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樋口中将の決断
保身と怠慢で、助けを求める多くの難民を見殺しにすれば、日本は世界に恥をさらし、忘恩の徒になるだろう。樋口中将は苦悩し、熟慮を重ねた末に、難民の受け入れを決断した。
樋口は、1919(大正8)年に特務機関員として赴任したウラジオストクでロシア系ユダヤ人の家に下宿した。ユダヤ人の若者と毎晩語り明かして親交を深め、ユダヤ問題を知った。
ワルシャワ駐在陸軍武官として1925(大正14)年から赴任したポーランドでは、人口の3分の1を占めたユダヤ人が差別と迫害を受けるという、流浪の民族の悲哀を垣間見た。1937(昭和12)年にドイツに短期駐在して、ナチスの反ユダヤ主義に強い疑念を抱いたこともあった。
差別意識のある戦前の欧州では、アジア人に家を貸すのはユダヤ人であった。彼らが困っているのを助けるのは当然と考えたのだ。
「ワルシャワ駐在時代の樋口中将(前列右端)」
そして、ポーランドとソ連のように臨時の特別ビザを発給するよう、下村信貞を電話で説得した。
「満州国は独立国家である。関東軍への気兼ねも、ドイツへの遠慮も無用である。一緒になってユダヤ人を排撃する必要は毛頭ない。国境の寒さは厳しい。一日延ばせば難民の生命が重大問題となる。一刻も早く入国を決断していただきたい」
満州国外交部参事官でハルビン駐在だった下村信貞は、東京帝国大学卒業の若手外交官で、樋口とは面識があった。終戦時には満州国外交部次長を務めた人物だったが、戦後シベリアに抑留されて客死した。
下村は樋口中将の要請を受け入れ、外交上の手続きを始めた。極東ユダヤ人協会会長のカウフマン博士にも、食料や衣服の手配など難民受け入れの準備を進めるように伝えた。
また、樋口中将と陸軍士官学校同期の盟友で、大連特務機関長だった安江仙弘中佐も、ユダヤ人協会や南満州鉄道などと実務的な折衝を進めた。安江はのちに大佐となる。
「安江仙弘大佐」
直属の部下であった河村愛三少佐らとともに、即日ユダヤ人への食事と衣類・燃料の配給を行い、満州国の通過を認めさせたのだった。
樋口中将のユダヤ難民救済は、陸軍内での失脚を覚悟しての決断だった。
当時まだ4歳の樋口の四女・智恵子はこんな記憶を有していたそうである。
「母が『お父様がクビになる。日本に帰ることになるかもしれない』などと口にしながら、荷物を整理していた姿を覚えています。
今から思えば、その頃がユダヤ難民の事件が起きていた時だったのかもしれません(中略)。私が救出劇のことを知ったのは、戦後ずっと経ってからのことです」
1938年、樋口季一郎中将が陸軍内での地位を失う覚悟で行ったユダヤ人の救済について、ドイツから抗議を受けた。
「日独防共協定」を結んでいたドイツのリッペントロップ外相から、オットー駐日大使を通じて「ドイツ国家と総統の理想に対する妨害行為だ。日独国交に及ぼす影響少なからん」と、樋口の処分を要求する公式の抗議書が日本政府へ届けられたのだ。
「植田謙吉大将」
それを受けて、外務省・陸軍省・関東軍内でも、樋口中将の「暴走」に対する批判が上がった。
それを十分に覚悟していた樋口中将は、満州国の首都だった新京(現・長春)にある関東軍司令官である植田謙吉大将に、書簡を送った。
『小官は小官のとった行為を、けっして間違ったものでないと信じるものです。満州国は日本の属国でもないし、いわんやドイツの属国でもない筈である。法治国家として、当然とるべきことをしたにすぎない。
たとえドイツが日本の盟邦であり、ユダ民族抹殺がドイツの国策であっても、人道に反するドイツの処置に屈するわけにはいかない』
「新京の関東軍総司令部」
この書簡がふたたび論争の火種となり、関東軍司令部から樋口中将に出頭命令が来た。樋口は、呼び出された満州国参謀本部参謀長の「東条英機」中将に、こう主張した。
「ドイツのユダヤ人迫害という国策は、人道上の敵であり、日本満州の両国がこれに協力すれば人倫の道に外れることになります。参謀長、ヒトラーのお先棒をかついで弱い者いじめをすることを正しいと思われますか」
東条中将は、樋口中将にとって陸軍士官学校の四期先輩にあたる。
樋口中将は、前年1937年7月7日に発生した盧溝橋事件以来、日中戦争を泥沼化させていた東条派の「独走」を苦々しく感じていた。東条英機中将は、樋口の言葉を黙って聞いていた。
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