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ユダヤ人救出
1940(昭和15)年、リトアニアの「日本国総領事館」に赴任していた「杉原千畝」が、多くのユダヤ難民を救出した逸話は「東洋のシンドラー」として国内外でも広く知られている。
杉原千畝が「命のビザ(通過査証)」を発行して救ったとされるユダヤ人は6,000人、ドイツ人実業界のオスカー・シンドラーは約1,200人。これよりはるかに上回るユダヤ人難民を救った日本軍人がいた。
「ワルシャワ・ゲットー蜂起に参加したユダヤ市民たち」
画像は、捕らえられ、ナチの部隊によって街の外へと歩かされているユダヤの人たち。ポーランド・ワルシャワ、1943年4月19日
第二次世界大戦がはじまり、東ヨーロッパの諸都市がドイツ軍に占領されると、それらの都市で暮らすユダヤ人たちはゲットー(ユダヤ人隔離地域)に隔離されるようになった。
しかし1942年から1943年にかけてナチス親衛隊は「ラインハルト作戦」を開始し、ゲットーのユダヤ人たちを続々と絶滅収容所に移送するようになった。
ラインハルト作戦とは、ナチス・ドイツが第二次大戦中に執行したユダヤ人大量虐殺作戦。ポーランドなど東ヨーロッパのゲットーを解体し、そこで暮らすユダヤ人を三大絶滅収容所(ベウジェツ強制収容所、ソビボル強制収容所、トレブリンカ強制収容所)へ移送して殺害する、ホロコーストの一環である絶滅計画である。
ワルシャワ・ゲットーでも過酷な移送作戦が行われ、数多くのユダヤ人がトレブリンカ絶滅収容所へ移送されて殺害された。
杉浦千畝の救出劇から遡ること2年以上前、およそ2万人ものユダヤ人を大量虐殺から救出した人物がいた。
その男の名前は、陸軍中将「樋口季一郞」。
樋口中将が満州国ハルビン特務機関長だった、1938(昭和13)年3月のことである。
「強制収容所の状況・ウィーナーホロコースト図書館コレクション」
ナチス・ドイツの迫害から逃れるために、シベリア鉄道でソ連を通過して避難してきたユダヤ人難民たちがいた。
彼らが、ソ連・満州国境のソ連領オトポール(現・ザバイカリスク)で立ち往生しているという一報が、樋口中将のもとに届けられた。
ドイツから脱出したユダヤ人難民たちは、当初はポーランドを目指した。しかし、ポーランド政府はナチス・ドイツに配慮して、彼らの受け入れを拒んだ。欧米はユダヤ人難民に冷淡だった。
「ウラジオストク特務機関員時代の樋口中将(前列右端)」
次にユダヤ人たちが向かったのがソ連だった。ロシア極東部の都市、ハバロフスク西方のアムール川の沿岸には、ユダヤ人対策として独裁者スターリンが設立したユダヤ人自治区があった。このことから、ソ連はシベリア開発の労働力としてユダヤ人の入国を許可した。
ところが、同自治区は、もともと中国や日本の攻撃からの緩衝地域として、ユダヤ人を選別、追放するための拠点として設立した場所であり、流浪の民ユダヤの人たちにとって、安住の地ではなかった。
もともと欧州の都市生活者だったユダヤ人難民たちは、シベリアでの農業には不向きだった。
ソ連は、ユダヤ人難民たちが労働者として不適当だと判明すると、彼らの受け入れを拒否するどころか、以前からユダヤ人自治区などで暮らしていた国内のユダヤ人も合わせて追放した。
「ソ連のヨシフ・スターリン」
行き場を失くしたユダヤ人難民たちが、次に向かったのが、日本が建国した「満州国」だった。彼らは日本滞在のビザを持っていなかったため、ウラジオストクから日本に渡ることができなかった。
ユダヤ人難民たちは、オトポール駅の周辺の原野にテントを張り、バラックを建てて極寒の窮乏生活を強いられるなかで、助けを求めていた。身の回りの物だけを持ってようやくたどりついた難民たちだった。
「アンネ・フランク」
1944年8月4日にナチス親衛隊(SS)に隠れ家を発見され、全員が強制収容所へと移送された。姉のマルゴット・フランクとともにベルゲン・ベルゼン強制収容所へ移送された。
同収容所の不衛生な環境に耐え抜くことはできず、発疹チフスを罹患して15歳にしてその命を落とした。1945年3月上旬ごろのことと見られている。
ホロコーストでは、ナチス・ドイツによってユダヤ人やロマ族(ジプシー)など600万人以上が殺害された。
「ハンナ・ブレイディ」
2000年、アウシュヴィッツ博物館から展示品の一つとして、東京のNPO法人ホロコースト教育資料センターに届いたかばん。中身は空っぽ。かばんの表面にはドイツ語で大きく『ハンナ・ブレイディ 625 1931年5月15日生まれ 孤児』と書かれていた。
実物は1984年にイギリスで開かれる展示会に貸し出した際に火事で焼失した。
11歳の時から亡くなるまで2年間、テレジン強制収容所とアウシュビッツ強制収容所で過ごした。ハンナの兄、ジョージ・ブレイディは労働に耐えるとの判断で生き延びたが、13歳のハンナは殺害された。
ハンナが収容所へ連れて行かれるとき、自分がガス室で殺されることも知らず、兄のジョージに会えると、喜んで向かったという。このかばんに、きっといろんなものを詰めて。
オトポールは3月でも、朝晩は氷点下20度を下回る極寒の地だった。吹雪のなかで食料は尽き、飢餓と寒さのために凍死する人も続出した。ユダヤ難民の命は、危険な状態にさらされていたのだった。
ハルビン特務機関の機関長である樋口中将に、ユダヤ人難民たちの窮状を訴えたのが、極東ユダヤ人協会の会長で、ハルビン市内で総合病院を経営する内科医のアブラハム・カウフマン博士だった。
1937年8月にハルビンに赴任した樋口中将が、同年12月にハルビンで開催された第一回極東ユダヤ人大会で、ユダヤ人を迫害するナチス・ドイツを非難するスピーチをして以来、樋口中将とカウフマン博士は良好な関係にあった。
カウフマンは医師としても評判が高く、ハルビンの日本人やロシア人のあいだでも著名な人物だった。ハルビンでユダヤ人関連の問題が起きたときには、日本側から意見を求められるなど、カウフマン博士は、ハルビンのユダヤ人社会と日本との貴重な接点だった。
ユダヤ人難民は、ドイツ国籍であれば上海へのトランジットが可能だったが、ドイツと日本の両国に「忖度」した満州国外交部は、オトポールで立ち往生しているユダヤ人難民に対する入国ビザを発給しなかったのだ。
当時の日本は、全面戦争に突入していた日中戦争の解決の糸口を見出せず、和平交渉の仲介役を秘かにドイツに依頼し、前年1937年11月ごろから、東京のドイツ大使館と外務省が折衝を進めていた。
ドイツに期待をかけていた日本は、ドイツの国策に反する態度を明らかにすることはできなかった。
ドイツの顔色をうかがう満州国外交部は、独立国としての自主性を失っていた。ユダヤ人難民の救援に動く可能性は低いように思えた。
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