大艦巨砲主義の終わり

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大艦巨砲主義の終わり

 対英米開戦が決まった以上、救国の策はひとつしか残されていなかった。  疾風のように攻め込み、痛烈な打撃で戦意を削ぎ、すぐさま講和に持ち込む。まさに乾坤一擲の大勝負を仕掛ける以外にない。  一家そろっての最後の夕餉となった翌朝、学校へ行く息子を、五十六は珍しく玄関まで見送った。 「行ってまいります!」 「うん、行ってきなさい」  この短い会話が、山本五十六と長男義正が交わした最後の言葉になった。  連合艦隊司令長官・山本五十六率いる日本海軍が、ハワイの真珠湾で米太平洋艦隊に奇襲を仕掛けたのは、その4日後、昭和16年12月8日のことである。 7150be6e-3daf-4511-8d82-0204091a134b  オアフ島の真珠湾は、アメリカ合衆国が太平洋に保持する最強の軍事基地であったが、いきなり中枢に奇襲を受けたアメリカ軍は驚愕した。  大東亜戦争(太平洋戦争)は、この真珠湾攻撃から始まった。  空母機動部隊を編成し、米太平洋艦隊の本拠地を航空戦力で叩く「ハワイ攻撃作戦」は、五十六の発案だった。  軍艦は飛行機には勝てない。大艦巨砲主義の只中、誰の理解も得られなかった五十六の主張は、やがて現実のものとなっていった。  沖縄への出撃航行中、ほとんど手出しのできない状態のまま、群がる戦闘機の標的になって沈んでいった「戦艦大和」の悲劇が、大艦巨砲主義の終わりを物語っている。 4b9fc3b7-dc1d-48ea-b9ff-2a6323a80878  飛行機による艦船攻撃、それをいち早くやってのけたのが「真珠湾攻撃」だった。まさに世界が驚く画期的な作戦だった。  日本がドイツ・イタリアのファシズム国家と軍事同盟を締結することについては、第2次近衛文麿内閣の外相・松岡洋右(親ドイツ派・対米強硬派)が推進役だった。  山本五十六はこう言ったという。  ──実に言語道断だ。これから先どうしても海軍がやらなければならんことは、自分は思う存分準備のために要求するから、それを何とか出来るようにしてもらわなければならん。  ──結局自分はもうこうなった以上、最善を尽くして奮闘する。そうして、「長門」の艦上で討ち死にするだろう。  ──その間に、東京あたりは三度くらいまる焼けにされて、非常にみじめな目に会うだろう。  ──結果において近衛だのなんか、気の毒だけれども、国民から八つ裂きにされるようなことになりゃせんか。実に困ったことだけれども、もうこうなった以上はやむをえまい。
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