いをしたなら、俺がなんとしてでもそいつを見つけ出して、返り討ちに……」               「待って待って、何もされてない!」  まったく、お兄ちゃんが言うとシャレにならないんだから。  実はね、お兄ちゃんはこの春からシンフォニア学園の体育の先生になるの。 学生時代は、剣道の全国大会に出るくらい強かったんだよ。 だから本気モードになると、周りの空気を凍らせちゃうような怖さがあるんだ。 教育実習に行ってた中学校では、「絶対に逆らっちゃいけない先生ナンバーワン」って言われてたんだって。 顔立ちは悪くないし、背が高くてスーツが似合うから、女子には人気があったみたいだけど。 「変なことをされたんじゃなくて、助けてもらったの」 「助けられた? 何か困ったことでもあったのか」 「電車が混んでて降りるのが大変だったんだけど、さっきの人が手伝ってくれて……」  手をつないで、一緒に降りてくれたって言えば早いんだけど。  なんだか恥ずかしくて、そんなこと言えなかった。  転びそうになって、抱きしめてもらったときのことなんて、思い出しただけで顔が熱くなっちゃうよ。 「だから今日は、俺と一緒に車で行こうって言ったのに。顔洗ってる間に、勝手に出てくから」 「ごめんね。でも、一人で都会の電車に乗ってみたかったんだ」 「何度も言ってるけど、父さんと母さんになずなのことを任されてるんだ。困ったときは……、いや、困るようなことが起きる前に、一声かけてくれ。頼むよ」  お兄ちゃんはわざわざ私に向き直って、真剣な眼差しで言った。  フルート奏者のママは、海外を飛び回っていろんなコンサートに出てる。  パパはママのマネージャーで、ずっとママと一緒にいるんだ。 だから私は、小学校を卒業するまで、田舎のおじいちゃんとおばあちゃんの家に住んでたの。  でも、この春、私とお兄ちゃんは田舎を出て、東京で二人暮らしをすることにした。  私が、シンフォニア学園に合格したから。  だからって、お兄ちゃんまでシンフォニア学園の先生になる必要はないと思うんだけど。  まぁ、いっか。  地元では元気いっぱいだった私も、都会の中学校に通うのはやっぱり不安。  お兄ちゃんが近くにいてくれたら、心強いもん。 「ありがと、お兄ちゃん」  そう言って笑顔を向けると、お兄ちゃんはほんの少しだけ、口のはしを上げて笑った。  あ、私の好きな顔。 「いつもそうやって笑ってたら、生徒に怖がられることもないと思うんだけどなぁ 」  「バカ言え。こんな顔を見せられるのは、お前だけだ」   みんなに怖がられているお兄ちゃんに優しくしてもらえるのは、なんだかちょっと得した気分。 不安だった気持ちが、ココアに入れたマシュマロみたいに、シュワシュワととけていく。 「ほら、そろそろ学校に行かないと、入学式に遅れるぞ」  お兄ちゃんが、私の背中をポンと押した。  改札の近くの出口から、桜の花びらが吹き込んでくる。  都会も、田舎も、春になったら同じように花が咲くんだね。  新しい学校に行くのは緊張するけど、きっと大丈夫。  学校には、お兄ちゃんがいる。  これからは、あの男の子と一緒に、フルートを練習できる。  そう思ったら、背中に小さな羽が生えたみたいに、気持ちが軽くなったんだ。 3 そわそわ、そわそわ。 気持ちが音になって、教室のあちこちから聞こえてくるみたい。 入学式のあと、とりあえず自分の席に座ってみたけど、なんだか落ち着かない。 私の席は、廊下側の一番後ろ。 都会のことはよくわからないし、クラスではあんまり目立ちたくないから、ちょうどいいかな。 周りの席には、どんな子が来るんだろう。 なんの楽器をやってるのかな。 どんな音楽が好きかな。 いろいろ考え始めると、ドキドキして動けなくなっちゃう。 でも、となりの席の子が来たら、がんばって話しかけてみようかな。 そう思ってたら――。 「キャ――――!」 廊下の奥の方から、女の子たちの黄色い声が聞こえた。 「えっ、今のなに?」 みんなが口々に言って、廊下に面した窓にかけよる。 私もつられるように、窓から顔を出した。 「あっ、あの人……!」  声にするつもりはなかったのに、思わず言っちゃった。  だって視線の先にいたのは、朝、電車で会った男の子だったから。 数人の女の子に囲まれて、ちょっと困った顔をしてる。  幼稚舎から通ってるみたいだったけど、校内で有名な人なのかな? 「戻ってきたんだ!」とか「かっこいい!」とか聞こえるけど、どういうことなのかわかんない。  すごく、すごーく、気になるよー! けど、残念ながら、あの女の子たちの中に突進してく勇気はないんだよね。 ここが地元の中学校だったら、迷わず行っちゃうんだけど。 右も左もわからない都会の音楽学校で、下手な行動はしないほうがいいと思うから。 私は窓から顔をひっこめて、小さなため息を一つついた。 すると……。 「あーあ、くだらない。あいつのフルートなんて、たいしたことないのに」 私とは比べものにならないくらい大きなため息が、となりから聞こえてきた。 いつの間に⁉︎  となりの席には、モデルみたいに美人な女の子。  私が廊下の外に気を取られてる間に、教室に来たみたい。  白雪姫みたいに白い肌も、つややかなショートカットの髪も、二度見しそうになるくらいキレイ。 私は、喉が音を立てそうなくらいゆっくりとつばを飲み込んで、口を開いた。 「お、おはよう」 「おはよう」 その子はロボットみたいに、表情を一ミリも変えずに言った。 うわぁ、まさに「クールビューティー」。 でも私、めげない。なんとかして、会話を続けるんだ! 「ねぇ、さっきフルートって言った?」 「ええ、言ったわよ。ひとりごとのつもりだったけど、声が大きかったかしら。ごめんなさいね」 「ううん、大丈夫。でもあの、一つ聞きたいんだけど……。『あいつ』ってもしかして、さっき廊下で騒ぎになってた男の子のこと?」 「そ、涼城(すずしろ)怜央(れお)。私、幼稚舎から一緒だったからよく知ってるけど、あんなのただのフルートバカよ」 「フルート、バカ……」  私は思わず、自分のフルートを机の横に隠した。  さっきの男の子が本当に「フルートバカ」なのかどうかはわからないけど、なんとなく、私まで同じように見られたら、よくないような気がして。 「『学園の三大プリンス』とか言われてるけど、私から見れば、別に大したことないわ」 「え? 学園……なに?」 「『三大プリンス』。あなた見かけない顔だし、中等部から入ってきたのよね? でもさすがに、プリンスの存在くらいは知ってるでしょ」 「えぇっと、知らない、かな……」  苦笑いで答えると、女の子の表情が急に変わった。  生まれて初めて、野生のサルを見た、みたいな顔してる。 「まさかとは思うけど。あなた、プリンスを知らずに入学してきたの?」 「えっと……。うん」 「シンフォニア学園の公式サイト、見たことない? 動画サイトでも、結構再生回数のびてるのに。ほら、この曲、一回くらいは聞いたことあるでしょ?」  そう言って、女の子はスマホで動画を再生してくれた。 伸びやかな男の子の歌声と一緒に、フルートやピアノの音が聞こえる。 クラシックみたいに、重い感じじゃない。 明るくて、楽しげで、思わず気分がルンルンしちゃう。 耳に残る明るいメロディーだし、一度聞いたら忘れなさそうだけど。 「うーん、初耳」  残念ながら、まったくわかんなかった。 だって、パソコンやタブレットは、いつもお兄ちゃんが使ってるから、なかなか私には回ってこなかったんだもん。 自分のスマホは、最近買ってもらったばっかりだし。  となりの女の子は、今どきそんな子いるのね、とつぶやきながら、スマホを操作し始めた。 言い方がストレートで、心にグサッと刺さる。 でも、悪気はなさそうなんだよね。 「ほら、この画面見て。これが、シンフォニア学園の三大プリンス」 「へぇー、これが」 画面に写ってるのは、三人の男の子が楽器や楽譜を持って並んでる写真。 穏やかな雰囲気で賢そうな人とか、甘いマスクで髪が長い人とか。 タイプの違う三人が、まるで本物の王子様みたいに、ロイヤルブルーのフォーマルな服を着こなして、ポーズを決めてる。 「なんだか、アイドルみたいだね」 「アイドルっていうか、この学校の代表よ。いわゆる『生徒会』みたいなもの、って言われてるけど。あなた、本当に何も知らないのね」 「ええっと、うん。なんかごめん」 「仕方ないわね。知っておかないと困ることもあるだろうし、簡単に教えてあげるわ。まずこの学校には、三つのコースがあるでしょ」 「ピアノコース、楽器コース、それから歌を習う声楽コース、だっけ?」 「そう。そのコースのトップをまとめて『三大プリンス』って呼んでるの。学校代表として三人でアンサンブルチームを組んで、よく演奏会を開いてるわ。私は興味ないけど、他の生徒にとっては憧れの的みたいね。そんな三人のなかで一番成績がよくて人気なのが怜央。この写真の真ん中よ」 「わっ、本当だ!」  女の子の言う通り、写真の真ん中にはフルートを持った男の子がいた。  最初は「プリンス」なんて大げさだと思ったけど、なんていうか、オーラがある。  私、目が釘付けになっちゃったもん。 「口は悪いし、がさつだし、フルートのことしか考えてないけど、音楽にまっすぐなところがクールでいいんですって。初等部の頃から、よく女子に呼び出されて告白されてたわ」 告白⁉ 初等部ってことは、小学生で? なんだか、信じられない世界……。 「ちなみに、ここまで話しておいて何だけど、この一年間、怜央は演奏会にもコンクールにも出てないわよ。学校に来るのも一年ぶりだから」 「えっ、なんで?」  朝、駅で会ったときは全然そんな感じじゃなかったけど。 「なんか問題を起こしちゃったとか?」 「そんなんじゃないわよ。交通事故でケガをして、入院してたの」 「ええっ、ケガ⁉」 ――――キーンコーンカーンコーン。 すっごく気になる話が出てきたのに、チャイムが鳴っちゃった。 「怜央が巻き込まれた事故についてはニュースにもなってたから、ネットで調べればすぐ出てくるわ。とりあえず、席につきましょ」  そう言って、女の子は上品な仕草で自分の席に座った。  ううーん、こんな中途半端なところで話が終わっちゃうなんて!  先生が来るまでに、自分で調べてみよっと。  私は真新しいスマホを取り出して、検索アプリを開いた。  このときはまだ、怜央くんのケガにあんな深い事情があったなんて、まったく知らなかったんだ。 4 ネット上には、事故についての記事がいくつもあって、なかには怜央くんのコンクールでの実績について触れたものもあった。 女の子が言ってた通り成績はトップクラスで、日本中の管楽器コンクールで優勝してたみたい。 事故にあうまでは……。 大好きなフルートを吹けなくなってしまった怜央くんのことを考えてたら、先生の話は全然頭に入ってこなかった。 起立と礼が終わっても、まだ頭がぼんやりしてる。 「ねぇちょっと、さっき名前聞くの忘れちゃったんだけど」  となりの席の女の子が、今度は自分から話しかけてきてくれた。  いけない、いけない。まだ初日なんだから、しっかりしなきゃ! 「あなた名前は? 私は、御形院(ごぎょういん)リラ。声楽コースよ」 「ゴギョウイン……。って、もしかして、あの御形院⁉」 「そうだけど。あなたもしかして、パパの会社の知り合い?」  私は、頭がちぎれそうな勢いで首をふった。  だって御形院って、日本全国にある超高級リゾートホテルだよ!  そのホテルグループの社長令嬢と、同じクラスなんて。 私、少し前まで普通の小学生だったのに! 今までの学校生活とは、レベルが違いすぎる……。 「で、あなたの名前は?」 「あっ、あの、私は、春野なずな。管楽器コースだよ。楽器はフルート。えっと、リラちゃんって呼べばいいかな?」 「リラでいいわよ。初等部でも、そう呼ばれてたし」 「じゃあ、えっと、リラ。なんかすごくオシャレな名前だね」 「花の名前だって、ママが言ってたわ。フランス語なの」  うわぁ、フランス語だって……。 どこにでも元気よく生えてる雑草の「なずな」とは大違いだなぁ。 「リラっていう名前、芸名としてそのまま使えそうでしょ。だから、結構気に入ってるの。私、将来は宝塚歌劇団に入ってトップスターになろうと思ってるから」  リラちゃん、じゃなくてリラは、きっぱりと言い切った。 すごいなぁ、もう将来のことまで決めてるんだ。 宝塚歌劇団って、よく知らないけど。 「最近はね、動画を見ながら舞台メイクの練習も始めたの。なずなはメイクとかしないの? メガネは信じられないくらいダサいけど、顔は結構かわいいじゃない。少しくらいメイクしたら?」 「えっ、メイク? 私が⁉」 「他に誰もいないでしょ。ほら、まずメガネをとる」 「えっ、ちょっと待って! 今メイクするの⁉」 「そうよ、変わるなら早いほうがいいでしょ。コンタクトは? 持ってないの?」 「え、えーと、体育の授業とかで使うから、一応いつも持ち歩いてるけど……」 「じゃあ今つけて。とりあえず、ビューラーだけやってあげる。まつげがくるんって上を向いて、かわいくなるわよ。髪も私がアレンジするから。あと、制服はこうやって着るの。スカートの丈と、ブラウスの着方は私に合わせて。制服の下に体操服を着るのは禁止!」 「ええっ、地元ではみんなやってたのに」 「知らないわよ、そんなの」  そう言って、リラはあっという間に私の見た目を変えてしまった。  伸ばしっぱなしだった黒髪は、アイドルみたいにかわいいハーフアップになって、制服の着こなしも、一気に都会っぽくなった。 「なんか、スカートの下がスースーするんだけど……」 「初めてスカート履いた男子みたいなこと言わないの! せっかくかわいい顔してるんだから、もったいぶらずに明日からはこの格好で登校するのよ。写真撮るから、これ見て覚えて」 「別にもったいぶってるわけじゃないよぉ……」  私がもじもじしてるうちに、リラは何枚も写真を撮った。  たしかに、周りの子たちはみんな都会っぽくてオシャレだから、私、この学校ではちょっと浮いてるかなって思ってたけど。  こんなふうに人の手を借りて「中学デビュー」するのはくすぐったいし、恥ずかしい。  でも写真を見てみたら、いつもと違う自分がいて、ちょっと嬉しくなっちゃった。  真っ白の制服をかわいく着こなしていて、自分じゃないみたい。 「私、こんな格好もできるんだ」 「驚いた? 絶対こっちのほうがいいわよ。ほら、なずなのスマホに写真送るから、アカウント教えて。友達になりましょ」 「うん!」  いろいろあったけど、新しい友達ができるのは、やっぱり嬉しい。 中学に入って、初めての友達。  しかも、メイクが上手で、お嬢様で、将来の夢も決まってて。  まだ入学したばっかりだけど、地元の友達に自慢したくなるような、すごい子と仲良くなっちゃった!  早速アカウントを調べようと思って、カバンからスマホを出したけど。  よく考えたら私、SNSで友達になる方法、知らないんだった。 「ごめん、スマホ買ってもらったばっかりで、自分のアカウントの出し方がわかんない」 「えっ、今までスマホ持ってなかったの?」 「そう、だけど……」 中学生になって初めて自分のスマホを買ってもらうって、そんなに変なことかな? どうしてもスマホが必要なときは、ママのを借りてたけど。 「リラは、いつからスマホ使ってたの?」 「私? 初等部の一年生の頃から」 「え、一年⁉」 「だって、カレシに連絡するとき、スマホがないと困るでしょ? 初等部では、それが普通だったけど」 カレシ⁉ 都会の小学生って、みんなこんな感じなのかな? 私が小学一年生の頃は、怒ったカマキリと対決してた。 どっちがたくさん蛙の卵を集められるか、バケツを持って友達と競争もした。 友達のおじいちゃんの畑で木イチゴをもらって、水筒のお茶で洗って食べてたし。 野生のキジが鳴く声で目覚めたこともあった。 誰だって、これくらい経験してると思ってたけど、カンチガイだったみたい。 私が、田んぼや、畑や、あぜ道を駆けまわっている間、リラは、カレシと付き合ってたんだ。 「で、なずな。アカウントわかった?」 「えっと……」 適当にボタンを押してみれば、何とかなると思ってたけど。 どれを押しても、アカウントは表示されなかった。 焦れば焦るほど、知らない画面が出てきちゃうよぉ。 「同じ会社のだったら、操作方法を教えられるんだけど」  リラは、私のスマホと自分のスマホを横に並べて、見比べた。 メーカーが違うと、使い方も全く違うんだって。 全部お兄ちゃんに任せずに、ちゃんと自分で設定すればよかったなぁ。 スマホさえ持っていれば、都会の学校でもやっていけると思ってた自分が、恥ずかしい。 って、底無し沼みたいな後悔にひたっていたら、リラがいきなり声を上げた。 「あっ! 怜央がなずなと同じスマホ持ってる」  そう言われてリラの視線の先を見てみると、教室の入口に怜央くんがいた。 リラの言う通り、その手元には、私と同じスマホ。  他のクラスの女の子たちに、アカウントを聞かれてるみたい。  なんとか断りながら、自分の席に戻ろうとしてる。  ぼんやりしてて気づかなかったけど、同じクラスだったんだ! 「怜央に聞いてみましょ。きっと知ってるから」 怜央くんの顔が見えていないのか、リラは私の手からスマホをひゅっと抜き取ると、席から立ち上がって歩いて行った。 「ちょっ、ちょっと待って」 私の声、聞こえてないみたい。  リラはどんどん進んで行って、怜央くんに声をかけちゃった! 「ねぇ、怜央のスマホ、これと一緒でしょ?」 「うわっ、リラ! 同じクラスだったのか」  突然話しかけられた怜央くんはびっくり。 「何よ、そんなに驚くことないじゃない」 「お前さ、久しぶりに会うんだから、なんか挨拶くらいしろよ。オレ一応、退院後、初登校なんだけど」 「フルートバカに、いちいち挨拶なんかしないわよ」 「その呼び方、いい加減やめろって」  そう言って、怜央くんは子どもみたいにくちびるをとがらせた。 リラと怜央くん、「ケンカけんかするほど仲がいい」って感じ。 幼稚舎から一緒ってことは、幼なじみみたいなもんだよね。 プリンスって呼ばれてる怜央くんと、超セレブのリラ、なんだか絵になるなぁ。 「あれ? リラの後ろにいるの、もしかして、なずな? なんか、朝と雰囲気が違うけど」 「え、何? 知り合いだったの?」 怜央くんが私に気づいてくれたのは嬉しかったけど、リラの問いかけに何て答えればいいのかわからなくて、私は言葉に詰まった。 駅で会ったって、話すべき? でも、全部話すのは、ちょっと恥ずかしいかも。 「えーっと、朝、たまたま同じ電車に乗ってて、駅で転んじゃったときに助けてもらったっていうか……」 「ふーん。朝からフルートバカに会うなんて災難ね」 「お前なぁ!」 「まぁ、怜央のことはどうでもいいわ。私は、なずなと友達になりたいだけだから」  お前が聞いたんだろ、って怜央くんがツッコんだけど、リラは完全無視。 「怜央のスマホ、これと同じ機種でしょ?」  そう言って、私のスマホを出した。 「友達申請をしたいんだけど、アカウントの出し方がわからないの。ちょっと操作してもらえない?」 「は? お前、スマホ変えたの?」 「違うわよ、これはなずなの」 「ああ、そういうことか。なずなのスマホに、リラのアカウントを登録すればいいんだな。ちょっと借りるぞ」 怜央くんの長い指が、スマホの上で踊る。 私のスマホが、こんなかっこいい都会の男の子に操作されるなんてね。 地元の友達に言ったら、みんなビックリするかなぁ。 「ほら、これでいいだろ」 「ありが……って、ええっ!」  スマホを受け取ると、リラの名前の下に、なぜか怜央くんの名前があった。 「ちょっと待って、これなに? どういうこと⁉」 「あら、怜央の連絡先も登録したの?」 「別にいいだろ、クラスメイトなんだし」 「へぇー、さっき他の女子に聞かれたときは、断ってたのに?」 「フルートで一緒に練習することもあるし、知っておいて損はないだろ」 「ふぅん、いい言い訳を考えたじゃない。まぁ、他の男子に取られる前に、振り向かせたいっていう気持ちも、わからなくはないわよ。なずな、結構かわいいし、素直そうだし。ダイヤの原石って感じよね」 「……ん? 今、私の名前呼んだ?」  自分のスマホに怜央くんの名前があることにビックリしすぎて、脳がフリーズしてた私は、名前を呼ばれてようやく我に返った。 「ええ、呼んだわよ。怜央がね、なずなのこと気に入っ――」 「おい、余計なこと言うな!」  一体、なんの話をしてるんだろう? よくわからないけど、怜央くん怒ってるみたい。 「なによ、せっかくフォローしてあげようと思ったのに」 「ウソつけ! 絶対楽しんでるだろ」 「幼なじみの恋を応援して、何が悪いの? 私、恋愛相談に乗るのは得意よ」 「えっ、怜央くん、好きな子いるの?」  私が聞くと、怜央くんは真っ赤になった顔を片手で覆って隠した。 「ああもう、リラが先走るから、なずなにバレたじゃん」  怜央くん、耳まで赤くなって照れてる。  クールな人って聞いてたけど、こんな顔もするんだ。  相手の女の子のこと、よっぽど好きなんだろうなぁ。  気持ちがあふれて止まらないのが、目に見えるみたい。 「怜央くん、安心して。誰にも言わないから。私も、怜央くんの恋を応援する! 私にできることがあったら、なんでも言って!」 「………………は?」  私、やる気満々で言ったのに、怜央くんから返ってきたのは、その一言だけだった。 「あれ? 私、なんか変なこと言った?」 「変なことっていうか……。え? なずながオレを、応援するの?」 「うん、そうだよ。フルートの仲間だもん。力になるよ!」 「ちょっと待て、なんか変な展開になってきたんだけど」 「あはは、なずな最高! いいじゃない、こんなに楽しいことって他にないわ!」  頭を抱える怜央くんと、大笑いしてるリラ。  なにがそんなに面白いんだろう?  純粋に、怜央くんの恋を応援したいって思っただけなんだけどなぁ。  そのとき、教室に担任の先生が入ってきた。 「みんな、席につけー」  おしゃべりしてた生徒が、またあとでねって言いながら、自分の席に戻っていく。  私とリラも、一番後ろの席に戻った。 怜央くんは、最前列みたい。  男の子の恋を応援するなんて、なんだかドキドキしちゃうなぁ。  地元の小学校でも、「あの子、○○くんのこと好きらしいよ」とか聞いたことはあるけど、私の仲良しグループでは、そういう話は出なかった。  だから正直なところ、応援するって言っても、何をすればいいのかよくわからないんだけど……。  でもきっと、できることはあるはずだよね。  フルートの練習に全力を尽くそうと思ってたけど、楽しみが一つ増えちゃった!  チラッと振り向いた怜央くんに、小さなガッツポーズでエールを送ると、隣の席でリラが、ふふっと小さく笑った。  5 最初にトラブルが起きたのは、入学式の次の日だった。  ことの始まりは、二時間目の授業。 一人ひとり、自己紹介をすることになったの。 シンフォニア学園は、東京中から生徒が集まってきてるから、みんな、自分の出身地を言っていったんだ。 私の出身地は、去年まで住んでた場所。  おじいちゃんと、おばあちゃんと、お兄ちゃん。四人で住んでた七草村(ななくさむら)だよ。  東京から車で何時間も走ったところにある、緑でいっぱいの村なんだ。  クラスのみんなが、銀座とか、白金とか、有名な東京の地名を言っていくなか、私一人だけ田舎くさくて、ちょっと浮いちゃうかな、って思ったけど。 みんなの態度は、全然変わらなかった。  ……一人を、のぞいて。 「なずな、さっき自己紹介で『出身地は七草村』って言ったけど、あれ本当?」  リラと一緒に席でしゃべってたら、怜央くんが話しかけてきた。 「うん。今は東京に住んでるけど、去年までは七草村に住んでたよ」 「へぇ、そうなんだ」  そう言って、怜央くんは不自然に目をそらした。 あれ? どうしたんだろう。 今までみたいに目を合わせてくれない。 それに、表情が暗いっていうか、元気がないっていうか……。 「大丈夫? もしかして体調悪い?」  私がそう聞くと、怜央くんは私の顔も見ずに答えた。 「気にするな。オレのことはほっとけ」 「放っておくなんてできないよ、フルートの仲間だもん。保健室行く?」 「ほっとけって言ってるだろ、大丈夫だから」  怜央くんはそう言ったけど。 「ねぇ、やっぱり一緒に保健室に行かない? 少し休んだほうがいいと思う」  私は怜央くんを保健室まで案内しようとして、追いかけた。  でも――――。 「もう、オレに関わるな」  振り向いた怜央くんは、別人みたいだった。  瞳から光が消えて、背筋がゾッとするような、冷たい目をしてる。 「怜央、どうしたの? ちょっと変よ」  リラが、見かねて声をかけてくれた。  それでも、怜央くんの表情は沈んだまま。 「何でもねぇよ」 「じゃあ、なんでそんな冷たい言い方するのよ」 「なずながいなかもんだってことが、わかったからだよ」 「……私が七草村って、言ったから?」  怜央くんは私から視線を外して、静かにうなずいた。 「人によっては、田舎暮らしもいいのかもしれない。でも、オレは嫌いなんだよ。田舎も、そこに住んでる人も」 「田舎の人も、都会の人も、大して変わらないわよ?」 「リラは気にならなくても、オレは嫌なんだよ。いなかもんと一緒にいるだけで、イライラする。吐き気がするんだ」 「そこまで言うことないじゃない。何があったか知らないけど、なずなに謝って」 「知らないなら、放っておけばいいだろ! お前さ、ときどきそうやって調子に乗るの、ムカつくんだよ」 「はぁ⁉ 調子に乗ってなんかないわよ!」  わわっ、リラまで怒り始めちゃった!  私は慌てて、火花を散らす二人の間に入った。 「ちょ、ちょっと待って。なんで七草村が嫌いなのかわからないけど、私はともかく、リラのこと悪く言うのはやめて」 「は? そっちが謝れとか言うからだろ!」 「あの、謝らなくていいから、とりあえず、落ち着こ。怜央くんは休んだほうがいいよ」 「気安く名前を呼ぶな! いなかもんのくせに!」  そう言って、怜央くんは私を突き飛ばした。 「わっ!」  その力は、思ったより強くて。 ――ガターンッッッ!  私、近くにあったイスを倒して、派手に転んじゃった。  騒がしかった教室が、水を打ったように静かになった。  クラスのみんなが動きを止めて、私と怜央くんに注目してる。  痛みをこらえてなんとか立ち上がったけど、腕と足を打ったみたいで、ズキズキする。  田舎から来たっていうだけで、なんでこんなに責められなきゃいけないんだろう。  東京に出てきたら、いけなかったのかな。  私、全然わかんないよ。  体も心も痛くて、思わず涙がこぼれそうになった、そのとき。  誰かが私の顔を隠すように、ふわっと抱き寄せて、包み込んだ。  もしかして、お兄ちゃんが助けに来てくれたのかな?  そう思って、見上げてみたら。  知らない男の子が、にっこり。 「えっと……。誰ですか?」  私よりもだいぶ背が高くて、モデルみたいに顔が小さい。  シャツのボタンを少しあけて、オシャレに制服を着こなしてる。  オレンジティーみたいな色の髪は長めで、ゆるくカールしてて大人っぽかった。  優しげな目元に、気を抜くと見とれそうになるような、甘い顔立ち。  背後から、女の子たちの黄色い声が聞こえた。 「本物!」「動画で見るよりイケメン!」って、怜央くんが来たときと同じくらい騒いでる。  女の子たちが言うとおり、そのへんの男子が百人くらい束になっても敵わなさそうなくらいかっこいいんだけど。 うーん、いったい誰? 「えっ、もしかしてオレを知らないの? この顔、一回くらい見たことない?」 「えっと、ごめんなさい、知りません」 「うわ、信じられない。オレを知らないなんて人生損してるよ。今度の週末、デートしよっか。誕生日から好みのタイプまで、全部教えてあげる」  うえぇぇぇ! この人、なに言ってるんだろう。  デートって、恋人同士とかでするものじゃないの? 「いえ、あの、知らない人とデートするのはちょっと」 「なんで? ちょっとお茶するだけだから、大丈夫だよ。この前、駅の近くでオシャレなカフェを見つけたんだ。生クリームと、食べられるお花がのってるパンケーキがおすすめなんだって」 「お花のパンケーキ⁉」  前に、テレビでやってたの。  都会のパンケーキは、おばあちゃんが作ってくれた薄っぺらいホットケーキとは違って、シフォンケーキみたいにふわふわなんだって。 しかも、見たこともないようなカラフルなフルーツがトッピングされていて、キラキラした粉までかかってて、魔法みたいに美味しいんだって。  さらにお花がのってるなんて、想像をはるかに超えてる! 「そのパンケーキ、食べたいです!」 「でしょ。一緒に来てくれたらごちそうするよ」 そう言って、その人はアイドルみたいにウインクを決めてきた。 あれ? この顔、どこかで見たことがあるような……。 「なずな、行かないほうが身のためよ。この人、すぐ女の子を口説くらしいから」 「えっ、リラ、この人のこと知ってるの?」 「昨日、『三大プリンス』の動画を見せたでしょ。そこにこの人が映ってたの、覚えてない?」 「ああ! そういえば……。って、えぇ――――っ!」  リラの言葉を聞いて納得しかけたけど、私、お腹の底から大声を出しちゃった。 「なずなちゃん、だっけ? 初めまして。オレは蕪木(かぶらぎ) 雅(みやび)。声楽コースだよ。二年生だから、雅先輩って呼んでね。彼女になってくれるなら、雅クンでもいいよ」 「おい、いつまでも調子のってんなよ」  私の肩にのっていた雅先輩の腕をつかんだのは、怜央くんだった。 「その手を離せ!」 「はいはい。そんな怖い顔しなくてもいいのに。人類の半分は、オレの彼女なんだから」  一般人には言えないようなすごいセリフを言って、雅先輩は私から離れた。 でも、怜央くんは相変わらず先輩をにらみつけてる。  二人のプリンスに挟まれて、私の心臓はバクバク!  一触即発って、こういうことを言うのかな?  なんて、四字熟語の意味がわかったところで、何も解決しないんだけど。  とりあえず、お化け屋敷よりも怖いこの状況から、逃げ出したいよー!  6 教室にいると目立つから、と怜央くんが言って、私たちは廊下のすみっこに移動した。 私は全然気づかなかったけど、クラスの人たちがじーっと見てたみたい。 『学園の三大プリンス』って、本当に大人気なんだ。 「それで? なんで雅がここにいるんだよ」  これ以上ないくらいの冷たい声で怜央くんが聞くと、雅先輩はそれを見事に跳ね返して笑顔で答えた。 「怜央クンが心配だから、様子を見に来たんだよ」 「は? お前に心配されるほど、オレは弱くねぇよ」 「へぇ〜。なずなちゃんが田舎出身だってわかっただけでビビってたのに?」 「ビビってなんか……!」 「だったらなんで、急に距離を置こうとしたの? ずっと仲良さそうだったのに」 「なんでお前がそれを知ってるんだよ!」 「入学式から見てたから。式の間、何回か手を振ったんだけど、怜央クン完全に無視してたよね。オレ寂しかったよ〜」  そういえば入学式のとき、一部の女の子たちが、二年生の席を見てざわざわしてたっけ。  もしかしたら、雅先輩を見てたのかも。  私は緊張してて、そんな余裕、全然なかったけど。 「とにかく、もう二度とオレの前に現れるな」 「えーっ。怜央クンはイジワルだなぁ。じゃあこれからは、怜央クンじゃなくて、なずなちゃんに会いに来ようかな」 「それは絶対ダメだ!」 「なんで? なずなちゃんはもう怜央クンと関係ないんだから、いいでしょ。『吐き気がする』とか言ってたのは、どこの誰だっけ?」 「オレのマネをするな!」  怜央くん、我慢の限界だったみたい。 一瞬で拳をにぎって、もう片方の手で、雅先輩の胸元につかみかかった。 でも、その瞬間――。 「はい、そこまで」 誰かが、怜央くんの腕を素早くつかんで引き留めた。 「暴力を振るうのは、感心できませんね」  雅先輩の後ろから現れたのは、貴族みたいに上品な顔立ちの男の子だった。 「プリンス同士で争うのは、よくありませんよ。学園のイメージダウンにつながってしまいますから」  雅先輩とは逆に、シャツのボタンをしっかりとめてるから、知的な感じに見える。  肩の上でサラリと揺れた髪は、色素の薄い栗色。 落ち着いた印象だけど、私はちょっと近寄りがたいなって思っちゃった。 この人の周り、なぜかラベンダーの香りがするんだもん。  シャツの胸元に、雅先輩と同じ緑色の学年バッジが見えるから、二年生っぽいけど。 ミステリアスで、普通の中学生とは違う感じがする。 「最悪。なんで紫貴(しき)までいるんだよ」 怜央くんは吐き捨てるように言って、さっと雅先輩から手を離した。 「僕に向かって、文句を言う度胸があるとは。すっかりしょぼくれているかと思っていましたが、元気そうですね」 紫貴と呼ばれた男の子は、怜央くんの様子を見てにっこりと微笑んだ。 怜央くんの知り合いなのかな。 ってことはもしかして、この人も『三大プリンス』の一人? そう思って、私はリラにこそっと聞いてみた。 「ねぇリラ、今来た人って……」 「『三大プリンス』の箱部(はこべ) 紫貴(しき)よ。ピアノコースの二年で、シンフォニア学園の跡取り息子」 「えぇっ、跡取り⁉」 「いちいちうるせぇな、このいなかもんが」  大声を上げた私を、怜央くんがすかさずギロリとにらんだ。 「どうせオレらのことなんて、何も知らなかったんだろ。お前はこの学校にふさわしくない。田舎に帰れよ」 「そんなこと言われても……」  って言いかけたけど、それ以上、返す言葉が見つからなかった。 『三大プリンス』を知らなかったのは、本当のことだし。  怜央くんの言うとおり、自分はこの学校に合ってないんじゃないかなって思ったこともあるから。  でも今さら、そんなこと言えない。  中学受験は、「大変」なんていう一言では表せないくらい、汗と涙にまみれたものだった。  小学校から帰って来たら、海外にいるママとオンラインで毎日練習。  休日も、友達とは全然遊べなくて、フルートの練習と、勉強ばっかり。  着慣れない上品なワンピースと、ピカピカの靴を買ってもらって、お兄ちゃんと一緒に何度も面接の練習をしたっけ。  受験の日は、パパとママに帰国してもらって、無事に合格したら、おばあちゃんとおじいちゃんは大喜びで。  すごい学校に合格したって、村の新聞にも小さく載ったりして、大騒ぎになった。  それなのに、「間違えた気がするから、やっぱりやめました!」なんて、簡単には言えないよ。  たとえ、私には地元のほうが合ってるって、本気で思っているとしても。  しょんぼりした私を励ますように、紫貴先輩が優しく肩を叩いてくれた。 「怜央、そうやって田舎を毛嫌いするのはよくありませんよ。彼女は実力があったからこそ、この学校に入れたんです。シンフォニア学園が難関校だということくらい、怜央も知っているでしょう?」  その言葉は、寝る前のホットミルクみたいに、私の心をふんわりと包みこんだ。 「怜央の言葉は、気にしないでくださいね。ちょっと気が立っているだけですよ。ほら、せっかくかわいい顔をしているんですから、せめて僕の前では笑っていてください。はい、約束」  紫貴先輩はそう言って、私の前に小指を出した。  そのとき、私ってば何も考えずに、自分も小指を出しちゃったんだよね。 小さかったころ、お兄ちゃんと一緒によく「ゆびきりげんまん」をしていたから。 すると紫貴先輩は、まるで魔法をかけるように、とろけるような笑顔で指をからめて、「よくできました」とささやいた。 「キャ――――!」  その瞬間、たまたま近くを歩いていた女の子たちから、悲鳴みたいな声があがった。  正直私も、一緒に叫びそうになっちゃったよ。  だって、声優さんみたいに大人びてかっこいい声だったんだもん。  ミステリアスな男の子のささやき声って、すごい威力。  リラだけは、平然としてるけど。 私は一瞬、心臓が止まりそうだった。  あぶない、あぶない……。 「あーあ、また女の子が一人、紫貴クンに騙されちゃった」 「雅だって、さんざん女子と遊んでるだろ。人のこと言えねぇじゃん」 「オレは遊びじゃなくて、本気だよ? でも紫貴クンは違うでしょ。学園のイメージアップのためなら、好きでもないのにああいうことしちゃうんだから。オレよりよっぽどタチ悪いよ」 「怜央、雅、それ以上言ったら、どうなるかわかってますよね?」  いつのまにか、紫貴先輩のとろけるような笑顔が、氷点下並みの微笑みに変わってる。  怜央くんと雅先輩は、凍りついたように黙ってしまった。  あれ? 紫貴先輩、もしかしてちょっと怖い人……?  私は、紫貴先輩に気づかれないように、そーっと小指を外した。 7 「それで? なんで紫貴まで一年の教室に来てんだよ」  怜央くんはそう言って、鋭い目つきで先輩をにらんだ。  紫貴先輩は、怜央くんににらまれたところで、何も気にしてないみたいだけど。 「『三大プリンス』の、新しいメンバーの下見に来たんです。プリンスというより、プリンセス、と言うべきでしょうか」 「プリンセスって……。『三大プリンス』に、女子生徒が加わるということかしら?」  リラが尋ねると、紫貴先輩は笑顔で答えた。 「その通りです。今年の一年生に、春野なずなさんっていう女の子がいるそうで。彼女のフルートの腕前は相当なものだと、先生方がウワサしているのを聞いたんですよ」 「えっ、私ですか⁉」  突然名前を呼ばれて、私、思わず大声を出しちゃった。 「私なんて、全然上手くないですよ! コンクールで賞とかとったこともないし、今まで田舎に住んでたから、有名な先生のレッスンを受けたこともないし!」 「先生方の話では、期待の星、ということでしたよ。これからレッスンを受ければ、きっとすぐ管楽器コースのトップに――」 「ちょっと待って!」  紫貴先輩の話を止めたのは、雅先輩だった。 「『三大プリンス』の新しいメンバーって、どういうこと? フルートは怜央くんでしょ?」 「おや、聞いていませんか? 怜央はもうステージに立たないそうですよ」 「聞いてないよ! なにそれ、どういうこと⁉」  雅先輩のとなりで、リラもびっくりした顔をしてる。 一年ぶりに学校に戻ってきたのにステージに立たないって、どういうことだろう。  管楽器コースでトップになって、学校の代表になって、みんなの憧れの存在になって。  私から見れば、夢みたいな話だけど。  怜央くんにとっては、そうじゃなかったのかな? 「ステージに立たないって……。フルートは? もう吹かないの?」  リラが尋ねても、怜央くんは黙ったまま。  代わりに、事情を知っているらしい紫貴先輩が答えてくれた。 「フルートはやめないそうですよ。怜央くんからフルートを取ったら、何も残りませんからね。でも今後一切、人前では演奏しないそうです。『プリンスとしての活動はやめる』と、学園の理事長である僕の父に言ったようですから。そういう話で、合ってますよね?」 「……んだよ、情報が早すぎるだろ」  否定しないってことは、紫貴先輩の言う通りなんだ。 そんな怜央くんの様子を見て、一番おどろいてるのは雅先輩だった。 「待って、どういうこと? もうオレたちとアンサンブル組まないの?」 「だとしたら、なんだよ」 「……もしかして、七草村でのコンサートが原因?」  雅先輩の言葉を聞いて、怜央くんは下唇をグッと噛み締めた。  七草村でのコンサートって、なんだろう?  そもそもコンサートができるような場所なんて、七草村にはないはずなんだけど……。 「あれは全部オレが悪かった。怜央クンの気持ちをちゃんと考えてなかったから、あんなことになったんだ。心から反省してるよ。でも、だからってプリンスをやめる必要はなくない? せっかく戻ってきたんだから、また一緒に演奏しようよ。ステージに立って、音楽を届けようよ」 「雅が悪いなんて、オレは一言も言ってないだろ。ステージに立たないっていうのは、オレが勝手に決めたことだ。お前は関係ない」 「関係ないって……。怜央クン、さっきからそればっかり。そんなふうに、友達を遠ざけないでよ。オレは今までずっと、怜央クンが学校に戻ってくるのを待ってたんだよ」 「それはお前の勝手な都合だろ。オレのことなんか放っておいて、新しいメンバーと仲良くやれよ。お前だって本当は、オレよりなずなと一緒に演奏できたほうが嬉しいんじゃねぇの」 「そんなわけないじゃん! ステージの上では、男子も女子も関係ないよ。なんでわかんないのかな。オレは、怜央クンの演奏が好きなんだ。だから一緒に演奏したいだけなんだよ!」  穏やかだった雅先輩が、怜央くんの肩をつかんだ。  でも怜央くんは、その手を簡単に振り解いた。 「そんなの知らねぇよ! オレはオレのためにフルートを吹く。ステージなんか嫌いだ! 知らない誰かのために演奏するなんて、もううんざりなんだよ!」  怜央くんの大きな声を聞いたクラスメイトが数人、窓から顔を出した。 廊下まで、ざわざわと騒がしくなる。 「ケンカしてる!」とか「プリンス、解散しちゃうの?」とか。 小声で話す声が、あちこちから聞こえる。  その声は小さなトゲになって、怜央くんにチクチクと刺さった。 「せっかく、帰ってきたのに……」  絞り出すような声でそう言うと、怜央くんは走ってどこかへ行ってしまった。 「ちょっ、怜央クン!」  雅先輩が、怜央くんのあとを追いかけようとしたけど。 紫貴先輩に腕をつかまれて、引き戻されてしまった。 「一人になりたいんでしょう。今はそっとしておいたほうがいいですよ」 「そうかもしれないけど! ……っていうか、紫貴クンは寂しくないの? 今までずっと、三人でがんばってきたじゃん」 「本人がああ言ってるんですから、他人の僕たちにはどうしようもないですよ」  やっぱり、紫貴先輩の表情は変わらない。 「じゃあ、僕たちは二年の教室に帰りますから。もしプリンセスに選ばれたら、そのときはよろしくお願いしますね」 「あのっ、ちょっと待ってください!」  くるりと背を向けた先輩たちに、私は慌てて声をかけた。 「聞きたいことがあるんです」 「プリンセスのことですか?」 「いえ、違うんですけど……」  私がそう言うと、紫貴先輩はガッカリした顔をした。  ううっ、悪気はないんだろうけど、紫貴先輩って何を考えてるかわからないから、ちょっとだけ怖い。  でも、ここでめげたら、何もわからないまま終わっちゃう。  私は、自分のてのひらをぎゅっと握った。  怜央くんがまた怒りそうだからだまってたけど、実はさっきから、ずっと気になってたことがあるんだ。 「聞きたいのは、怜央くんのことです。七草村でのコンサートって、なんですか? なんであんなに、田舎が嫌いなんですか?」 「ああ、そのことですか」 「うーん、詳しく教えてあげたいけど、怜央クンの弱点をペラペラ話すのはちょっとね」 「勝手に話して、後で怜央に問い詰められても困りますし。怜央が自分から話すまで待ってもらえませんか?」  先輩たちは、知ってるんだ。  今ここで全部教えてもらえたら、スッキリするんだけど。  怜央くんのいない場所であれこれ聞き出すのは、あんまりよくないかなぁ。 「……じゃあ、しばらく待ちます」 「ごめんね。自分の住んでる場所をあんなふうに言われたら、気分悪いよね。でも少しだけ、待っててあげて。信じられないかもしれないけど、怜央クン本当は、すごくいいヤツだから」 「そうですね。今は気持ちが不安定なんだと思いますよ。病院での一件から、それほど時間が経ったわけでもないですし」  病院での一件って、一体なんだろう。  怜央くんの過去に、何があったんだろう。  頭の中が、質問でいっぱいになった。 その気持ちを全部おさえこんで、ぐっとこらえて飲み込んだけど。  ……心が、すごく苦しい。  理由がわからないまま人に嫌われるって、こんなに辛いんだ。 「悲しい顔させてごめんね。もしまた怜央クンに嫌なことされたら、オレを呼んでよ。すぐに助けに行くから」  雅先輩が、ちょっとだけかがんで、目線を合わせてくれた。 「大丈夫、大丈夫。オレたちはお姫様を守るプリンスだから。かわいい女の子を見捨てたりしないよ。ね、だからさ、連絡先、教えてくれない?」 「どさくさに紛れて、何言ってるんですか」  そう言って、丸めたノートで雅先輩の頭を叩いたのは、まさかのリラだった。 「ううう、せっかくカッコよく決めたところだったのにー」 「御形院さん、なかなかやりますね。正しい判断ですよ。雅と連絡先を交換したところで、ろくなことになりませんから」  雅先輩、ひどい言われよう。  さっき一瞬だけかっこよく見えたのは、内緒にしとかなきゃ。 「ともあれ、怜央に何かあったときのために、クラスメイトの方とはつながっておきたいですね。僕に、連絡先を教えてくれませんか?」 「えぇっ! 紫貴クンずるい。オレにも連絡先教えて!」  結局リラと私は、雅先輩と紫貴先輩、両方と連絡先を交換することになった。  スマホの画面に、『三大プリンス』の名前が並んでる。  蕪木 雅、箱部 紫貴。それから、涼城 怜央。  真新しいスマホが、ずっしりと重くなったみたい。  もし七草村の中学に進学してたら、この三人には一生出会わなかったと思う。 私は毎日、地元の友達としゃべって、笑って、楽しく中学生活を送れてた。 ママみたいなフルーティストになりたい、なんて夢を追いかけずに、そっちの道を選んだ方が、よかったんじゃないかな。 そう思ったら、手の中のスマホさえ、私には似合わない気がしてきた。  スマホを持ってなかった頃の私に、戻りたいな。  そんなこと、都会の子に言ったら笑われちゃいそうだけど。  私は、いやなことから目を背けるように、スマホの画面をオフにした。  8 「うわ、またお前と一緒か」 泥まみれのヒキガエルでも見るような顔で、怜央くんが私に言った。 「しょうがないじゃん。ここしか場所ないんだから」  私は、菜の花色のお弁当箱を開きながら、言い返した。 四月も終わりに近づいた月曜日。 中庭にあるベンチでお弁当を食べようとしたら、怜央くんが来た。 パラパラと雨が降ってるけど、ここなら屋根があるからぬれないんだよね。 穴場だと思って来たのに、まさか怜央くんと一緒になるなんて。 フルートのレッスンが長引いて、私たちだけお弁当の時間が遅くなっちゃったから、仕方ないけど。 「私だって、好きでここにいるわけじゃないよ。本当はいつも通りリラと一緒に教室で食べたかったけど、リラは用事があるって言うから、今日は仕方なくここに来たの。そしたら、呼んでないのに怜央くんが来たんだよ」 「気安く呼ぶな、怜央様と呼べ。このいなかもんが」  怜央くんと一緒にいると、嫌味の豪速球が次々に飛んでくる。 はぁ。この調子じゃ、うまくやっていける気がしないよ。 私は、とびきり大きなため息をついた。 「一緒に食べるのが嫌なら、怜央くんがどっか別の場所に行けば?」 「はぁ? ふざけんなよ、なんでオレが」 「後から来たから」 「お前がオレに、この場所を譲ればいいだろ。お前みたいないなかもんこそ、どっか行けよ」 あーあ。怜央くんのことを王子様みたいって思った自分が、バカみたい。 田舎育ちなのが、そんなに嫌? 無視するどころか、目の敵のように、毎日にらまれてばっかり。 諦めておにぎりにかぶりつくと、隣から、ペリペリとビニールテープをはがす音が聞こえた。 「またコンビニのサンドイッチなの?」 何気なく聞くと、怜央くんは鼻で笑った。 「そういうお前は、また手作りおにぎりか」 「いいでしょ別に」 「悪いとは言ってない」  くうう、ムカつくヤツ! 「このお米、おじいちゃんが作ったんだよ。うちの田んぼ、すごく広いんだから。それに畑もあるんだよ。このイチゴはおばあちゃんが育てたので、こっちのレタスは隣のおばちゃんが持ってきてくれて……」 「へぇ、隣に家あるんだな。一面の田んぼの中に、寂しく暮らしてるんだと思ってた」 「お隣さんくらいいるよ! チャリンコで十分走ればね」  そう言った瞬間、怜央がカフェオレを吹き出した。 「なんだよ、チャリンコって」 「自転車のこと。知らないの?」 私が得意げに言うと、「知らなくていいし、知りたくなかった」だって。 どこまでも可愛くない! 「っていうかお前、まだ自転車なんて乗り回してるの? ダッサ」 「チャリンコ、バカにしないでよね。リラだって乗ってるんだから」 リラは中学の近くの高級住宅街に住んでるから、自転車通学なんだ。 体型維持のために運動をしたいって親に言って、自転車を買ってもらったんだって。 毎日オシャレに制服を着こなして、風を味方につけて走り抜けるのを見かける。 まるで、ドラマのワンシーンみたいに。 だから「リラはいいんだよ、似合ってるから」って怜央くんに言われても、反論できなかった。 「初めて電車で会った時とか、スマホの使い方を教えてくれた時は、優しかったのに」 「スマホの使い方を聞いてきたのは、リラだっただろ。お前みたいないなかもんに聞かれてたら、教えてなかったよ」  怜央くんはさっさとサンドイッチを食べ終えて、焼きそばパンにかぶりついていた。 「ま、リラに聞かれたら、誰だって笑顔で答えてあげるよね」 悔しいけど、その気持ちはよくわかる。 『三大プリンス』ほどではないけど、クールビューティーなリラは校内の有名人だった。 セレブで美人なお嬢様として、みんなに一目置かれてるの。 移動教室の時、一緒に歩いていると、私まで周りの視線を感じちゃうくらい。 でも、リラ自身は他人の目なんて全然気にしてないし、私が田舎出身で、都会のことをよく知らなくても、バカにしたりしない。 そんなまっすぐなリラが、私は大好きなんだ。 だから、怜央くんが「リラだからちゃんと答えた」っていうのは、納得。 私だって、大好きなリラに聞かれたら、真面目に答えるもん。 …………ん? ……ってことは、もしかして。 「怜央くんの好きな人って、リラ⁉」 「は⁉ お前、何言ってんの。違うに決まってるだろ!」  怜央くんは、顔を真っ赤に染めてわめいた。  手のなかで、焼きそばパンが握りつぶされてる。  即答で否定したけど、これ、図星じゃない? 「いいこと聞いちゃったぁ」 「何が『いいこと』だ! ったくいなかもんは、ろくなこと言わねぇな!」 「でもリラも、怜央くんのこと応援するって言ってたよね。うーん、まずは誤解をといたほうがいいかなぁ」 「ああもう、ややこしくなるから黙れ!」 さっきまでうるさかった雨音が、リズミカルに聞こえてくる。 「私、二人のこと応援するよ。一緒に作戦立てよう!」 「仮にリラを好きだとしても、お前の力なんて借りるわけないだろ! オレはいなかもんが大嫌いなんだよ!」 「でも、いつまでもケンカしてても仕方ないし。私、リラと仲良しだから協力できるよ! せっかく同じ楽器なんだし、仲直りしようよ」 「ケンカとか、仲直りとか、そういうレベルの話じゃねぇんだよ。オレは、いなかもんと話すのも、同じ空気を吸うのも嫌だ。生理的に無理だって言ってんだよ!」  そう言って、怜央くんは私のお弁当箱を取り上げた。 「何するの⁉」 「こんなもの……っ!」  怜央くんが、お弁当箱を持った手を振り上げた。  菜の花色のお弁当箱の中には、おじいちゃんやおばあちゃんが一生懸命作ってくれた野菜や果物が、まだ残ってる。 「やだ、やめて!」  私、必死で叫んだのに。  怜央くんは地面に向かって、力いっぱいお弁当箱を投げつけた。 大好きなイチゴは、お弁当箱から飛び出して。  三角形だったおにぎりは、叩きつけられてボロボロに崩れた。  私は急いでお弁当箱に駆け寄ったけど。  三秒ルールなんて、全く意味がないくらい、ひどい有様だった。  お弁当は砂まみれで、もう、食べられない。 「なんで、こんなことするの……?」  声が震えそうになるのを我慢して、私は怜央くんを見上げた。 「お前が、いなかもんだからだよ」  返事は、たった一言だけ。 私を見下ろす二つの瞳は、いつになく冷ややかだった。 「田舎に住むくらいなら、死んだほうがマシだ」  怜央くんは無表情で言い切ると、足下に落ちていたイチゴを踏みつぶして、去っていった。 なんで。 なんで、こんなことになっちゃったんだろう。 やっと、フルートの仲間ができたと思ったのに。 初めて会ったあの日、「一緒にがんばろう」って、言ってたのに。 ただ、田舎に住んでたっていうだけで、こんな目にあうなんて。  私は、ぐちゃぐちゃになったイチゴをそっとティッシュに包み、空になったお弁当箱に戻した。 こんなにも悲しい気持ちになったのは、生まれて初めてかもしれない。 制服の白いスカートにぽつりと落ちた水滴は、雨粒じゃなくて、私の涙だった。  9 「なずなちゃん、大丈夫?」  ひょっこりと、視界の端に雅先輩が現れた。  怜央くんがいなくなったあと。  私、一人でベンチに残ってたんだっけ。 「疲れてるんじゃない? ハグしてあげよっか。疲れがとれるよ」 「…………」 「なーんてね。冗談、冗談。なずなちゃん、こういうセリフ言っても、全然ドキドキしてくれないからなぁ」 「………いいですよ」 「え?」 「今日は本当に疲れてるので、ハグしてもいいですよ」  私がそう言うと、雅先輩はふっと笑って、音を立てずにそっと隣に座った。 「しないよ。泣いてる子に、無理やりハグしたりしない」  二人分の影を、雨音がやさしく包み込む。  私、どれくらいこの場所にいたんだろう。  思い出そうとすると、頭の中に、怜央くんの顔が浮かんじゃう。 初めて会ったときの怜央くんは、あんなにあったかくて、優しかったのに……。 せめて、友達として、楽しく話せるようになりたい。 リラのことが好きなら、応援したい。 それなのに、なんで怜央くんは、悲しいことばかり言うんだろう。 またじんわりと、視界がにじんだ。 「怜央クンに、何か言われたの?」  私は、こくりとうなずいた。 「怜央クンは、言葉選びが上手いっていうか、嫌味の切れ味が鋭いよね。オレも嫌われてるから、会うたびにハートがボロボロだよ」 「だったら、会わなければいいじゃないですか。私は怜央くんと同じクラスだし、同じ楽器だから、どうしても顔を合わせちゃうけど」 「そうだね、オレは二年生だし、声楽コースだから、会わないようにするのは簡単かな。でもオレ、怜央クンの兄貴みたいなもんだからさ。つい気になって、顔を見に行っちゃうんだよね。この学校に入学するずっと前から、友達だったから」 「えっ、そうだったんですか?」  私がおどろいて顔をあげると、なぜか先輩も、目を丸くしていた。 「わぉ、なずなちゃん、本当に何も知らないんだね。オレたちが幼なじみって話、校内では結構有名だけど」 「ごっ、ごめんなさい」 「なずなちゃんは謝らなくていいよ。こっちこそごめんね。オレたちまだ知り合って間もないし、知らなくて当然だよね。実は小学生の頃、同じ音楽教室に通っててね。気が合って、毎日のように一緒に遊んでたんだ」  雅先輩はそう言って、遠くの渡り廊下を見た。 雨のカーテンの向こう側で、初等部の生徒たちが、楽しそうにさわいでる。 「そんな長い付き合いだから、怜央クンの性格はよく知ってるし、オレには何を言ってもいいと思ってるんだけど……。なずなちゃんみたいなかわいい子をいじめるのは、よくないね」 変なの。雅先輩は、女の子を口説いてばっかりだって、知ってるのに。 味方になってもらえたって思うだけで、少し、気持ちが楽になった。 やっぱり私、疲れてるみたい。 本音がぽろっと、口からこぼれちゃう。 「雅先輩って、本当は優しいんですね」 「やっと気づいた? 今から好きになっても、全然遅くないよ」 「なりませんよ!」 「オレは、なずなちゃんのこと好きなのに?」 「……は⁉ ちょっと待ってください。雅先輩はそういうこと、いろんな女の子に言ってるんですよね?」 「前は、そうだったけど。過去に出会った女の子たちとは、きれいにお別れしてきたよ。いま好きなのは、なずなちゃんだけ」 「えぇっ!」 「……って言ったら、どうする?」 「もぉぉぉぉ! 私は、だまされませんから!」 「とか言って、顔、赤いよ。かーわいい」  雅先輩にほっぺたをツンと触られて、慌てて顔を隠したけど。  もう遅いみたい。雅先輩の言う通り、顔が熱くなってた。  なにこれ、なにこれ。  私、好きとか嫌いとか、恋愛とか、興味ないはずなのに。  っていうかその前に、どん底まで落ち込んでたはずなのに。  顔が勝手に、赤くなっちゃった。 「れっ、怜央くんのせいです! 怜央くんが、私のこと何回も嫌いって言うから、好きって言われると、なんか、なんていうか……」 「嬉しくなっちゃう?」 「…………っ!」  認めたくないけど、その通り。 「だったらオレは、何回でも好きって言うよ」 「い、言わなくていいで――」 「いいから」  そう言って、雅先輩は私のくちびるに人差し指を当てた。 「弱ってるときくらい、オレに甘えてよ」  こんな甘い言葉、きっと何十回も、何百回も、雅先輩は口にしてるんだろうけど。  それを本気にしちゃいけないんだって、わかってるけど。  私が落ち込んで、ぐちゃぐちゃの顔で泣いてても、好きだよって言ってくれた。 それが今は、どうしようもなく、嬉しい。  そして雅先輩は、昼休みが終わるまでずっと、私のそばにいてくれたんだ。  10 授業後、下校時間ギリギリまで個人練習をして家に帰ると、部屋は薄暗かった。 今日は一日中、ずっと雨。今はザーザー降りだから、夕陽も見えない。 いつもなら、お兄ちゃんが夕ご飯の準備をしてくれるんだけど、まだ帰って来てないみたい。 お弁当があんなことになっちゃったから、夕方だけどお腹すいたなぁ。 私は、冷蔵庫に残っていた昨日のカレーをレンジで温めながら、スマホで録音したレッスンの音声を聴いた。 今日レッスンで先生に聞いてもらったのは、モーツァルトの『恋とはどんなものかしら』。 来月ある中間テストの課題曲なんだ。 そんなに難しくはないんだけど、このタイトルが引っかかるんだよね。 人を好きになるってどういうことなのか、よくわからないし、何回吹いても、どんな気持ちで曲を演奏すればいいのかわからない。 入学した頃は、紫貴先輩が私のことを「期待の星」って言ってくれたけど。 私の演奏はまだまだ未熟。単調で、一つずつ音を追いかけてる感じなの。 でも、怜央くんは全然違う。 いざ、演奏を始めると、空気ががらっと変わる。 全国レベルのコンクールで何度も金賞をとってるだけあって、リズム感がいいし、表現が抜群に上手い。 怜央くんの方が、曲として完成してる。 大人と子どもならまだしも、同じ中学生でこんなにも差がつくなんて。 ため息をつきながらカレーライスを食べたら、あんまり味がしなかった。 やっぱり、都会に住んでる子のほうが、有利なのかな。 都会では近所迷惑になるから、家では楽器の練習ができないけど、有名な先生にレッスンをしてもらえたり、私と同じように音楽をやってる子と友達になれたりする。 そうすれば、当然、演奏も上手くなるよね。 もしかしたら怜央くんの言う通り、田舎より都会のほうがいいのかもしれない。 ぼんやりした頭でお皿を流しに置いて、水を流し始めたとき。 玄関のドアが開く音と同時に、声がした。 「ごめん、なずな! 遅くなった」  イヤホンを外すと、大きな雨粒が窓ガラスを叩く音がした。  雨、いつの間にか、こんなにひどくなってたんだ! 慌てて玄関に行くと、びしょびしょに濡れたお兄ちゃんがいた。 「うわっ、傘持ってなかったの?」 「ああ、置き傘を生徒に貸したら、自分の分がなくなってな」 「そんなことしたら、お兄ちゃんが風邪ひいちゃうよ」  私にとっては、お兄ちゃんのほうが大事なのに。 文句を言いながら洗面所に行って、タオルを持ってくる。 一枚をお兄ちゃんに渡して、もう一枚は自分の手に持って、お兄ちゃんのカバンを拭いた。 「田舎だったら、家の前に車とめられたんだけどな」 「マンションの駐車場、いっぱいで借りられなかったんだっけ? 駐車場が遠いと、こういうときに困るんだね」 「仕方ないさ。都会なんて、そんなもんだろ。便利そうに見えて、案外不便だよ」 お兄ちゃんはそう言って、わしゃわしゃと自分の顔を拭いた。 眼鏡のレンズに、まだ水滴がついてる。 私は手を伸ばして、その水滴を拭き取った。  「そうかな? 私はやっぱり、都会のほうが便利でいいかもって思えてきたよ」 「なんだ急に。少し前まで、七草村の中学に行けばよかったってぼやいてたくせに」 「そうだけど……。今日クラスメイトに、ちょっと嫌なこと言われて、なんか、もしかしたら、都会のほうがいいのかなって……」  お弁当をひっくり返されたこととか、全部話すと大事(おおごと)になりそうで、だんだん声が小さくなっちゃったけど。 「おい、はっきり言え。いじめに発展しそうなら、俺が全力で止める」  お兄ちゃんは、聞き逃さなかった。 「そ、そんなんじゃないよ。ただ、田舎になんか死んでも住みたくないって言われただけ」 「はぁ? 何があったか知らないが、そこまで言う必要ないだろ。誰だそいつ。担任に言っておいてやるから、名前を教えろ」 「そこまでしなくていいよ!」 私は慌てて、ポケットからスマホを取り出そうとしたお兄ちゃんを抑えた。 なんて説明したらいいんだろう。 怜央くんは、確かにムカつくよ。 でも、もしかしたら怜央くんの言うとおり、都会のほうがいいのかもしれない。 怜央くんに「田舎の良さって何?」って聞かれたら、私、なんて答えればいいかわからないもん。 怜央くんを納得させられるようなこと、言えない気がする。 「死んでも住みたくないっていうのは、私も言い過ぎだと思うよ。でも田舎は田んぼや畑ばっかりであんまりお店がないし、不便だなって思うことも多かったなと思って。ほら、スマホのショップもなかったでしょ。幼稚舎からシンフォニア学園に通ってたリラは、小学一年生の頃からスマホ持ってたんだよ。私はこの前やっと買ったばっかりなのに」  お兄ちゃんの言ってることも間違ってない。 都会は都会で、不便なこともあるかもしれない。  でもやっぱり、田舎のほうが住みにくいと思う。  大雨が降ったら、裏山の土砂崩れを心配して。  強風が吹いたら、一時間に一本の貴重な電車が止まっちゃうってヒヤヒヤして。 不便だなって感じたことがあるのは、きっと私だけじゃないはず。 「たしかに、七草村にはスマホショップがなかったな。でも、不便とか便利とか、問題はそこじゃないと俺は思う。不便だと感じても、あえて田舎に住み続けてる人もいるだろ」 「それは、そうだけど」 「死んでも住みたくないっていうのは、あくまで、クラスメイトの意見だろ。そいつの物差しで測ったらそう見えたっていうだけの話だ。人にはそれぞれ物差しがあるし、たった一つの物差しで無理やり測って、良いとか悪いとか決めるのは、もったいないんじゃないか? なずなは、なずなの物差しで測って決めればいいんだから」 「うーん……。じゃあお兄ちゃんは、田舎好き?」 「俺の気持ちを聞く前に、なずなの気持ちを教えてくれ」  お兄ちゃんは頭を拭いていた手をおろして、私の目を正面から見た。 「なずなは、田舎が嫌いになったのか?」 夜でも明るい、都会。 家を出たら、すぐ近くに駅があって、コンビニもあって、スーパーもあって。 小学生も中学生も、リラみたいに可愛い格好をして、夜でも明るい街を歩く。 チカチカ光るネオンはキレイ。 でもきっと、その輝きがまぶしすぎて、星は見えない。 マンションやビルに隠れて、朝焼けや、夕焼けも見えない。 自然に触れ合うために、わざわざ旅行で田舎に行ったりする。 タヌキや蛙やキジだって、きっと動物園でしか見られないんだろうな。 蛙の卵がどんなところにたくさんあるのか知ってたって、キジの鳴き真似ができたって、多分何の役にも立たない。 でも、自然が身近だったからこそわかることは、いっぱいあるはず。 塾に行かなくても、家庭教師がいなくても、おじいちゃんおばあちゃん、そしてお兄ちゃんが、私の先生だった。 そんな田舎の、一体どこを嫌いになることができるんだろう。 私は顔を上げ、お兄ちゃんの目を見つめ返した。 「ううん、私は田舎が好き。大好き」  そう言った瞬間、お兄ちゃんは口の端をゆるめて笑った。 「俺もだよ」  家族以外、誰にも見せない、優しい笑顔。  この顔を見ると、ほっとする。  お兄ちゃんの優しさがじんわり伝わって来て、あったかいお風呂に入ったときみたいに、心のこわばりがほどけていく。 「お兄ちゃん、ありがと。ちょっと元気出てきた」  怜央くんとわかりあうには、時間がかかるかもしれないけど。 また前みたいに話せるチャンスがあったら、田舎のいいところ、少しだけ伝えてみようかな。  ……って、ほんわかしたのは一瞬だけ。  急に、お兄ちゃんのメガネがきらりと光って、目つきが鋭くなった。 「それで、なずなをいじめたのはどこのどいつだ?」 「だから、いじめられてないってば!」 「そんな嫌味を言うなんて、いじめ以外の何でもないだろ。俺が教師の権限を最大限に使って、そいつの成績を最下位まで落としてやろう」 「それはダメ! むしろお兄ちゃんが生徒をいじめてる!」  これからお兄ちゃんには、怜央くんの話をしないようにしなきゃ。 「もう中学生なんだから、お兄ちゃんに守ってもらわなくても大丈夫だよ」 「むしろ中学生だから、心配なんだよ。賢くなる分、小学校よりひどいいじめが起きるケースもあるし、特に女子は恋愛関係でもめることもある。変なヤツに目をつけられたりしたら、どうするつもりだ」 「それは、えーっと……」  頭の中に、雅先輩の顔が浮かぶ。  言うまでもなく、雅先輩は女の子に大人気。 女の子同士でもめることも、あるかもしれない。 別に私は、好きってわけじゃないけど。 「ほら、何も言えなくなってる。なずながよくても、俺が心配なんだよ」 「だ、大丈夫! 心配いらないって。お兄ちゃんこそ、そろそろ妹離れしないと変なヤツって言われちゃうよ。私、もう子どもじゃないんだから」 「子どもじゃない、か……」  お兄ちゃんの目に、寂しそうな影がよぎった。  わわっ、言いすぎたかな?  今まで散々助けてもらってきたのに、ちょっと恩知らずだったかも。 「お兄ちゃん、ごめ――」 「ってことは、もう我慢しなくていいんだな?」 「え?」 お兄ちゃんが一歩ずつ私に近づき、じりじりと距離を詰めてきた。 「なに? お兄ちゃん、どうしたの?」  丸顔の私とは似ても似つかない、整った顔が目の前に迫ってくる。  メガネの奥のまっすぐな瞳は、真剣そのもの。 雨に濡れた髪も、スッと通った鼻筋も、いつもより大人っぽく見えて目が離せない。  私の背中が、トンッと壁に当たった。  しまった、もう逃げ場がない。  お兄ちゃんが、私の顔の両側にそっと手をついた。 「今まで大事に守ってきたのに、他の男に渡してたまるかよ」 「わぁ――――っ!」  なっ、ななななななにこれ!  私は必死に抵抗して、手に持っていたタオルでお兄ちゃんをバシバシ叩いた。 「なんてな! ははっ、なずな、変な顔」 「もーっ、急に大人の顔になるのはずるいよ。 お兄ちゃんのばか!」  低い声でささやかれて、不覚にもドキッとしちゃった。  うーっ、相手はお兄ちゃんなのに、悔しい。 目の前の顔を無理やり押しのけると、お兄ちゃんは喉の奥でククッと笑った。 「なずなが無防備すぎるのが悪いんだよ。他の男の前では、ぼけっとするなよ」 「しないもん! お兄ちゃんまで、私をからかわないでよ」 「ん? お兄ちゃん『まで』ってどういうことだ?」 「な、なんでもない……」  しまった、口がすべった。 チクチクと顔に刺さる、お兄ちゃんの視線が痛い。 まるで、小さなミツバチに攻撃されてるみたい。 「なずながそう言うなら、深く追求しないけど。都会の変な男にひっかかるなよ。お前が付き合う男は、俺を倒せるくらい強いヤツじゃなきゃダメだからな」 「ええっ、それじゃ私、誰とも付き合えないよ!」 「それなら、このまま一生二人で暮らそうぜ」 「そんなの絶対やだ!」 「うわ、プロポーズしたのに秒でフラれた」 「どうせまた冗談でしょ!」 「さぁ、それはどうかな」  お兄ちゃんは、余裕の表情。 「とにかく、何か困ったことがあったらすぐ言えよ。俺はいつでも、なずなの味方だから」 そう言って、何事もなかったかのように、大きな手で私の頭を撫でる。 人をドキドキさせておいて、こうやって丸く収めちゃうのも、なんかずるいなぁ。  ……でも、一日の終わりにお兄ちゃんと話せて、よかったかも。  過保護なお兄ちゃんをうるさく感じる日もあるけど、今日はその優しさに救われた。 泣いたり、落ち込んだり、いろいろあった一日。 出口が見つからなくて、暗闇のなかにいるみたいだったけど、お兄ちゃんのおかげで、一筋の光が見えた気がする。 そう思ったら、よどんでいた気持ちが、ソーダの泡みたいにしゅわしゅわと消えていったんだ。 11 それから三週間後、吸い込まれそうなぐらいよく晴れた月曜日。 いよいよ、中間テストが始まった。 今日は、実技試験の日。 午前中の授業を全部使って、全学年、全コースの生徒が、先生たちの前で一人ずつ課題曲を演奏するの。 怜央くんとの差がこれ以上広がらないように、いい点数をとらなきゃ!  ……って気合いを入れて家を出たのに。 早速、遅刻! 今日に限って、線路の点検で電車が遅れるなんて。 私は大慌てで学校へ行き、いつも楽器をしまっている音楽準備室に駆け込んだ。 部屋の奥のほうに、人影が見えるけど……。 あれ、怜央くんかな? 「フルートの順番って、まだだよね?」  声をかけたけど、返事がない。  仕方ないか。一緒にお弁当を食べたあの日から、結局、ケンカしたままだし。  私は狭い準備室のなかを、キョロキョロと見回した。 バイオリンやチェロの楽器ケースが、空になってる。 ってことはつまり、今、トップバッターの弦楽器の子たちがテストを受けてる。 ……うん、大丈夫! フルートは最後だから間に合うはず。 「先に行くね!」 私はさっさと自分の楽器を用意して、カギを閉めようと扉の外に立った。 怜央くん、まだ出てこない。 「大丈夫ー?」 しばらく待ってみたけど、返事がない。 いつから置いてあるのかわからないような楽譜と楽器で埋もれた、埃っぽい部屋の奥。 そこから、ガサゴソと物を動かす音が聞こえるだけ。 「先、行っちゃうよー」 畑で作業するおばあちゃんに呼びかけるみたいに、大声で言う。 すると、楽譜だけを持った怜央くんが、オバケみたいに青白い顔で出てきた。 「楽器、忘れた……」  魂が抜かれたかのような、弱弱しい声。  こんなときに冗談? 新種の嫌味かな。 「怜央くんいつも、学校に楽器置いて帰ってるじゃん。家で練習できないからって」 「いなかもんのお前とは、住んでる世界が違うからな。オレは都会のマンション暮らしだから、家で吹くと周りの家に迷惑がかかるんだよ。でも昨日は、テストの前にメンテナンスをしておこうと思って、持って帰って……」 「それで、忘れたの?」 「そうだよ、悪いかよ。それで学校の楽器を借りようと思って、探してんだよ……」  怜央くんはゾンビみたいな声を出して、しゃがみ込んだ。 冗談じゃなかったんだ。私は心の中でこっそり怜央くんに謝った。 「学校の楽器なら、奥の引き出しだよ。使ってないフルートが、何本かあったはず」 床に転がった様々な形の楽器ケースを乗り越えて、私はなんとか、窓際の棚の前までたどりついた。 埃っぽい匂いが鼻を突く。 息を止めて棚の奥に手を突っ込み、掻き出すように、二つの楽器ケースを取り出した。 「ほら、ここにあるよ」  後から来た怜央くんが、後ろから覗き込むように楽器を見た。 ファスナーを開けて、ケースを取り出し、錆びた金属の留め金を開ける。 すると、そこには……。 「……見なかったことにしよう」 箱の中にあったのは、古すぎて、金属部分が緑色に変色したフルートだった。                   もう一本も見てみたけど、全く同じ状態。 音が出るのかどうかも怪しい。 私の楽器もママのお古だから、かなりの年代物だけど。 これでもマシなほうみたい。 私は二本のフルートを引き出しの奥に押し込んで、怜央くんに向き直った。 「スマホでママかパパに連絡してみたら? 持ってきてくれるかも」 「うちは共働きだから、父さんも母さんも会社」 「じゃあ、自分で家にまで取りに帰ったら?」 「それで間に合うんだったら、初めからそうしてる」 怜央くんは、私の優しさを、見事に跳ね返してくれた。 ああ言えばこう言う……。 それでも私は思いきって、最後のアイデアを言ってみた。 「私の楽器、使う?」 「いなかもんに楽器借りるくらいなら、テストは0点でいい」  コイツ……いつか死んだら、墓にカマキリの卵供えてやるっ!  って、全力で怜央くんを呪ったんだけど。 その時、私の頭にパッとアイデアが思い浮かんだんだ。 自分で言うのもアレだけど、これ、かなりいい案だと思う! 「ねぇ、怜央くん。楽譜はここに置いて、校門で待ってて。家まで取りに行こう」 「はぁ? 今から家に戻って間に合うわけねぇだろ。電車に乗ったって、乗り換えに時間がかかるし」 「だったら、乗り換えなしで行けばいいんだよ」 「は? お前、何言ってんの?」 「いいから! 家のカギ持って、すぐに来てよ」  それだけ言って、私は音楽準備室を飛び出した。 これから向かうのは、声楽コースの子たちが使ってるレッスン室。 そこには、リラがいる。 大丈夫、友達だもん。きっと力を貸してくれる。 それに怜央くんも、リラの名前を出せば嫌って言わないんじゃないかな。 私は、自分のアイデアに望みをかけて走り出した。 12 「お待たせ!」  私はそう言って、校門前で待つ怜央くんの隣に、リラに借りた自転車を止めた。 本当は、ほんのちょっとだけ、来てくれないかも、と思ってたけど。  さすがに、そこまで嫌なヤツじゃなかったみたい。 「言っておくけど、オレは自転車なんて、もう何年も乗ってない」  中学生が、いばって言うことじゃないでしょ、と情けないツッコミをいれる。 「怜央くんには期待してないよ。私がこぐから、後ろに乗って家まで案内して」 「は? お前バカ? ここからオレのマンションまで電車で五駅分あるんだぞ。そんなに長い距離、走れるわけないだろ」 「私は都会育ちのおぼっちゃまと違って、田舎でチャリンコ乗り回して育ったの。五駅分くらい余裕。ほら、さっさと乗ってよ」 怜央くんははっきりと嫌そうな顔をして、渋々荷台に乗った。 少女マンガとかドラマでは、こういうの、男女逆だと思うけど。 今はそんなこと、気にしてられない。 都会の軟弱王子様のために、ひと肌脱いでやろうじゃないの。 「いなかもん、なめないでよね」  私は一瞬振り返ってニヤリと笑うと、力強くペダルを蹴った。  そして、五分後。 「ちょっと待って、こんなはずじゃなかったんだけど」  私は、道の端にチャリンコをとめて、息を切らして言った。  身体中から、汗が吹き出してくる。  どんなに急な坂道でも、今まで立ちこぎして登ってきたし、二人乗りだって、楽勝だと思ったのに。 「だから言っただろ、そんなに走れるわけないって」 「東京に来るまでは毎日自転車乗ってたから、大丈夫だと思ったの!」 「自分一人で走るのと、二人乗りとでは、必要な体力が全然違うんだよ。お前があまりにも自信満々で言うから、後ろに乗ってやったけど。残念ながら、ここまでだな」 「誰のためにやってると思ってんの……」  このムカつく顔、学校中の怜央ファンに見せてやりたい。  言い返す体力も残ってなくて、私は自転車のハンドルにぐったりと倒れ込んだ。 すると、荷台に乗っていた怜央くんが、突然自転車から降りた。 「もういい。オレがこぐ」 「え、さっき乗れないって言ったじゃん」 「乗れないとは言ってない。乗ってないって言ったんだよ。ほら、早く」  私が言い出したことなのに、こんなことになるなんて。 悔しいけど、今回だけは仕方ない。 今は時間がないから、先を急がなきゃ。 私は自転車を降りて、怜央くんに席を譲った。 「じゃあ私、歩いて帰るから」 「こんなところに、ヘロヘロになったお前ひとり置いていけるわけないだろ」 「でも、私を乗せてこいだら、今度は怜央くんが疲れちゃうよ」  そう言うと、怜央くんは今まで見たこともないような不敵な笑みを浮かべた。 「お前を乗せて走るくらい、余裕だよ」 怜央くんの背中は思っていたより大きくて、女子とは全然違った。 手足も長くて、男の子らしく、しなやかに動く筋肉がしっかりついてる。 そういえば、体育の授業でバスケをやったとき、一人で何人も敵を交わしてシュートを決めて、お兄ちゃんに褒められてたっけ。 「乗ったか? 時間もないし、さっさと出発するぞ」 怜央くんは私が乗ったのを確認すると、ものすごい勢いでペダルをこぎだした。 初めて会った時、王子様みたいな人だなぁって思ったのを思い出す。 あのときも、顔だけじゃなくて、転びそうになった私を抱きとめてくれたんだよね。 なんだか、胸がドキドキする。 ちゃんとつかまっていないといけないのに、うまく触れられないよ。 そう思って、怜央くんの肩につかまっていた手をゆるめたら、突然、自転車がガタンと揺れた。 「わっ、落ちる!」 道路の段差を、スピードを落とさずに乗り越えたみたい。 キッという金属音とともに、自転車がとまった。 「おい、ちゃんとつかまっとけよ。危ないだろ」 「でも、今日暑いし」 「暑くても、落ちるよりマシだろ。ほら、ここに腕を回せ」  怜央くんはそう言うと、私の左腕を引っ張って、自分の腰に添えた。  その勢いで、私の体が怜央くんの背中にぴったりとくっつく。 「え、ちょ、待って」 怜央くんの制服から、せっけんの爽やかな匂いがする。 その香りが、私の服にまでうつりそうなくらい、密着してる。 「自転車で行くって、お前が言い出したんだろ。今さら恥ずかしがってんじゃねぇよ」 「でもでもでも」  こんなにくっついたら、心臓がうるさいくらいにドキドキしてるの、怜央くんにばれちゃうよ。 「やっぱり私、降り……」 「つべこべ言わずに、こっちの腕も」  有無を言わさず、怜央くんが右腕を引っ張り、私は完全に逃げられなくなった。  まさか、こんなことになるなんて。  恥ずかしすぎて、顔を上げられない。 「じゃあ行くぞ。ちゃんとつかまってろよ!」  そう言ってこぎだした怜央くんの声は、なんだか楽しげで。 余裕のない私とは、正反対だった。 13 照りつける日差しのなか、怜央くんの髪が、爽やかな風になびく。 気持ち良くなってきたのか、怜央くんは歌まで歌い出した。 怜央くん、フルートだけじゃなくて歌も上手いんだ。 私は入学するまで『学園の三大プリンス』のことを知らなかったし、ステージも見たことがない。 だから、あの三人のアンサンブルがどれほど感動するものなのか知らないし、怜央くんがもうステージには立たないって言うなら、私に引き止める権利はないと思う。 でも、本音を言うと、ステージに立つ怜央くんの姿を見てみたいなって思う自分もいるんだ。 写真とか、動画とかじゃなくて、この目で直接。 ほんの少しかもしれないけど、人に音楽を届けたいっていう気持ちが心のなかに残ってるなら、ステージに立つのをやめないでほしい。 自転車をこぎながら歌を口ずさむ怜央くんは、すごく楽しそうだから。 「ねぇ、七草村で、何かあったの?」 ちょうど信号で止まったところで、私は怜央くんに声をかけてみた。 「は? 突然、なんだよ」 「とっ、突然じゃないもん。ずっと気になってたもん」 学校とは違って、ここなら周りに誰もいない。 話し声は、車道を走る車の音に掻き消える。 今なら、本音を聞けるかも。 ステージに立たない理由も。 怜央くんはしばらく黙ってから、ぼそりと言った。 「去年、オレが入院してたって、知ってるだろ」 「えっと、ケガしてたんだっけ?」  私は、スマホで見た記事を思い出した。  本人が知らないところで勝手に調べるのはなんだか悪い気がして、そのあとは何も見てないから、詳しいことは知らないけど。 「ああ。自転車に乗ってて、車にぶつかったんだよ。あの事故からずっと自転車に乗ってなかったから、今日すごい久しぶりにペダルこいだ」 「えっ、そうだったの⁉ ごめん、私、よく知らなくて」  もし交通事故のことを詳しく知ってたら、自転車なんて、絶対にすすめなかったのに。  ううう、私のばか! 「別にいいよ。乗ってみたら普通にこげたし。でもあのときの事故は結構ひどくて。普通の病院じゃ、治療もリハビリもできなかったんだ。それで、東京の病院から、専門医がいる病院に転院した。その病院があるのが、七草村だったんだよ」 「えっ、怜央くんも七草村にいたってこと⁉」 「そうだよ。病院の外には、ほとんど出てないけど」 そうだとしても、信じられない。 あんな田舎に、スーパー都会っ子の怜央くんがいたなんて。 電車は一時間に一本しかないし、バスだって三十分に一本だけ、田んぼと畑と山ばっかりの田舎なのに。 でも、そういえば前におばあちゃんが「七草村にはいい病院があるから嬉しい」って、言ってたっけ。 私は風邪ひとつひかなかったから、全然関係なかったけど。 信号が青になったから行くぞ、と言う声と同時に、自転車は再び走り出した。 動きだしたら会話が終わっちゃうかもって思ったけど、怜央くんは話を続けてくれた。 「その治療が、思ったより長引いてさ。小児病棟に入院してた同世代の子たちと、仲良くなったんだ。最初はよかったよ。毎日いろんなこと話して、遊んで、楽しい日もあった。だけど一ヶ月くらいした頃、ボスみたいなヤツに目をつけられたんだ。どこにでもいるだろ、そういうヤツが」 怜央くんの声は、少しずつ静かになっていった。  まるで、心の中の日記帳を、そっとめくっているかのように。 「リハビリついでにフルートの練習をしてたら、そいつに見つかってさ。『男がフルート吹くなんて気持ち悪い』って言われたんだ。男性のフルート奏者なんて世界には大勢いるし、何か言い返せばよかったんだけど……。あの時のオレは事故のショックもあって、精神的に参ってふさぎこむことも多くてさ。何も言えなかったんだ。そうしたら、怜央なんて顔がいいだけだ、性格は最悪、クズみたいなヤツだとか、あることないこと言いふらされた」 直線の道路を道なりに走っていた自転車が、高速道路の下に入った。 火照った肌に、ひんやりと冷たい風が当たる。 「そんなオレを見た雅が、病院で小さなコンサートを開いてくれたんだ。目標があったら頑張れるだろうって、オレも演奏できるようにステージを用意してくれた。でもそんな状態だったから、ステージに立ったら震えが止まらなくなってさ。フルートに口を当てても音出ないし、客席からは笑い声が聞こえてくるし、頭ん中ガンガンしてきてさ。オレ、舞台で吐いちゃったんだよね」 毎日私に嫌味を言ってくる今の怜央くんからは、いじめられてる姿なんて、全然想像できない。 でも、嘘じゃないな、と思った。 言葉からにじみ出る、何かを感じる。 「ごめん。嫌なこと思い出させちゃったね」 「は? オレが話したいから話してるんだよ。勝手に謝ってんじゃねぇよ」 「ううう、ごめん」 「だーかーらー……。はぁ、もういいよ。とにかく、七草村にいい思い出なんて一つもないってこと。一時期は、フルートを見るのも嫌だったんだ」 病院の男の子が怜央くんをいじめたのは、もちろんよくないと思う。 でも、都会から来た人が珍しくて、なんだか気になっちゃう気持ちは、わからなくない。 私だって、もし地元の小学校に都会から転校生が来たら、きっと気になって見に行っちゃうもん。 田舎はいつも同じ風景だから、個性的なものが浮いちゃうんだ。 「そんなことがあったから、治療がある程度落ち着いたところで、医者に相談して別の病院を紹介してもらったんだ。だから今は、東京に住んでる。ケガはもうほとんど完治したし、今の学校にはオレをいじめるヤツもいない。フルートを吹くのも楽しい。オレにとって、都会は天国だ」 都会は、田舎と全然違う。  シンフォニア学園には東京中からいろんな人が集まってきてるから、個性的でも浮いたりしない。  田舎みたいに、タンポポばっかり咲いてるんじゃなくて、タンポポも、チューリップも、バラも、ヒマワリも、いろんな種類の花がのびのびと咲いてる。  もちろん、タンポポばっかりの景色が悪いわけじゃない。  でも、怜央くんみたいな人にとっては、カラフルなお花畑のほうが、居心地がいいんだろうな。 「お前は都会に出てきて、満員電車で苦労して、嫌な思いもしてる。だから都会より、田舎が好きかもしれない。田舎のほうが、よく見えるのかもしれない。でもオレは違う。もう二度と、田舎になんて戻りたくない」 その言葉は、とても力強いものだった。 本当に苦労してきた人から聞く言葉だからこそ、これでもかという程に伝わるものがあった。 私だって、もし田舎でいじめられてたら、いなかもんが嫌いになってたかもしれない。 怜央くんの気持ちを想像しただけで、ゴーヤの綿を無理やり口に詰め込まれたような、ものすごく苦々しい気分になった。 「ほら、着いたぞ」  そう言われて顔を上げると、目の前に巨大なビルみたいな、円柱形の建物があった。  前に一度だけ、テレビで見たことある。タワマンってやつ。  真上を向かないとてっぺんが見えないくらい高い。 「おい、そんな大口あけて見上げんな。いなかもん丸出しで、こっちまで恥ずかしくなる」 「ごっ、ごめん。なんかすごいところに住んでるね」 「オレは別に、タワマンじゃなくてもよかったんだけど。ここならコンシェルジュがいるから、オレが家に一人でも安心だって親が言ってた」 「え、コン……何?」 「入口にいる受付みたいな人だよ! ったく、これだからいなかもんは」  あ、いつもの怜央くんに戻ってる。 私は少しホッとして、怜央くんにバレないように小さく息を吐いた。 「じゃ、フルート取ってくる。お前はここで待ってろ。すぐ戻るから」  怜央くんは私が自転車を降りたのを確認すると、タワマンの入り口に向かって走って行った。 そのとき、私、気づいたんだ。  涼しい顔してたけど、怜央くんの額から、次々に玉のような汗が流れ落ちていた。 「私を乗せて走るくらい余裕」って言ってたのに。  全然、余裕じゃないじゃん。 私の前では、ずっと、疲れてないふりしてたけど。 本当は、自転車に乗るのも怖かったのかもしれない。          14          これ以上自転車をこいでもらうのは申し訳なくて、帰り道は、交代で自転車をこいだ。 ……とはいっても、私はやっぱり五分で力尽きて、結局ほとんど怜央くんがこいだんだけど。 学校の門のすぐ手前の信号で、私はスマホの時計を見た。 今は十一時。試験終了の、一時間前。 「テスト、間に合いそうだよ!」  背中越しに伝えると、怜央くんは横顔で答えた。 「よし、このまま音楽室まで自転車で行くぞ。リラに返すのは、そのあとでいいだろ」  信号が青に変わる。  怜央くんがペダルに足をかけた。  あと少し。これでなんとかテストを受けられる!  ……と思ったんだけど。自転車は止まったままだった。 「怜央くん、どうしたの? 信号、青だよ」 「わかってる。わかってるけど……。あれは何だ」  怜央くんの背中で、私には前が見えない。 横からひょっこり顔を出して、横断歩道の先、学校の正門を見てみると。 「げ、お兄ちゃん⁉」  鬼のような顔のお兄ちゃんが、仁王立ちで校門の横に立っていた。  しかも、その横にはなぜか、紫貴先輩がいる。  遠目に見てもわかる、不機嫌そうな顔。 「あの二人、もしかして、オレらを待ってる?」 「うん、多分……」  お兄ちゃんの腕には「生徒指導部」と書かれた腕章がついている。  私、何か悪いことしたっけ。 テストの時間なのに、途中で学校を抜け出したから?  それとも、自転車を借りたのがマズかった? でも、怜央くんのフルートを取りに行くには、こうするしかなかったし。  怜央くんはうつむいて一息つくと、ハンドルを握り直した。 「念のため、正門は避けるか。遠回りになるけど、裏門から行くぞ」 「うん。もし何かお兄ちゃんに言われたら、適当にごまかしとくから大丈……」  って、言いかけたのに。 「こらー! そこの二人、止まれ! 今すぐ自転車から降りろ!」  お兄ちゃんに見つかった。  校門の近くにいた生徒も、犬の散歩をしてた近所の人も、車に乗ってる人まで、みんながギョッとして注目するくらいの大声。 「やっぱオレたちを待ち伏せてたのか」  全速力で私たちの方に走ってくるお兄ちゃんを見て、怜央くんは舌打ちした。  あと少しだったのに。  最後に、こんな展開が待ってたなんて。  生徒指導の腕章をつけてるし、これからみっちり怒られるかも。     なんとか見逃してもらって、テストの会場に行かなきゃ。  「遠目に見て、背格好が似てるなと思ったんだが。やっぱりなずなか」   お兄ちゃんは、私たちの横に来るなりそう言って、肩を落とした。 「授業中のはずなのに、うちの学校の生徒が自転車に二人乗りして走ってるって、近所の人から連絡があってな。校門で待ってたんだ」  お兄ちゃんは、残念そうな目で私を見た。 「ごめんなさい……」  妹が注意を受けると、お兄ちゃんも他の先生に怒られるのかな。  私はため息をついて、のそのそと自転車を降りた。  そんなに悪いことをしたつもりはないんだけど。 車道の脇に咲いてるアジサイみたいに、ブルーな気分。 カタツムリになって、葉っぱの裏に隠れたい。 「で、怜央は何をやっているんです?」  紫貴先輩が、自転車を降りた怜央くんに向かって言った。 「ただでさえ目立つ存在なんですから、こういう行動は控えてくださいね。学園のイメージダウンにつながりかねません」 「オレの行動一つでイメージダウンするような学園なら、とっくに廃校になってるよ」  怜央くんは紫貴先輩の目を見て、挑戦的に言い返した。  テストに間に合わなさそうで、イライラしてるみたい。 「っていうか、なんで紫貴がここにいるんだよ。二年生も試験中だろ」 「ピアノコースのテストは、とっくに終わってます。怜央のお目付役として、春野先生に呼ばれたんですよ。二人乗りは、法律違反ですから。最悪の場合、警察沙汰になる可能性だってあったんですよ」 「けいさつ⁉」  そんな大事になると思ってなくて、私、思わず大声を出しちゃった。 「警察ってことは、罰金がかかるの? それとも、刑務所に入るとか」  想像しただけで、声が震える。 「二人乗りで刑務所に入った人はいませんよ。罰金も高くはありません。よっぽど悪質じゃない限り、その場で警察官に注意されて終わりです」 「よかったぁ」  全身から、一気に力が抜けた。 「何が『よかった』だ。これから生徒指導室で反省文を書いてもらうぞ」 「でも、テストが!」 「テスト? ああ、遅刻したらそれなりに点数は引かれるだろうな。でも世の中にはな、試験の点数より大事なものがあるんだよ。法律違反をしてまで、テストで満点をとりたいか!」  ひぃっ! 本気で怒ったお兄ちゃん、めちゃくちゃ怖い!  でも、お願いだから、今だけは見逃してほしい。 怜央くんがテストで悪い点数をとったら、楽器コースのトップじゃなくなっちゃう。 それはつまり、プリンスとして舞台に立てなくなっちゃうってことだから。 「お兄ちゃん、反省文、今じゃなきゃダメ?」 「ダメだ。俺の生徒指導は『その場で注意、その日に反省』が鉄則だからな。だいたい、困ったことがあったなら俺に言えばよかっただろ。わざわざ二人乗りして、どこに行ってたんだよ」  お兄ちゃんの質問に答えたのは、怜央くんだった。 「オレの家ですけど」 「は?」 「オレの家って言ったんです。それが何か問題でも?」  怜央くんのイライラはマックス状態。目の奥に、青い炎が見えそう。 お兄ちゃんのこと、怖くないんだ。  さすが、コンクールで何度も入賞してきただけあるなぁ。 大人に睨まれても、全然ビビらない。  ……って、感心してる場合じゃない!  そんな言い方したら、余計お兄ちゃんを怒らせるだけだよ! 私が思った通り、お兄ちゃんは大爆発した。 「問題大有りだろ! なずな、男の家に行ったのか⁉」 「え、私⁉ えっと、行ったけど」 「行ったのかああああああ!!」 でも家の前までだよって付け足したのに、聞こえなかったみたい。 お兄ちゃんは私の肩をつかんで、ガクガク揺らしてきた。 「今まで大事に育ててきたのに、なんで男の家なんか行くんだよ。そんな場所に行ったら、何があるかわからないだろ!」  そしてくるりと向きを変えると、今度は怜央くんに詰め寄った。 「お前、なずなに変なことしてないだろうな」 「変なことって何ですか? なずななら、ずっとオレにくっついてましたけど」 怜央くんは、余裕のある笑みを浮かべて反撃した。あの顔、絶対わざとだ。 お兄ちゃんの額に、青筋が浮かぶ。 やばいよ、お兄ちゃんを本気で怒らせてる。 紫貴先輩も、他人事だと思って笑ってる場合じゃないんですけど! 「くっついてた……? どういうことだ、詳しく言ってみろ。言えるもんならな」 「ああ、いくらでも言えますよ。こう腕を回して、ぎゅっとしてたんです。なかなかかわいかったですよ」  怜央くんはまるで、抱き合ってたかのような素振りをしてみせた。 「貴様! 俺の妹にそんなふざけた真似をして、どうなるかわかってんだろうな!」 「ちょっと待って、違う、なんか違う!」  私は慌てて二人の間に入った。 「怜央くん、紛らわしい言い方するのやめてよ! たしかに腕は回してたけど、あのときはああするしかなかったっていうか」 「お前、なずなに無理やり抱きついたのか! 許さん。絶対に許さん。地の果てまで追いかけ回して、山に埋めてやるわあああああ!!」  ダメだ、お兄ちゃんがこうなったら、もう何を言っても耳に届かない。  今にもお兄ちゃんが怜央くんにつかみかかろうとしているのに、頭が真っ白になって、何も思いつかない。 そのとき、ふいに、紫貴先輩が口を開いた。 「あ、先生。あっちにも二人乗りをしてる生徒がいますよ」   先輩の指先は、校門の反対側をさしている。 「ほら、あの木の影。見えませんか?」  たしかに、車道の向こうには駅に続く並木があるけど。私には、何も見えない。  お兄ちゃんも眉間にシワを寄せて、注意深く並木を見てる。  でも、やっぱり何も――――。  その瞬間、紫貴先輩にドンッと背中を押された。 「今のうちに逃げなさい!」 「紫貴サンキュ! 行くぞ、いなかもん!」  声と同時に、力強く手を引かれる。 私は怜央くんに引っ張られるまま、走り出した。 「おいこら、待て!」  お兄ちゃんの声が追いかけてくる。  足音が迫ってくる。 それでも、怜央くんは止まらない。 お兄ちゃんには悪いけど、私は怜央くんを信じることにした。 「後でちゃんと反省するから! お兄ちゃんごめん!」  振り返ってそれだけ言うと、私は怜央くんの手を握り返した。  つないだ手を信じて、走り出す。 なんだか懐かしい感じ。 怜央くんと一緒に電車を降りた、あのときみたい。 変なの。ピンチなのに、私いま、すごく楽しい。 そう思ったら、頬がゆるんで、笑いがこぼれちゃった。 都会に出てきてから、ハプニングばっかりだったけど。 ジェットコースターみたいな毎日も、悪くないね。 15          「とりあえず隠れるぞ。このままだと追いつかれる」  怜央くんはそう言って、手近な昇降口から校舎に入った。 誰もいない教室を探して、二人で転がり込む。 「ここなら見つからないだろ。お前の兄貴の様子を見て、また音楽室まで走るぞ」 怜央くんの言葉にうなずいて、私は近くのイスに倒れ込んだ。 二人乗りの自転車をこいで体力を使ったあと、さらに全速力で走ったから、もうヘトヘト。 上半身を全部つかって、息をしてるみたい。  さすがに疲れたのかな。私に続いて、怜央くんも隣のイスに座った。  電気のついていない教室に、ふと静かな時間が流れる。 言うなら、今しかない。 そんな気持ちにかられて、私は口を開いた。 「あの、さっきの話なんだけど……」 「さっきって?」 「ほら、自転車こぎながら教えてくれたでしょ。田舎に住んでた時のこと」  自分がいじめられていた頃の記憶なんて、思い出したくもないはず。  人に話すなんて、なおさら嫌だったんじゃないかな。 私に言わなくたって、別に怜央くんは困らなかったと思う。  それでも、話してくれた。  もしかしたら、ただの気まぐれだったのかもしれない。  でも、いろんなコンクールで賞をとった輝かしい過去じゃなくて、自分が苦しかった時のことを素直に話してくれたことが、私は嬉しかった。 「もし怜央くんが言ってくれなかったら、私、田舎はいいところだって、信じ込んでたと思う。都会のほうが気が楽な人もいるなんて、全然気づかなかった。私は物心ついた時からずっと田舎で暮らしてきて、その世界しか知らなかったから。怜央くんのおかげで、都会を好きな人の気持ちがわかったよ。初めて、都会もいいなって思えた。正直に話してくれて、ありがとう」  今までは、ずっと気持ちがすれ違ってたけど。  怜央くんのおかげで、向き合えた気がする。  だからせめて、「ありがとう」っていうこの気持ちが、怜央くんに伝わるといいな。 そう思って顔を上げると、私を真っ直ぐに見つめる瞳と目があった。 「それはオレも同じだ」 「え?」 「今まで、いなかもんは嫌なヤツばっかりだと思ってた。オレをいじめるヤツ、無視するヤツ、助けようともしないヤツ。子どもも大人も、みんな嫌いだった。でも、いなかもんの中にも、いいヤツはいるんだな。楽器を忘れたオレのために、自転車を飛ばしてくれるようなヤツが」  キラキラと埃が舞う静かな教室の中で、怜央くんの瞳が、陽の光を受けて輝いた。 「同じいなかもんでも、みんながみんな悪いヤツじゃないって教えてくれたのは、他でもないお前だ。今までひどいこと言ってごめん。今さらだけど、毎日嫌味ばっかり言ってたこと、後悔してる」 「そんなこと言わないでよ。なんだか調子がくるっちゃう。私、怜央くんに言われたこと、全然気にしてないよ」 「ウソつくなよ、本当は傷ついてたくせに」 心の中まで見透かされるような視線を向けられて、私は逃げるようにうつむいた。 だって、怜央くんに嫌味を言われるたびに、悲しい気持ちが降り積もっていたのは本当だから。 ああ、また、静かになっちゃった。 何か言わなきゃって、思えば思うほど、くちびるがこわばる。  私が押し黙っていると、空から落ちてきた一粒の雨のように、怜央くんがぽつりと言った。 「怖かったんだよ」 「怖い? 私のことが?」 「いや、お前がっていうより、田舎で暮らしてるヤツが。何考えてるのかわからなくてさ。また急に、裏切られたりするんじゃないかって、心のどこかで思ってた。だから、いなかもんのお前をキツい言葉で遠ざけて、向き合うことから逃げてたんだ。オレはずっと、いなかもんを知ろうともしてなかった。でもちゃんと向き合えば、わかりあえることもある。今日、それがようやくわかったよ」 怜央くんはそう言って、私をまっすぐに見つめた。 きっとこれが、怜央くんの本音。 こんな表情を見たの、初めてかも。 「私は、裏切ったりしないよ」 「うん、知ってる。なんでもっと早く、気づかなかったんだろうな。初めて電車で会ったときから、お前のことずっと見てたのに」  突然、ドキッとすることを言われて、私は思わず目をそらした。  無自覚みたいだけど、かっこいい顔でそういうこと言うの、反則だよ。 「そ、そうだよ。もっと早く気づいてれば、お弁当箱をひっくり返すことも、イチゴを踏み潰すこともなかったのに」  慌てて、イジワルなこと言っちゃった。  でも、これくらい許されるよね。  お弁当がダメになっちゃったとき、息ができなくて苦しくなるくらい、悲しかったんだもん。  そう思って隣を見たら、怜央くんは想像以上にうなだれていた。 「あの雨の日だろ。オレ、ほんと最悪だったよな。あのあと、やりすぎたってマジで反省した。あれじゃ、オレをいじめてた田舎のやつらと同じだ」 「怜央くんはちゃんと謝ってくれたから、同じじゃないよ。それにあのあと雅先輩が来てくれて、元気になったから大丈夫」 「え、雅が? お前、変なことされなかったか?」 「変なこと?」 「ほら、前にデートに行くとかなんとか言ってたじゃん」 「ああ、そういうことね。えーっと、好きとか、言ってたような……」 「はぁ⁉ なんだそれ!」  急に、怜央くんがイスから立ち上がって、私の肩につかみかかってきた。 「どういうことだよ、ちゃんと言えよ! 告白されたのか⁉」  ついさっきまで、うなだれてたのに。  強い力で肩を揺さぶられて、私は思わず顔を歪めた。 「ちょっと怜央くん、痛いよ。離して」 「嫌だ。絶対に離さない」  怜央くんの手に、ますます力が入る。 「お前、雅のこと好きなのか?」 「なんでそうなるの? 私は恋愛なんて興味ないし、雅先輩は私を元気付けようとして、冗談で言ってただけだよ」 「そんなんわかんねぇだろ! オレだって、お前のこと――」 そのとき、凛とした声が教室に響いた。 「そこのフルートバカ、手を離しなさい!」 廊下に目を向けると、見慣れたショートカットのシルエットが見えた。 「なずなが痛がってるでしょ」 「リラ!」 「お前っ、いつからそこに⁉」 「『ここなら見つからないだろ』から」 「最初から全部じゃん……」 リラは怜央くんを無視して教室のドアを開けると、堂々と中に入ってきた。 「もうすぐフルートのテストが始まるから、二人を呼んできてって先生に言われて、探してたの。すぐ見つけられたんだけど、面白そうだったから、ちょっと観察してたのよ」 「それは観察じゃなくて、覗き見って言うんだよ」  怜央くんはがっくりと肩を落として、イスに倒れ込んだ。 「ところで怜央、あなた勢いで告白しようとしてたでしょ? 私が止めてあげたからいいものの、あのまま告白してたら三流以下よ。まずこの場所。こんなホコリっぽい空き教室なんて最悪。せっかくオシャレな学校なんだから、屋上庭園とかテラスとか、もっとロマンチックな場所に行きなさいよ。それからタイミングも。テスト前で緊張してるときに告白するなんて、どういう神経してるの? 相手に迷惑でしょ。それとも、テストが終わるまで我慢できないお子ちゃまなのかしら」 「うるせぇな、オレにはオレのやり方があるんだよ」 「はっ、笑わせるわね。もっと宝塚を観て、女心と男気を学びなさいよ」 「宝塚なんて観たことねぇし、観る予定もないね」 「なんですって! 宝塚をバカにするやつは、宝塚に泣くのよ!」 えっと……。リラは、何を言ってるんだろう。  とりあえず宝塚は置いておいて。 たしか、怜央くんが好きなのはリラだったはず。  なのに、なんでここでケンカを始めちゃうかなぁ。 「だいたいね、なずなは鈍感なんだから、告白するならちゃんとシチュエーションを考えないとダメって、前にも言ったでしょ。もう忘れたの?」  え、私、そんなに鈍感? っていうか……。 ん? 私に告白? 「ちょ、ちょ、ちょっと待ってリラ。違うの。なんか誤解してるみたいだけど」 「誤解?」 「うん、怜央くんは別に私に告白しようとしてたわけじゃなくて、なんていうか、その、話すと長くなるんだけど……」 怜央くんが好きなのは、私じゃなくてリラだよ。  私はそれを遠回しに伝えるために、今の状況を簡単に説明した。 リラに自転車を借りた後、お兄ちゃんに追いかけられて、今は隠れてて、それでたまたま二人きりなだけ。  だって、怜央くんが好きなのはリラだから。  私は、怜央くんとリラの恋を応援するんだから。 そのシナリオを、壊すわけにはいかない。  でも、リラから返ってきたのは、意外な言葉だった。 「なんかよくわからないけど、誤解してるのはなずなのほうよ」  私が、誤解?  過去をざっと振り返っても、何も思い当たらない。  そんな私の気持ちを察したのか、リラは苦笑して言った。 「ま、誤解するのも無理ないわね。なずなが田舎の出身だってわかってから、怜央は告白するどころか、毎日嫌味のオンパレードだったし。でも、気に食わない一面があるからって、あんなに言うことないのにね。フルートがあればどんな恋の歌も完璧に演奏できるのに、好きな女の子には褒め言葉ひとつ言えないなんて、どうかしてるわ」  リラの冷たい視線が、怜央くんに突き刺さる。  怜央くんは負けじと「音楽と現実は違うんだよ」と小声で反論したけど、鉄のように気が強いリラには、全く効かなかった。 「とにかく、怜央の気持ちは初めて会ったときから変わってないはずよ。私、怜央から恋愛相談を受けてたから、全部知ってるの」 「恋愛相談?」  そんな話、初めて聞いた。  一体、どういうこと?  私の頭の中が、クエスチョンマークでいっぱいになった。 「もう、ここまで言ったらわかるでしょ? 怜央はね、初めて電車で会ったときに一目惚れして、その後もずっとなずなのことが――――」 「それ以上言うな!」 怜央くんは突然大声を出して、リラの口を塞いだ。 ニワトリのとさかみたいに、顔が真っ赤になってる。 リラの最後の一言は、聞けなかったけど。 電車で一目惚れって、もしかして……。 そう思った時、バタバタとせわしなく走る音が、廊下から聞こえた。 リラが廊下側の窓を開けて、外を見る。 「あ、春野先生だ」  その言葉を聞いた瞬間、怜央くんは掃除道具入れの横の隙間に私を押し込み、自分も隠れた。  わわっ、怜央くんの顔が近い。 なるべく音を出さないようにって、必死で息をとめてるけど。 心臓の音が、外に聞こえちゃいそうなくらいうるさいよ。 「もし先生がこっちに来たら、ここにはいないって言え」 怜央くんの一言で状況を察したリラは、「任せて」とばかりにグーサインを出した。  足音の主が、猛スピードで廊下を突っ走ってくる。 廊下は走らない、なんて張り紙はまるで無視。 妹のためなら全てを投げ出す、こんな走り方をするのは、お兄ちゃんしかいない。 そう思った直後、荒い息とともに、お兄ちゃんの声が聞こえた。 「お前は確か、なずなのクラスメイトだよな。この辺りで涼城怜央となずなを見なかったか?」  私と怜央くんには、お兄ちゃんの姿は見えない。  リラがとぼけている姿だけが、かろうじて見えた。 「ああ、その二人なら、あっちに走っていきましたけど」 リラはしれっと、音楽室と逆の方向を指さした。 「あっちか! 逆の方向に行くところだった。ありがとな!」  お兄ちゃん、リラの言葉をそのまま信じたみたい。  リラが指さした方向に向かって、バタバタと走り去る音が聞こえた。  良かった、これで安心して音楽室に行ける。  リラはお兄ちゃんの姿が見えなくなるのを確認してから、私たちに目を向けた。 「じゃ、私はもう行くわ。恋もテストも、頑張ってね!」  最後に一言付け加えて、リラは音楽室のほうへ軽い足取りで帰って行った。 「ったく、あいつ、一言余計なんだよ」 狭い空間に二人でぎゅっと縮まって隠れているのもあって、どことなく気まずい。 横目で怜央くんを見ると、耳まで赤くして、私から視線をそらしていた。 これから、大事なテストなのに。 そんな顔されたら、どんなに簡単な曲でも、間違えちゃいそうだよ。 16 廊下にも、窓の外にもお兄ちゃんの姿が見えないのを確認してから、私と怜央くんは大急ぎで校舎を駆け抜けて、音楽室の方へと走った。 今、誰がテストを受けてるんだろう。 心配になって、すれ違った生徒に聞いてみたら、今はクラリネットの生徒だって。 たしか、クラリネットの次がサックスで、最後がフルートだったはず。 それなら十分間に合う。 少しだけなら、練習する時間も作れるかも。 あとはとにかく、急いで準備するだけ! 音楽準備室に着くと、私と怜央くんはガチャガチャと慌ただしく音をたててカギを開けた。 「間に合いそうで、よかったね」 「そ、そうだな……」 普通に話しかけたつもりなんだけど、なんだかぎこちない会話になっちゃった。 本当は、リラが言ってたことについて、怜央くんに聞いてみたい。 でも、まずはテストを突破しなきゃ。 集中、集中、って自分に言い聞かせながら、自分のフルートを組み立てる。 変な汗がにじんで手が滑ったけど、なんとか準備完了! ……と思ったら、隣にいた怜央くんが「あのさ」と小さくつぶやいた。  怜央くんは、まだフルートのケースを開けてもいない。  じっとケースを見つめてる。テストまで、あんまり時間ないのに。 「どうしたの?」  声をかけると、怜央くんは顔をあげて、真っ直ぐに私を見た。 「中間テストが終わったら、少しでいいからオレに時間をくれよ」 「なんで?」 「なんでって……。さっきリラが言ってたこと、ちゃんとオレの口から伝えたいから」  リラが言ってたことって……。  もしかして、怜央くんが私を好き(かもしれない)ってこと?  ってことは、もしかしてもしかすると、告白ってこと⁉ 「無理、無理、無理! 伝えられても困る!」 「なんでだよ!」 「だって、なんて返事したらいいかわからないんだもん。私、今はフルートのことで頭いっぱいだし、恋愛とかする余裕ない!」 「待て、今ここでオレを振るな! 返事はしなくていいから。オレの気持ちを聞くだけでいい。お前は、何も言わなくていいから」 「ほ、ほんとに……?」 「本当だよ。恋愛より何より、今はフルートが大事なんだろ。わかってるよ。お前が誰より練習を頑張ってるのも、オレは知ってるし。ただ、オレが本気だっていうことだけ、わかってほしいんだ」  夜空みたいにキレイな怜央くんの瞳に、熱い気持ちが宿ってる。  そんな目で見られたら、断れないよ。 「…………わかった」 「やった! じゃあ、来週月曜日の放課後な。場所は後で連絡するから、絶対来いよ」 「う、うん」  告白されるって思うと、怜央くんの顔をまともに見られない。  私の顔、多分、赤くなってるよね。 いま怜央くんを見たら、心が揺れちゃう気がする。 恋愛なんて興味ないって思ってたのに、なんでだろう。  胸のドキドキが、止まらない。 「先に、音楽室行くからっ!」 手元にあった楽譜をつかんで、私はその場から逃げた。 「ちょ、おい、待てよ! オレも行く!」 待つわけないよ。こんな顔、怜央くんには見せられないもん! 廊下で少し、頭を冷やさなきゃ。 そう思って、勢いよく音楽準備室から飛び出したら――。  ドンッ! 「わぁっ!」  思いっきり、人にぶつかっちゃった! 「ごっ、ごめんなさいっ」 「大丈夫ですよ。なずなさんこそ、お怪我はありませんか?」 「この声、紫貴先輩⁉」  顔を上げると、紫貴先輩が涼やかな笑顔で立っていた。 「自分から僕の胸に飛び込んできてくれるなんて、なずなさんは積極的ですね」 「飛び込んでません!」  って、慌てて訂正したけど、紫貴先輩の首元から漂うラベンダーの香りに包まれて、すぐ気持ちが落ち着いちゃった。  やっぱり、紫貴先輩は不思議な人だなぁ。 「ところで、怜央は準備にどれだけ時間をかければ気が済むのでしょうか。せっかく逃してあげたのに」  わわ、紫貴先輩、怖い顔! さっきまで笑ってたのがウソみたいに、冷たい表情になっちゃった。 でも、そりゃそうだよね。  テストに間に合わなかったら、紫貴先輩の助けがムダになっちゃうもん。  紫貴先輩は、まだ組み立て終わっていない怜央くんのフルートを見て、ため息をついた。 「試験まで、あと十五分もないんじゃないですか?」 「はいはい。相変わらず、紫貴は口うるせぇな」 「怜央がいつまでもガキっぽいからですよ。テストの前に、告白の予約をしている場合じゃないでしょう」 「オレの周りは、覗き見が好きなヤツばっかだな!」  怜央くんは顔を赤らめて、噛み付くように紫貴先輩をにらんだ。  覗き見ってことは……。  もしかして、さっきの会話、紫貴先輩も聞いてた⁉ 「オレが誰に告白しようと、お前には関係ないだろ!」 「ありますよ。相手がなずなさんならね」  紫貴先輩はそう言って、怜央くんに挑戦的な視線を向けた。 「最初はプリンセス候補として下見をするだけのつもりでしたけど。なずなさんを見ているうちに、気が変わったんです」 「……は? どういうことだよ」 「知りたいですか?」  紫貴先輩の顔に浮かんでいるのは、意味深な笑顔。  背筋がゾクッとするような怖さがあるのに、目が離せない。 「こういうことですよ」 吸い込まれそうな紫貴先輩の瞳を見ていたら、突然、ぐっと肩をつかまれた。 「わぁっ!」  先輩の腕は想像以上に力強くて、全然ほどけない。 ラベンダーの強い香りで、頭がクラクラする。  それでもなんとか抜け出そうとして、ジタバタもがいてたら、整った顔が急に目の前に迫ってきた。  もしかして、このままキスされる⁉  止めなきゃって思ってるのに、体が動かない。  私は怖くなって、ぎゅうっと目をつぶった。 「ふふっ、キスされると思いましたか?」 「え?」  顔を上げると、額に優しいキスが降ってきた。  まるで、風に舞い踊る桜の花びらが、そっと触れたような。 「僕、好きな女の子にはイジワルしたくなるんですけど、さすがに、突然口にキスしたりしませんよ。両思いになってからじゃないと、幸せな気持ちにはなれませんから」 「とか言って、途中まで本気で口にキスしようとしてただろ」 怜央くんが私と先輩を引き離し、私を守るように先輩との間に入った。 「えっ、そうなんですか?」 「さぁ、どうでしょう?」 紫貴先輩、口元は微笑んでるけど、やっぱり目だけは笑ってなくて、獲物を狙う蛇みたい。 いつも丁寧な言葉遣いだし、女の子には優しい人だと思ってたのに。 こんな本性を隠してたなんて。 「とぼけんな! オレの目をごまかせると思うなよ」 「おやおや、姫君をかばって守るとは。怜央は本物の王子様みたいですね」 「紫貴こそ、もっとプリンスらしくふるまえよ。なずな、怖がってたじゃねぇか」 「でも、好きな人が他の男子に口説かれているのを聞いたら、男として黙っているわけにはいかないでしょう?」  二人の間に、目には見えない火花が散る。  私は居ても立っても居られなくなって、怜央くんに声をかけた。 「私なら、大丈夫だから。音楽室行こっ」  先輩と目を合わせないように下を向いて、逃げるようにその場を離れた。  私がこの学校に入学したのは、フルートを上手に吹けるようになりたかったから。 怜央くんに告白されても返事はしない予定だし、今も、これからも、恋愛なんてするつもりない。 それなのに。 「今度は、二人きりで会いましょうね」  すれ違いざま、紫貴先輩がささやくように言った一言が、耳にまとわりついて離れなくなった。  音楽室の扉の前に立っても、心は落ち着かなかった。 防音機能がついた音楽室の分厚いドアから、サックスの音色が漏れ聞こえてくる。 「悪い。オレが告白とか言わなければ、紫貴だって、あんなことしなかったかもしれないのに」 「ううん、怜央くんは悪くないよ」 「でも、怖かっただろ。大丈夫か?」 「大丈夫、だけど……」 私は、手の中にあるママのフルートを見つめた。 まさか、こんなモヤモヤした気持ちでテストを受けることになるなんて。 演奏に、集中できる気がしない。 このままじゃ、テストは過去最悪の点数になっちゃうかも。 パパとママとお兄ちゃんに、なんて言えばいいんだろ……。 「大丈夫なら、そんな暗い顔するなよ。ほら、今回の課題曲、モーツァルトの『恋とはどんなものかしら』だろ? 今のお前にぴったりじゃん」 「……ぴったり?」 「ああ。さっき『恋愛する余裕がない』って言ってたけど、お前どうせ、そもそも恋とかよくわからないんだろ? 曲のタイトルそのままじゃん」 「そ、そんなことっ……!」  って言ってみたけど、図星すぎて続きが何も出てこない。 「あれこれ考えずに、今の気持ちのまま思い切って吹いてみろよ」 「テストの直前に言われても困るよぉ」  思わず、泣きそうな声が出ちゃう。  だって、いま言われたってもう練習できないもん。  そういう大事なことは、もっと早く言ってくれないと。 「お前みたいに真面目なヤツは、直前に言われるくらいがちょうどいいんだよ。前もって言われたら、練習しすぎて、コンクリートみたいにガチガチに固めた演奏になるだろ」 「うっ……。そのとおりです」  なんでわかるんだろ。 今まで、それで何度も失敗してきたってこと。 「こういう曲は、水に絵具を一滴おとしたときみたいに、音に気持ちを溶かして吹くんだよ。そうすれば自然に、曲と自分がシンクロする。お前の場合、基礎はしっかり身についてるし、暗譜も指づかいも完璧だからミスする心配もない。あとは力を抜いて、気持ちを音にのせるだけだ」  初めて聞く、怜央くんの真剣なアドバイス。  フルートの先生や、ママのレッスンを受けたことは何度もある。 でも、こんなふうに言われたのは初めてだった。 「ずっと一緒にレッスンを受けてきたオレが言うんだから、間違いない。オレを信じろ」 怜央くんの言葉は、まるで太陽の光みたいに、まっすぐ私の心に届いた。  不安な気持ちがすうっと消えて、心のなかのモヤモヤが晴れていく。 「わかった。やってみる」 試験を終えたサックスの生徒たちが、音楽室から出てきた。 次はいよいよ、フルートの番。 おまじないのように、私は怜央くんに向かってつぶやいた。 「一緒に、頑張ろうね」  怜央くんと私は、ライバルなのかもしれない。  でも、せっかく出会えたフルートの仲間だもん。  私は、二人で一緒に頑張っていく道を選びたい。 「なずなとオレなら、余裕だよ」 フルートを手に、怜央くんは勝ち気な笑みを見せた。 初めて会ったときとは少し違う、自信に充ちあふれている笑顔。 なんでかわからないけど、今なら、二人ともうまくいく気がする。  怜央くんがぐっと力を込めて、音楽室のドアを開けた。 「失礼します」 窓から夏の光が降り注ぐ音楽室が、かがやくステージに見えた。 私はもう、一人じゃない。 一緒に音楽を楽しむ、友達がいる。 並んでフルートを奏でる、仲間がいる。 怜央くんが隣にいてくれたら、それだけで、最高の演奏ができる気がするんだ。 終わり
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