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士魂部隊・北海道を死守
のちのことになるが、終戦翌日の1945年8月16日、大本営は各方面軍に対し、止むを得ない自衛のための戦闘行動以外、すべての戦闘行為を停止する命令を下した。
さらに、自衛のための戦闘行動も、8月18日午後4時までと期限が付けられた。
占守島は千島列島の最北端に位置し、ほとんどカムチャッカ半島に接した、周囲20キロメートルほどの小さな島である。高台にある四嶺山(標高171メートル)には日本軍の守備隊の本部が置かれていた。
全島でおよそ8,500の守備隊は、終戦の知らせを聞き安堵していた。
16日の夜には酒や羊羹等の備蓄食料が配られ、兵舎ではささやかな宴会が開かれた。
「これでやっと家族の元に帰れるな」
「故郷へ帰ったら何をしようか」
「占守島」
そんな状況が一変したのは18日未明だった。兵舎に非常呼集の声が響き渡った。
「敵が上陸した。戦闘準備にかかれ」
戦車第11連隊の兵士が乗り込んだ「97式中戦車」約20台が、敵兵が上陸した島北部を目指した。
戦車の装甲を貫通した弾に当たって負傷した兵や、動かなくなった戦車を降りて戦い、死亡した兵士もいた。家族の元へ戻れると喜んでいた兵士たちは次々と命を落とした。
戦争は終わったはずなのに、なにが起こったのか。日本が降伏した3日後の1945年(昭和20年)8月18日未明、夜陰に紛れたソ連軍が、北千島の占守島を奇襲攻撃、上陸したのだった。
第5方面軍司令官・樋口季一郞中将の元へも連絡が届き、樋口は現地の第91師団の堤不夾貴師団長に次のように命令を下した。
「断固、反撃に転じ、上陸軍を粉砕せよ」
陸軍きってのロシア通だった樋口は、ここで食い止めなければ、この機に乗じてどんどん攻め込んでくる、と考えたのだ。樋口ならではの判断だった。
「第5方面軍司令官として樺太兵団を視察した樋口中将(前列真ん中)昭和19年10月」
スターリンが狙っていたのは北方四島だけではなかった。千島列島をソ連領にし、さらには北海道も占領できると考えた。日本が降伏文書に署名する前に占領を終え、既成事実を作ろうとしたのだ。
ロシアに残されている当時の公文書によると、スターリンは対日参戦直前に「樺太南部、千島列島の解放だけでなく、北海道の北半分を占領せよ」と命じていた。
今現在も、四島は第二次世界大戦の結果、自国領になったと偽りの主張を繰り返すロシアらしい論理だ。
事実スターリンは16日、トルーマンに対して北海道北部の占領を要求し、南樺太にいた第八十七歩兵軍団に、北海道上陸のための船舶の用意を指示している。
●17日、千歳空港にB-29が飛来。
●18日、占守島にソ連軍が上陸開始。樋口中将、反撃を命じ日本軍が優勢に立つ。
樋口の打電を受けた大本営は、マニラのマッカーサーにソ連の停戦を要請。ソ連軍最高指導部はマッカーサーの要求を拒否。
トルーマンがソ連の北海道北部占領を拒否。
●22日、ソ連軍北海道北部占領作戦を中止。
●23日、占守島の日本軍が武装解除して降伏。兵士はシベリヤに抑留された。
「占守島に今なお残る、日本軍の97式中戦車の残骸」
装甲は最厚でも25mmしかなく、薄い箇所だと歩兵の銃でも射貫かれるほど脆弱だった。
スターリンは、あわよくば日本の半分を領土にしようとたくらんでいたと考えられる。占守島は小さいうえに日本軍は武装解除を始めている。一日で占領が完了すると高をくくっていた。
ところが、樋口季一郎中将の命により、日本の守備隊は武装解除を一旦停止、猛反撃を開始した。彼らはアリューシャン経由で来襲が予想された、アメリカ軍に備えていた兵だった。
池田大佐(戦死後少将)は戦車第11連隊隊長車に乗り込み、先陣を切った。予想だにしない最後の国土防衛戦が始まった。満州から転属されていた戦車第11連隊は陸軍の精鋭部隊のひとつで、「十一」から「士」、「士魂部隊」と呼ばれる連隊は、玉砕覚悟の突撃を行った。
彼らは怒涛のように押し寄せるソ連軍を、一週間にわたり海岸に釘付けにした。
島の缶詰工場で働く4~500人の女性を含めた民間人は、ソ連軍上陸の混乱の中、無事に北海道に避難した。
8月21日に戦闘が終わるまでに日本側約600人、ソ連側約3000人が死傷した。守備隊は、戦後の防衛戦を戦い抜いたが、池田大佐は帰ってこなかった。
現在、北海道に配備されている陸上自衛隊の第11戦車大隊は、伝統を継承し、「士魂戦車大隊」と称している。砲塔両側面には、白く「士魂」と書かれている。
「自衛隊・士魂戦車大隊・90式戦車」
20日には降伏が確約され、23日まで日本軍は武装解除された。守備隊の兵士は、故郷に帰るどころか、法的根拠もなくシベリアで3年以上におよぶ過酷な労働を強いられ、多くの命が失われた。
しかし樋口中将の即断と守備隊の勇猛な戦いで、ロシアの侵攻を食い止めたのである。樋口が率いる第5方面軍の抵抗がなければ、ソ連軍は北海道になだれ込んでいた。
この間にアメリカ軍が北海道駐留を完了したため、スターリンの野望は打ち砕かれた。日本降伏3日後にも関わらず、反撃命令を下した樋口季一郎中将の英断がなければ、最低でも北海道は分割されていた。
最悪、日本は北海道どころか福島県あたりまで共産圏になっていた恐れがある。
占守島は1875年の「樺太・千島交換」条約で、千島列島の他の島々と共に日本領になった。戦時中も、島には缶詰工場で働く女性ら民間人が居留した。
終戦時の部隊の状況を示した資料に依ると、陸軍第91師団等約2万3000人の軍人・軍属が配置されていた。日本は、1951年の『サンフランシスコ講和条約』で領有権を放棄した。
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