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最後の夕餉
1915(大正5)年、32歳になっていた高野五十六は、山本家を相続することになった。
山本家は代々家老職の家柄という長岡藩の名家で、戊辰戦争において、軍事総督・河井継之助とともに戦った次席家老、山本帯刀の家である。
藩主牧野家のたっての願いで、三河以来の名門山本家が復活した。帯刀の戦死後、跡継ぎがなく、そのままとなっていた家名を五十六が相続したのだ。
河合継之助の負傷後に、藩の総司令官として会津に転戦した山本帯刀だったが、西軍に捕えられてしまった。
西軍側は山本の人物を惜しみ降伏を勧めたが、山本は断っている。
「藩主、我に戦いを命ぜしも、未だ降伏を命ぜず」
がんとして降伏を拒否した山本帯刀は斬死した。まだ24歳だった。
1918(大正7)年、海軍少佐だった山本五十六は、旧会津藩士の娘だった三橋礼子を妻にめとった。五十六35歳、礼子23歳だった。
夫婦生活14年、五十六と礼子の間には4人の子供が生まれた。
時は移り1941(昭和16)年、五十六が瀬戸内海・柱島の連合艦隊司令部から急遽上京し、東京・青山南町の自宅で一夜をすごしたのは12月3日である。家族に密かに別れを告げるためだった。
「柱島」
妻の礼子は過労のため重い肋膜炎(現在は胸膜炎と呼ばれる)に罹り療養中だった。ほとんど枕から頭を離せない状態のまま、床の中から使用人に指図をしていた。
食事はいつも台所横の六畳の部屋ときまっていたが、山本は女中に命じて、膳を礼子の病室に運ばせた。
礼子は起き上がり「こんなかっこうで、すいません」と詫びた。久しぶりの家族六人の夕食が重くるしい雰囲気の中で始まった。
いつもなら魚の身をほぐして分け与えるぐらい子煩悩な五十六が、このときだけは鯛に箸をつけなかった。日本の行く末を、妻と子の未来を思い、喜ぶべき門出ではないと考えたのだろう。みなが黙ったまま箸を動かした。
「八十里腰抜け武士の越す峠」夕餉の箸を止めた五十六は呟いた。河合継之助の辞世の句となった、自嘲を込めた句だ。
会津戊辰戦争を阻止すべく、新政府軍の無理難題に対し、毅然と立ち向かった北越の一藩が存在した。軍事総督・河合継之助率いる長岡藩だった。
五十六の思いは幕末に飛ぶ。武装中立を目指し、最後まで和平の道を探った長岡の偉大な先人、河合継之助の生きたころに。
「八十里峠」
父の部屋で目にした日米の現状についての書類や、静かな夕餉を重ね合わせた義正は、日米戦争の切迫を強く感じて、その夜は眠れなかったという。
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