大西瀧治郎

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大西瀧治郎

 山本五十六率いる「連合艦隊」を中心とした「ハワイを叩き、アメリカと早期講和をするべきだ」という案と、「豪州(オーストラリア)北東の島々を占領し、豪州への兵力供給を遮断。連合国から脱落させた上で、ドイツと呼応し、英米両国と講和を果たすべきだ」という軍令部を中心とした意見。  日米開戦の戦略で、日本海軍は二つに割れていた。  当時、日本海軍でもほとんどの者は戦艦の優劣が勝敗を決めると考えていた。その常識を覆したのが「真珠湾攻撃」だった。 cfeded91-40f1-4106-8e83-d9ff078d2300  五十六は「海軍航空育ての親」ともいえる存在だった。昭和5年、海軍航空本部技術部長となった五十六だったが、当時、日本の航空技術は世界のレベルから大きく立ち遅れていた。  すでに航空能力の優劣が勝敗を分ける時代を予期していた五十六は、「日本の航空発達は、国産化なくしてありえない」として、積極的に海外からの技術導入を行ない、日本独自の技術として育てていくことに努めた。  その努力は昭和15年、世界一と謳われた戦闘機、零式艦上戦闘機として結実する。 19560095-73e9-4952-aa37-049fa1bea659 「零式艦上戦闘機二一型」  海軍は運動性能、航続力、武装などで、不可能とも思える高い水準を求め、「三菱」は徹底した軽量化などで応えた。  最初の生産型である11型を、航空母艦搭載用に主翼の両端を折り畳めるように改良した機種が、真珠湾攻撃に加わるなど対米戦初期に活躍した21型である。  零戦といえば暗緑色のイメージだが、真珠湾で飛んだ二一型は灰白色の機体をしている。  一方、陸軍の要望に応えて「中島」が開発したのが「一式戦闘機・隼」である。フォルムがよく似ていたため陸のゼロ戦と呼ばれ、米軍にも誤認された。ボディがほっそりしているが零戦と互角の航続距離と戦闘能力を誇っていた。 f782d86b-8a50-4c3d-93a1-a1a7b5584bc6 「一式戦闘機・隼」  五十六は軍政畑の軍人であり、作戦を得意としたわけではなかった。日米決戦の起死回生策、真珠湾攻撃を行うに際し、迷うことなく思い浮かべた顔がある。  日露戦争の「軍神」広瀬武夫少佐(死後、中佐に昇進)に憧れて海軍を志した、海軍航空の生え抜き大西瀧次郎(おにしたきじろう)だ。世界史上前例のない奇襲をどう仕掛けるか、大西に尋ねるのが一番確実だ。大西が前例にとらわれない発想の持ち主であり、なによりも大西に全幅の信頼を置いていた。  1941年(昭和16年)1月、第十一航空艦隊参謀長・大西瀧次郎少将は届いた手紙を読んでいた。差出人は山本五十六連合艦隊司令長官。 c4771fa2-0430-4ed5-81c3-a7f1507b170a 「大西瀧治郎」 〈国際情勢の推移如何によっては、あるいは日米開戦の()むなきに至るかもしれない。日米が干戈(かんか)をとって相戦う場合、わが方としては、何か余程思い切った戦法をとらなければ勝ちを制することはできない。  それには開戦初頭、ハワイ方面にある米国艦隊の主力に対し、わが第一、第二航空戦隊飛行機隊の全力をもって、痛撃を与え、当分の間、米国艦隊の西太平洋進行を不可能ならしむるを要す。  目標は米国戦艦群であり、攻撃は雷撃隊による片道攻撃とする。本作戦は容易ならざることなるも、本職自らこの空襲部隊の指揮官を拝命し、作戦遂行に全力を挙げる決意である。ついては、この作戦を如何なる方法によって実施すればよいか研究してもらいたい〉 「海軍大学校を出ていないから、自由に発想できる貴官に期待する」という趣旨の一文が記されていた。  ハワイを飛行機で、か……。  尖らせた口先から細く息を吐いた大西少将は宙を睨んだ。
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