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単冠湾
根室半島の東端、納沙布岬の北東110キロメートルの沖合いに、1643(寛永20)年、オランダ船によって発見された択捉島はある。
日本が最初に踏査したのは1786(天明6)年のことで、1800(寛政12)年、幕府は摂津の船頭・高田屋嘉兵衛をしてこの島に漁場を開かせた。吏員を派遣し、盛岡・弘前両藩の兵を駐屯させ、住民の同化撫育を図った。
「択捉島」
1854(安政元)年、日露和親条約で日本の領土と認められ、1860(万延元)年に仙台藩領となった。1869(明治2)年8月、択捉・紗那・振別・蘂取四郡をおき、国後とともに千島国を形成した。
鳥取県とほぼ同じ大きさの択捉島は、北方領土最大の島である。中央に位置する単冠湾は太平洋に面し、冬でも流氷が接岸しない天然の良港だった。
「単冠湾に集結する機動部隊」
暖流と寒流が流れ込んでいる四島の周辺海域は豊かな水産資源に恵まれ、多くの人が水産業に従事していた。北洋漁業の基地として紗那などの漁港がにぎわい、1942年には人口が3729人に達した。
1941(昭和16)年11月22日、そんなのどかな島に、突如として巨大な軍艦が現れて島民たちを驚かせた。夜には漆黒の闇に包まれる湾内から青白い探照灯(サーチライト)が何本も重なり、絶えず空を照らしていた。
軍の命令で箝口令が敷かれ、天寧郵便局は一時的に通信を遮断された。長い冬を越すために根室と連絡をとる島民たちは、必要な物資を手配することもできなかった。
ただならぬ気配を感じたものの、何の目的でこれだけの艦隊が、こんな辺鄙な場所に集結したのか、島民たちは知るはずもなかった。
11月26日払暁、択捉島の単冠湾に集結していた、航空母艦や戦艦など30隻を超す艦船が錨を上げた。南雲忠一中将が指揮する日本海軍機動部隊だった。針路は、米ハワイ・真珠湾。
東の空が白み始めたころ、6隻の空母は風上に進路を向けて一斉に速力を上げた。日本海軍の全正規空母「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」「翔鶴」「瑞鶴」。まさに日本海軍の総力に近い陣容だった。
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