近衛文麿

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近衛文麿

 1937年6月第一次近衛内閣が発足し、7月に日中戦争が勃発した。当初は不拡大方針をとっていたが、軍部に押し切られ、全面戦争となってしまった。 「国民政府(蔣介石)と相手せず」とし、平和への道を近衛は自ら閉ざした。支那事変(日中線戦争)の拡大は太平洋戦争へとつながり、日本に甚大な被害を出した。  近衛文麿は伊藤博文に次ぐ史上2番目の若さで内閣総理大臣になった。「戦争不拡大・反東条」を主張した石原莞爾(かんじ)が、支那事変の泥沼化を心配して日中首脳会談を提案し、近衛も乗り気だったが、直前に心変わりし首脳会談を取り消した。 185e1d00-1cbc-4ef2-926d-27b1e7a3722c 「石原莞爾」  近衛文麿のこの優柔不断な性格が後の日本を泥沼化させることになる。さらに和平交渉を打ち切り、講和の機会を閉ざしてしまったのだ。  近衛は一貫して、支那事変の泥沼化と太平洋戦争の開戦責任は軍部にあり、天皇も内閣も飾りでしかなかったという釈明をした。しかし、自身の戦争責任を全て軍部に転嫁する態度は、当時から今日に至るまで厳しく批判されている。  近衛の邸宅、荻外荘(てきがいそう)を訪れた人物は多岐に渡る。日中戦争前から対米開戦の間に3度政権を担った近衛は、しばしばここを会談の場にした。  特に、日米開戦約2か月前に、東條陸相、及川海相、豊田外相、鈴木企画院総裁の顔ぶれで、いわゆる「荻外荘会談」が行われ、日米開戦についても話し合われた。  中国からの撤兵を強く要求して日本向け石油輸出を止めた米国と、備蓄の石油では軍も民間産業も2年足らずで枯渇する日本。 60cb8f28-ee4a-4612-9d25-12c7ceb49a37  1941年10月12日、日曜日の午後、首相の近衛、陸軍大臣・東条英機のほか海相・及川古志郎、外相・豊田貞次郎、企画院総裁・鈴木貞一が集まった。  近衛は、太平洋の戦いを担う海軍が圧倒的な国力差から「戦争はできない」と明言することを期待したが、及川海相は「首相一任」と煮え切らず、主戦論の東条は、多くの犠牲を払った中国から戦果なく引けない、と撤兵に頑として反対し、話は決裂した。  東条が対米主戦論であったとの評価は、秋以降の強硬論と開戦論によって近衛を総辞職に追い込んだ原因を作り、首相として日米開戦の火ぶたを切ったからだが、東条が首相になってからも、昭和天皇はなお和平への道を望み、東条は身内の陸軍に批判されながらも交渉の道を探そうとした。
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