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乃木希典殉死
明治天皇が崩御すると、主君に殉ずる武士道の流儀を固守し、乃木は殉死した。
夫人・静子も胸を突き乃木の後を追ったが、遺書には死後のことで不明な点は静子に聞くよう記されていた。遺書を書いた時点では静子が自分と共に死ぬことを想定していなかったようだ。
自刃の前に乃木に共に死ぬことを訴えたのか、死を見届けてから自刃したのか、あるいは乃木に手を借りて先に死んだのか、誰も知らない。
そんな乃木は自決するまで、流刑になった敵将ステッセルの家族に生活費を送り続けていた。
殉死を遂げる日の朝の乃木希典と静子
1912(大正元)年9月13日午後8時。明治天皇のご遺体を乗せた車が宮城を出発。合図の号砲が放たれると、ふたりは自刃した。
もっと早くに割腹自殺を遂げただろう乃木を止めたのは、「朕が死んでからにせよ」という明治天皇の言葉だった。多くの兵を二〇三高地に散らせたことを悔やみ続けた男の死だった。
写真のために立っているのか、それともこれが常なのか、傍らに立つ静子夫人が気になる。この日はふたりとも終始にこやかだったという。
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