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仕組まれた「盧溝橋事件」
日中戦争の引き金となったのが、1937(昭和12)年7月7日の「盧溝橋事件」だった。その日、北京の近くの盧溝橋付近では、日本軍が軍事演習を行っていた。
そこに聞こえてきたのが中華民国軍の銃声。演習中の日本軍に対して攻撃してきたのだった。
日本軍は安全確認のため直ちに点呼を取るが、そこで一人が行方不明になっていることに気づいた。もっとも、行方不明になった者は単にトイレに行っていただけだったのだが、それが判明するのは後のこと。
中国軍の攻撃によって兵士が行方不明になったと判断した日本軍は、中国軍と衝突して交戦状態になった。とはいえ、この銃撃戦は規模の大きな戦いにはならなかった。日中双方の代表者が迅速に話し合い、数日後には停戦が成立したからである。
「盧溝橋事件」に関しては、おかしな点がいくつかある。日本側は銃撃を受けたとしているが、中国軍は日本軍が発砲したと主張している。
どちらかが嘘をついている。しかし、どちらにも嘘がなかったとしたら……。
当時日本軍は、盧溝橋の近くで夜間演習を行っていた。演習については7月4日夜、中華民国側に通知済みだった。7日の夜、日本軍は暗闇から不意に銃撃を受けた。
付近に、蒋介石の中国・国民党軍も駐屯していたため、日本軍はその銃撃を国民党軍によるものと思い込み、それをきっかけに武力衝突に発展した。
中国の現政権は日本軍による先制攻撃だったと主張しているが、日本軍が最初に銃撃を受けたとき、つまり演習の際には、日本軍の実弾はすぐに使える状態ではなかったのである。
ところが国民党軍も同じように発砲を受けている。国民党軍は国民党軍で、日本軍から銃撃を受けたと思い込んだのだ。
やがて両軍は交戦状態に入ったものの、そのうち双方とも腑に落ちない点があり、4日後に停戦協定を結び事件不拡大方針で臨んだ。あくまで治安維持が目的の日本は、現地ですぐに停戦協定を結んだ。日本軍は中国との全面戦争など望んではいなかったからだ。
日本軍・国民党軍双方に銃撃を加え、両軍を戦わせるように仕向けたのは「中国共産党」だった、と考えれば辻褄が合うのだ。
共産党の工作員が、盧溝橋付近に駐屯していた日本軍・国民党両軍に発砲し、両軍が戦いを始めるように仕掛けた。
関東軍がすぐに発砲できなかった理由ははっきりしている。空砲の他に万が一の場合に備えて各自実砲30発を携帯していたが、実砲は厳重に包装され、間違っても使用できない状態になっていた。木綿糸がグルグルと巻いてあったという。
空砲による演習は中国側に予告する必要はなかったが、中国側の特別の要望により、当日の夜間演習は通告してあった。
橋本群・陸軍中将(駐屯軍参謀長)も「実弾を持たずに発砲された為、応戦出来ず、非常に危険な状況に置かれた」と証言している。兵士は鉄兜さえ携行せず、耳あての付いた防寒帽子だったのだ。
「盧溝橋事件」の直後、共産党は「対日全面抗戦」を呼び掛けている。これはお膳立てが良すぎる。まるで「盧溝橋事件」が起きることを知っていたかの様な手際の良さだった。
兵士宛てのビラには、「盧溝橋事件は、わが優秀なる劉少奇(第2代中華人民共和国主席)同志の指示によって行われたものである」と謳われていた。劉少奇本人も自慢げに語っていたという。
話し合いの停戦で事態は収束したはずだったが、日本政府は現地に増援部隊を派遣、中国も国民党と中国共産党が協力して、徹底抗戦の声明を表明した。こうして「志那事変」(日中戦争)が始まった。
なぜ日本が「日中戦争」ではなく「志那事変」を用いたのかというと、1937(昭和12)年当時、中国には国際社会で正式に認められた公式な政府がなかったからである。
1912年に「孫文」が南京で樹立した中華民国臨時政府(南京政府)は日本が支援し 、蒋介石の個人独裁の「国民党政府」は米英が支援した。ソ連がバックについた共産党政府の3つ以外にも、冀東防共自治政府をはじめ、各地に自治政府が混在していた。
国家ですらない群雄割拠の内乱状態にあったのである。国家でないから、国家間の武力闘争を意味する「戦争」という用語は用いなかった。
1949(昭和24)年10月1日「中華人民共和国」成立のその日、周恩来首相も「あの時、我々の軍隊が日本軍・国民党軍双方に発砲し、両軍の相互不信をあおって停戦協定を妨害し、今日の我々の栄光をもたらした」と発言している。
では共産党はなぜそのような行為に及んだのか。当時、国民党に対して劣勢だった共産党は、何とか勢力回復を図りたいと考えていた。
そこで日本軍と国民党軍を戦わせて双方を疲弊させ、その隙に乗じて中国全土の支配権を獲得しようと目論んだ。狙いは的中し、最終的に共産党は国民党に勝利、「中華人民共和国」を成立させた。
盧溝橋事件の後も、日本は何度も和平を申し出たが、中国国民党に無視された。日本軍は共産党軍の謀略で、泥沼の日中戦争を戦わされたことになる。北京市郊外の盧溝橋近くには「中国人民抗日戦争記念館」が建ち、記念式典が行われる。
2014年7月7日、習近平国家主席はこう演説した。
「抗日戦争と反ファシスト戦争から70年近くなった今日、依然として少数の人々が侵略の歴史を否定、美化し、地域の緊張を引き起こしている」
「侵略の歴史を否定、歪曲、美化しようとする者を、中国人民と各国の人々は決して許さない」
これは故安倍晋三元総理に向けたものと思われる。
国内では急速に戦時体制が整えられ、軍人の召集はもとより労働者の軍事工場への徴用や衣料・食料など生活必需品の配給制の実施等々、国民あげての総力戦体制が強化されていった。
日中戦争の長期化する中で、ヨーロッパではポーランドに侵入したドイツ軍に対して、イギリス・フランスが宣戦を布告し、ドイツとソビエト連邦の間にも戦争が拡大して、第二次世界大戦へと発展した。
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