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「張作霖爆殺事件」の謎
1931年(昭和6)9月18日、奉天郊外の柳条湖で、南満州鉄道の守備隊である「関東軍」が線路を爆破。それを中国軍の行為だと主張し、軍事行動を開始したのが「満州事変」だった。
日露戦争で手にした満州や内蒙古の権益が、中華民国に奪われることに強い危機感を抱いたからだった。
日露戦争の講和条約〈ポーツマス条約〉
○ロシアは日本が韓国を指導・監督することを認めること
○ロシアが清国から借りていた旅順・大連やその近辺の鉄道の利権を日本に譲渡すること
○ロシアはサハリン(樺太)の南側(北緯50度以南)を日本に譲渡すること
○ロシアは北方での日本の漁業権を認めること
「柳条湖事件」は満州事変へと発展し、翌1932年2月、関東軍は全満州を占領した。
翌3月には、清国最後の皇帝・愛新覚羅溥儀を担ぎ出し「満州国」を建国した。さらに勢力範囲を広げようと中国の都市を次々と占領し「日中戦争」が起こった。
「東京駅で出迎える昭和天皇(左)と溥儀」
当初は満州事変に怒りを見せた蒋介石だったが、動こうとはしなかった。毛沢東が率いる「中国共産党」と争っていたからだ。
蒋介石にとっては共産党軍の方が深刻で、日本が引き起こした満州事件はそれほど大きな問題と捉えていなかったのだ。
ここは「中国共産党」を倒すことを優先し、満州での日本のことはそれから対処すれば良いとの判断だった。蒋介石は日本との関係維持も大切に考えていた。
そんな蒋介石にとって大きな転機となったのが、1936年の「西安事件」と呼ばれる蒋介石の拉致監禁事件だった。中華民国のトップが拉致監禁されるという中国近代史上の一大事件だった。
「張学良と蒋介石」
監禁したのは張学良と楊虎城で、ともに中華民国の軍人だった。
1928年(昭和3)年、張学良は、父の遺志を継いで満州軍閥を継承し、翌7月にはそれまで対立していた蔣介石との提携を表明した。
張学良がそれまでの満州軍閥の旗に代えて中華民国の国旗である青天白日旗をかかげたことを「易幟」といい、中華民国による中国統一が完成したことを意味している。
張作霖が国民党軍の北伐に敗れて満州にもどる途中、列車を爆破されて死亡した。張学良は、父が日本の関東軍に殺害されたため、日本を酷く嫌っていた。
張学良は中国共産党と協力して日本を倒すべきと考え、蒋介石とは相容れなかった。
共産党の周恩来を挟み、蒋介石に共産党の「討伐停止」などを含む8項目の要求を飲ませたことにより国共内戦は停止。敵対していた国民党と中国共産党が手を組むことになった。
張学良の父・張作霖は、日露戦争では日本軍の別働隊として暗躍した人物である。日本の後援を受けて軍閥として成長し、日本もまた彼を利用して東北に進出しようとした。その点で両者は互いに利用しあう関係にあった。
戦後の東京裁判などの過程で、この事件は日本の関東軍の河本大作参謀が中心になって実行された犯行であると明らかになった。
しかし張作霖爆殺事件の当時、現地で調査を行なった日本軍や外交筋の報告書でも、関東軍が列車を爆破したことにはなっていなかった。
「張作霖爆殺事件」
では、「張作霖爆殺事件」は誰がやったのか。
当時、イギリス側では爆薬まで分析していて、それがソ連製であることをつかんでいた。
当時はイギリスの諜報員も数多くシナに入り込んでいたから、飛散した爆弾の破片を分析してソ連製の爆弾だと踏んだのだ。
張作霖は北京から京奉線の列車に乗り、目的地の奉天近郊まで来たとき、高架橋の付近で爆発が起き、殺害されたのだった。
「天井が爆破された列車」
通説では、河本大作大佐が、高架橋の先の線路脇に爆薬を設置して爆殺したとされている。だが、同事件の現場検証の写真をよく見ると、壊れているのは張作霖が乗っていた特別列車の天井であり、線路は爆破されていないのである。
イギリスの公文書館にも事件の写真が数多く残っていて、いずれも線路の爆破ではないことを証明しているという。「張作霖爆殺事件」は、ソ連赤軍特務機関による犯行の可能性がある。
こうしたいきさつで誕生したのが「抗日民族統一戦線」だった。以後日本と中国の関係は悪化の道を辿っていき、中国の国内では日本人が殺害される事件が相次いだ。
そんな緊迫した状況の中、1937年に日中戦争勃発を引き起こす大きな事件が起こった。
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