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東条英機の決断
東条英機中将は樋口中将の主張に耳を傾けていた。やがてその顔が上がり、まじまじと樋口を見た。言いたいことはそれだけか、そう問うているようにも見えた。樋口はべっ甲眼鏡の奥にある東条の目を見つめた。
その人懐っこい目が細くなった。樋口が声を発する前に、東条は小さくひとつ頷いた。
「東条英機」
日本は軍事同盟を結んだナチスの人種思想に同調しなかった。ドイツの抗議を「当然なる人道上の配慮によって行ったものだ」と一蹴したのだ。
本来が開戦派だった東条は、天皇の望みが戦争回避だと知ると、自身の意見を急転回させた。尊王の思いで手を尽くしたが、開戦の流れを変えることはできなかった。貧乏くじを引かされた愛国者と言えるかもしれない。
1943年(昭和18年)11月に、タイや中華民国を始めとする、アジア各国を集めた「大東亜会議」が行われた。
東條はここで、アジア各国を植民地とする欧米諸国を追い払い、各国の独立を支援して新たな政治的連合を築いていく「大東亜共同宣言」を発表した。植民地支配からの解放という正義の名のもとに、アメリカへの攻撃の正当性を訴えたのだった。
「大東亜会議」
極東国際軍事裁判(東京裁判)において、東条英機は一切の自己弁護は行わなかった。
「大東亜戦争は国益を侵されそうになったがゆえの自衛戦争であり、国際法には抵触していない。戦争は内閣や軍統帥部が決定したことであり、天皇陛下はやむなく同意されただけである。よってこの戦争の責任はすべて私一人にある」
裁判でも自己を顧みず、天皇を守ることに尽力した東条英機は、1948年12月23日、64歳にして絞首台の露と消えた。
「ベン・ブルース・ブレイクニー弁護士」
東京裁判において、敵国であったアメリカ人の弁護人が裁判の中で次の様に述べている。この口述は途中で日本語通訳が切断され、記録からも消された。
「キッド提督の死が真珠湾攻撃による殺人罪になるならば、我々は、広島に原爆を投下した者の名を挙げることができる。投下を計画した参謀長の名前も承知している。その国の元首の名前も承知している。
彼らは、殺人罪を意識していたか? してはいまい。我々もそう思う。それは彼らの戦闘行為が正義で、敵の行為が不正義だからではなく、戦争自体が犯罪ではないからである。
何の罪科でいかなる証拠で戦争による殺人が違法なのか。原爆を投下した者がいる。この投下を計画し、その実行を命じ、これを黙認したものがいる。その者達が裁いているのだ。
原子爆弾という国際法で禁止されている残虐な武器を使用して、多数の一般市民を殺した連合国が、捕虜虐待について日本の責任を問う資格があるはずはない」
「ベン・ブルース・ブレイクニー」
1978年(昭和53年)の秋季例大祭前日の10月17日。A級戦犯が合祀されて以来、天皇陛下は一度も靖国神社を参拝していない。1988年に靖国神社合祀(ごうし)に「不快感」を示した発言が明らかになったが、その胸の内は知りようもない。
「東条英機、判決の瞬間」
「death by hanging」の後、ヘッドフォンを外し一礼した。
樋口は陸軍から失脚することはなかった。それどころか、1938年(昭和13年)8月、参謀本部第二部(情報部)長に栄転した。
ユダヤ人が迫害を受けた歴史は、キリスト教の布教のころまで遡る。キリストの磔刑に関与したとされているため、ヨーロッパでは、キリスト教徒から多くの迫害を受けてきたのだ。
樋口は、自身の手掛けたユダヤ人救済の後事を、同期の盟友でユダヤ人問題専門家でもある安江仙弘大佐に託した。
大連特務機関長として、同年1月から満州に赴任していた安江大佐は、シベリア出兵を契機にユダヤ人問題の研究を始め、いわゆる陸軍きってのユダヤ通だった。
オトポール事件後も、この脱出路を頼るユダヤ人難民が満州に殺到したが、安江大佐はビザを発給させ上海まで脱出させた。
ユダヤ人を他の外国人と同様に扱う「猶太人対策要綱」を板垣征四郎陸相に進言したのも安江大佐だった。この板垣はのちの極東国際軍事裁判で、A級戦犯として絞首刑に処せられた。
1938年3月に樋口中将が開いた「ヒグチ・ルート」は、1941年6月22日にドイツ軍がソ連に侵攻し、独ソ戦が勃発するまで有効だったという。
「樋口中将」
その3年間、ヒグチ・ルートで救出されたユダヤ人難民の総数については、諸説あるが、ユダヤ民族に貢献した人を記した「ゴールデンブック」を永久保存する、イスラエルの団体・ユダヤ民族基金は、その総数を「2万人」としている。
2万人ものユダヤ難民を満州国に受け入れた樋口季一郎は「世界で最も公正な人物の一人」と称された。
松岡洋右も難民救済に協力していた。
樋口は、南満州鉄道株式会社の松岡総裁に電話をかけ、満州国や上海へ難民を輸送する特別列車を仕立てるよう要請した。
「国際連盟総会の松岡洋右」
松岡はこれを二つ返事で了解し、緊急に特別列車の満州国への入国と出動を命じた。満鉄は、対ソ戦に備えて常時数万の兵士を移動できる体制を整えていたのだ。
樋口季一郎中将に協力した東条英機と共に松岡洋右も、戦後A級戦犯として命を落とした。松岡洋右は、満州事変後の1932年にジュネーブで行われた国際連盟総会で、国連を脱退する演説を行い、1940年から近衛内閣の外相を務めて、日独伊三国同盟締結を主導した人物として知られている。
戦後、GHQの手によって松岡の著書は焚書になっている。昭和6年に発刊された書は、日本人の目に触れないようにされたのだ。国連を脱退し、戦争に突き進んだ男の書いた物なら、愚かしい内容であるはずだ。それがなぜ日本人に読まれるのが不都合だったのか……ここにGHQの策略がある。機会があれば書いてみたい。
焚書の書籍数は9288点に及び、菊池寛の小説「大衆明治史」も焚書になった。松岡洋右と菊池寛の著書は復刻されている。
彼らに比べ、アメリカ大統領のルーズベルトもトルーマンも、イギリスのチャーチルも、ユダヤ難民の入国を拒否している。ユダヤ人難民に門戸を開いたのは日本だけだった。
戦後、戦争加害の責任を一方的に押し付け、日本人にまんまと罪悪感を植え付けた「連合国最高司令官総司令部」(GHQ)にとって、もっとも知られたくない事実のひとつかもしれない。
「満州鉄道・アジア号」
「ハルビン~満州里」間は900キロもあり、1週間に客車と貨物車がそれぞれ1便ずつしか運行していなかったが、満鉄が特別に運賃無料で運行した。
1938年3月12日の夕方、ハルビン駅に満州里からの特別列車が到着した。列車からは、死の恐怖から解放され、疲れ切った難民たちが次々と降りて来た。
「大連・南満洲鉄道株式会社本社」
カウフマン博士はじめユダヤ人協会の幹部や医師が救護班に指示して、温かな飲み物や衣料を提供すると、多くの難民が涙をこぼした。
病人や凍傷患者は病院で手当てを受け、他の難民たちは全員、商工クラブや学校などに収容され、炊き出しを受けた。
その後、救出された難民の約8割は、上海を経由して米国などに渡った。残りの人たちは開拓農民として満州国に残り、ハルビン周辺に入植することになった。
樋口中将は、安江大佐に依頼して、彼ら入植者のために土地や住居の斡旋など、最大限の支援を最後まで行った。
安江仙弘大佐は、多くのユダヤ人難民を救った業績をほとんど知られることなく、過酷なシベリア抑留の果てに非業の死を遂げた。
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