ハル・ノート

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ハル・ノート

 1941(昭和16)年10月16日、近衛文麿首相は内閣を投げ出した。意欲的に支那事変を進め、この事態を招いたのだが、アメリカとの戦争が避けられないと判断するや、責任を放棄したのだ。後任には東条英機・陸軍大将が任命された。 111e288e-86f9-48b5-aca6-d4c2d8d7fdb0 「近衛文麿」  11月26日、日米交渉決裂に備え、海軍の機動部隊は択捉島の単冠湾から真珠湾に向けて出港する手はずを取った。交渉成立の場合は引き返すことになっていた。  対するアメリカは暫定協定案の作成に入り、ハル国務長官も対日妥協を模索する。ところが11月26日、ハルは暫定協定案の提示をやめ、より強硬な「ハル・ノート」を野村大使に手渡した。  それは、中国及び全仏印からの日本軍の全面撤兵、蔣介石政権以外の中国政府の否認、日独伊三国同盟の事実上の撤廃を求めるもので、日本にとっては受け入れがたいものであった。それを知ったクレーギー駐日英大使も、戦争になるのは当然だと語ったという。  こうして、日本はハル・ノートを最後通牒と受け取り、開戦に踏み切るのである。 4c56ee9c-802e-47ad-87ab-f387c1acb603 「コーデル・ハル国務長官と最後の会談に臨む野村吉三郎大使と来栖三郎大使(1941年12月7日)」  東条は対米開戦論者だったが、昭和天皇の御意思が和平にあることを知り、和平交渉の進展に努力した。しかし中国からの完全撤退などを求めた通告を、受け入れることは困難だった。  それは、日本に対し大陸における権益を全て放棄し、明治維新前に戻れと突き放したに等しいことだった。  日本は米国のルーズベルトと英国のチャーチルにしてやられたのだ。ではなぜ米英は日本を陥れたのか。 51a12897-1599-44f7-b9ae-9da14b25b5c7  当時、イギリスはドイツ帝国の攻撃に連日さらされ追いつめられていた。  そのイギリスの要請に応えて参戦したいアメリカだったが、ルーズベルトは不戦を公約している上に、アメリカ世論は反戦ムードが強く、参戦は非常に難しかった。  日本が先に攻撃してくれば、日本と戦う大義名分ができる上に、アメリカ世論も賛同すると考えていたルーズベルトは、その画策を繰り返していた。やがて、日本を追い詰める「ABCD包囲網」が完成する。  日本海軍機動部隊は「ハル・ノート」が届いた同日に、すでに択捉島の単冠湾を出港し、ハワイ北方海域へ向かっていた。  真珠湾攻撃の準備はその一年も前から行われていたのだ。  当時の「対日禁輸政策」と「ハルノート」は、アメリカでは知られていない。「日米安保条約」が締結されているアメリカは、同盟国として信じるに足る国なのか。 6b39c07e-b886-4cc2-9a09-de5e2764f445 「日米地位協定」は、日本に駐留する米軍の施設や区域の使用を認めた、「日米安全保障条約」第6条を受けたものである。  施設・区域の提供、米軍の管理権、日本国の租税などの適用除外、刑事裁判権、民事裁判権、日米両国の経費負担、日米合同委員会の設置などが定められている。  ドイツやイタリアでは、事故をきっかけに改定や大幅規制が実現しているが、日本では協定締結から60年以上が経つものの、運用の改善だけで本文の改定は一度もない。  1995年の少女暴行事件でも米側が身柄の引き渡しを拒み、反発が強まった。日米合同委員会は当時「殺人または強姦という凶悪な犯罪」について日本側からの要請に米側は「好意的な考慮」を払う、と合意した。  しかしその後も米側は明確な理由を示さないまま身柄引き渡しを拒否するなど、実際の実効性は米側の裁量に委ねられている。 14ff8fc0-0b27-40b6-96b1-289ed1f895c0  米軍基地が集中している沖縄県では、1972年~2016年までに米軍がらみで起きた殺人・強姦などの凶悪犯罪は575件に及び、平均すると月1件ペースの割合になる。  沖縄県は1995年、2000年、17年と、3度にわたり、日米両政府に地位協定の見直しを要請した。  国葬だの旧統一教会問題だのも結構だが、国民の命を守るのが国の務めだ。ここをこそ、日本国政府は国家の威信をかけて改定していかなければならない。米軍基地には、凶悪犯罪者がいるのだ。 「日米地位協定」にあぐらをかくアメリカ。被害者が浮かばれない日本。  これが本当に独立国家なのか。  さて、勝ち目のない戦いに挑んだ、愚かしい男たちの物語が始まります。
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