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近衛文麿と五十六
1941年(昭和16年)9月11日から14日、五十六と堀悌吉は毎日会っていた。いかにして日米衝突を避けるかの話し合いもあったのだろう。しかし、やれと言われればやらなければならない。それが軍人なのだから。
同年9月末、荻外荘(現東京都杉並区荻窪)の近衛邸で、山本と近衛は向かい合っていた。
「もしも、だが」やや前かがみになった首相近衛文麿は、耳をそばだてる者とてないのに声をひそめ、五十六をじっと見つめて口を開いた。
「もしも日米が戦うとなればどうなるだろう。海軍としての見通しはどうか」
近衛としても開戦は避けたいが、流れはもう止めようもなく日米開戦へと動いている。
「荻外荘」
陸軍の大言壮語は聞き飽きた。海軍の意見が聞きたかった。
腕を組み背もたれに背中を預けた五十六はしばし宙を見た。
「是非やれといわれれば、初めの半年や一年は、暴れてごらんにいれます。しかし二年、三年となっては、まったく確信は持てません」
五十六は大きく息を吐き、身を乗り出した。
「三国同盟ができたのは致し方ないが、かくなるうえは、日米戦争の回避に極力ご努力を願いたいと思います」
最後の海軍大将井上成美は、「なぜはっきり『勝てません』と言わなかったのか」とのちに五十六を批判している。
「井上成美」
近衛は首相である。ではその首相の一存で開戦は避けられたのだろうか。
答えは、否である。
国家統治の大権を持つのは天皇だった。たとえ首相といえどもその権力は所轄大臣と同列であり、各大臣を統率する権力はなかったのである。
しかも陸海軍の統帥は内閣の権限外であった。陸軍大臣、海軍大臣が首相の言うことを聞くはずもない。さらに首相と所轄大臣は同列であるから、首相の意に沿わない大臣を罷免する権限もなかった。
戦争に関する方針は天皇に対する事前の上奏や御下問を経て御前会議で決定されたが、その結果についての責任は天皇にはない。
事実上陸海軍を統治する者がいないという信じ難い体制だったのである。
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