31人が本棚に入れています
本棚に追加
世界恐慌
関東大震災後の、1927(昭和2)年「昭和金融恐慌」が起きた。預金の取りつけ騒ぎが起こり、お金が回らなくなった銀行は休業に追い込まれるほどだった。商社の倒産も起きて、経済は混乱に陥った。
さらに、1929年(昭和4)年10月24日、アメリカ金融の中心地、ウォール街のニューヨーク証券取引所の株価大暴落をきっかけに、「暗黒の木曜日」と呼ばれる世界的な経済恐慌が起こった。
翌1930年から1931年にかけて、「昭和恐慌」と呼ばれる危機的な状況が日本経済を襲った。金本位制による金解禁と、世界恐慌による影響で起きたデフレだった。金本位制施行後、日本は金の価値を世界基準より低くしてしまったため、海外に金がどんどん流出していくことになった。
企業の倒産が相次ぎ、街は仕事を失った人たちであふれた。この恐慌は農業にも影響を及ぼし、輸出品だった東北の生糸の値が3分の1、コメも半値に暴落。これに追い打ちをかけるように、東北大凶作に見舞われたのだった。
昼食の弁当を持参できない欠食児童が出た。親の借金の身代わりに、幼い娘を都会に働きに出すようなことが起こった。その挙句に身売りする女性まで現れ、一家離散の深刻な事態になっていった。
東北地方を中心に農家の困窮は深刻化し、青森県では1931(昭和6)年の凶作でこの年の欠食児童は3235人を数えたといわれる。身売りが一番酷かった昭和9年には秋田だけで1万1182人の未成年者が身売りされていた。
深刻な不況はその後も続き、1934(昭和9)年12月2日付の朝日新聞は、ある農家の話として次のように報じている。
「家は借金のかたに取られて近所の家に同居していたが、14の娘を名古屋市賑町の娼妓屋に売った金でこの家を買ったのだ。
身代金は5ヵ年契約で450円だったが、そのうち100円は一本(一人前)になってから渡すとのことで、娘の着物代にといって50円、周旋料だといってブローカーに22円50銭を取られ、結局残ったのは僅か150円だった。
そのうち70円の借金を支払い、40円で家を買うと残る40円はなんということなしに消えてしまった」
県では「娘を売らぬように」と注意を促したが、結局この年、県下から芸娼妓に売られていったものは7083人。うち娼妓に売られたものは、1931(昭和6)年時の3倍にも達したといわれる。
厳しい経済情勢のなか、国外の市場を確保しようとする財界の要望と、軍部の大陸進攻の画策が結びついた。
日露戦争後に、鉄道や炭鉱の権益を獲得した「満州」に関東軍をおいていた日本は、当時発展しつつあった重化学工業の資源となる鉄を確保するために、満州を重視していた。不況に喘ぎ人口が増加していた日本にとって、満州は移民先としても重視されていた。
蒋介石率いる中国「国民政府」によって、満州の権益が脅かされるのではないかと危機感を抱いた関東軍は、作戦主任参謀・石原莞爾を中心に行動を起こしたのだった。
最初のコメントを投稿しよう!