対日経済制裁

1/1

31人が本棚に入れています
本棚に追加
/31ページ

対日経済制裁

 開戦は唐突に決定したわけではなかった。1939(昭和14)年の段階で、すでに日米関係は抜き差しならない状態に陥っていた。  英米による蒋介石・国民党への援助や経済封鎖を通じて、日本と英米との対立が鮮明になってきたのだ。 60dda671-b66c-4868-bef7-f07957f4bdbb  同年7月、支那事変(日中戦争)における日本の軍事行動の長期化を理由に、米国は対日経済制裁を発動した。鉄鋼や石油など、資源の多くを米国に依存していた日本経済は大打撃を受けた。  アメリカに対し、軍事行動はむろんのこと、一切の不利益も与えていない日本に対して突如圧力を強め、資源封鎖や経済封鎖を行ったのだ。  これにより数千万人が雇用を失うことになった。これは日本の国力を極限まで低下させ、資源だけでなく、食糧危機の恐れも生んだ。  1940年になると航空機用ガソリン、くず鉄の禁輸も決定した。  1941(昭和16)年4月、近衛文麿首相は日米戦争を避けようと日米交渉を開始したが、話し合いは難航する。  6月21日(土)ハル国務長官が「ハル四原則」に基づいた「日米諒解案」の日本側修正案を非難。 「ハル四原則」  1.全ての国家の領土保全と主権尊重  2.他国に対する内政不干渉  3.通商を含めた機会均等  4.平和的手段によらぬ限り太平洋の現状維持  同年8月、進行中の世界大戦が終結した後の世界構想について、英国首相チャーチルと米国大統領ルーズベルトが、大西洋上のイギリス戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」艦上で会談した「大西洋憲章」が、共同宣言として発表された。 20a0cd06-5851-4b10-b1cf-27eca1f4b8a3 「ルーズベルトとチャーチル」 (1) 領土の不拡大 (2) 関係住民の希望に反する領土変更の不承認 (3) 住民による政治形態の選択権尊重、並びに強奪された主権と自治の回復承認 (4) すべての国家に対する通商と資源獲得の保証 (5) 労働条件の改善や社会保障確立のための国際協力 (6) 恐怖と欠乏からの解放を保証するための平和の確立 (7) 公海の自由航行の保証 (8) 武力行使の放棄、侵略国家に対する武装解除と軍備縮小 62583b84-c841-48ab-90dd-f5123f1e6d46 「プリンス・オブ・ウェールズ」  先頭の三項目を要約すれば、「領土不拡大」「国境不変更」「民族自決」になる。 「民族自決権」とはすべての人民は、外部からの介入を受けず、その政治的地位を自由に決定する権利をいう。  軍事力で植民地を奪ったり、自国の領土を広げる「弱肉強食」のルールは禁止されたのだ。  しかし、彼ら自身がこのルールを守らなかった。有色人種には民族自決権はないままだったのだ。  ソ連の領土拡大は認め、日本の北方領土は奪われた。自分たちの都合でルールを変え、自分たちの都合でそのルールも守らない、これが欧米列強のやり方だった。
/31ページ

最初のコメントを投稿しよう!

31人が本棚に入れています
本棚に追加