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特攻は統帥の外道
大西瀧次郎は、のちの「神風特別攻撃隊」の創始者の一人であり、作戦としての組織的な体当たり攻撃の編成、出撃命令を初めて発した人物である。
「特攻は統帥の外道である」とは大西の持論だったが、戦局の悪化でむしろ特攻を推進する立場になった。
飛び立った若き彼らは哀れだったが、死しても故郷を、恋人を、父母を家族を護りたいという、切実な思いがあったことを忘れてはならない。
大西は日本の未来を見ていた。自分たち先祖の捨て身の戦いぶりを示すことにより、破れてもなお、滅亡の縁から立ち上がる大和民族の奮起に期待したのだ。
「もはや内地の生産力をあてにして、戦争をすることはできない。戦争は負けるかもしれない。
しかしながら後世において、われわれの子孫が、先祖はかく戦えりという歴史を記憶するかぎりは、大和民族は断じて滅亡することはないであろう。
われわれはここに全軍捨て身、敗れて悔いなき戦いを決行する」
1945(昭和20)年5月、大西中将は軍令部次長として内地に帰還したが、我が家へは帰らず渋谷南平台の官舎に独居した。
「週に一度ぐらいは帰宅して、奥さんの家庭料理を食べてはどうですか」と勧める者に大西は苦し気に顔を歪めた。
「君、家庭料理どころか、特攻隊員は家庭生活も知らないで死んでいったんだよ。614人もだよ。俺と握手していったのが614人もいるんだよ」と、目に涙をためて唇を震わせた。
大戦末期は学徒も飛んだが、そもそも飛行機乗りには、並外れて優秀な人間にしかなれない。彼らは国内最難関の海軍兵学校を卒業した若者であり、勉学優秀で、運動神経抜群で、視力もよい日本の将来を担うべき宝だった。
将来のある優秀な若者を、爆弾を抱えた死の操縦者にしたことへの責任を、その重さを、大西は誰よりも深く抱いていた。
一人ひとりの目をじっと見つめて強く手を握り、若き特攻隊員を送り出してきた大西は、その年の敗戦の翌日、8月16日に、自らの軍刀を手に取り、腹を十字に切り裂き、首と胸を刺した。
「軍令部次長官邸」
特攻で死なせた部下たちのことを思い、なるべく長く苦しんで死ぬようにと介錯なしの割腹だった。
翌朝発見された大西中将は、血まみれではらわたを飛び出させながらも、医師の手当てを拒んだ。駆けつけた児玉誉士夫に「貴様がくれた刀が切れぬばかりにまた会えた。全てはその遺書に書いてある。厚木の小園に軽挙妄動は慎めと大西が言っていたと伝えてくれ」と話した。
児玉も自決しようとすると「馬鹿もん、貴様が死んで糞の役に立つか。若いもんは生きるんだよ。生きて新しい日本を作れ」と諫めた。介錯と延命処置を拒み続けたまま同日夕刻、苦しみながら死去した。享年55。
特攻を命じ、生きながらえた将官に、大西のような責任の取り方をした者は一人もいなかった。
「特攻隊の英霊に曰す」で始まる遺書には、自らの死を以て旧部下の英霊とその遺族に謝すとし、また一般壮年に対して軽挙妄動を慎み日本の復興、発展に尽くすよう諭している。
特攻隊の英霊に曰す。
善く戦いたり、深謝す。
最後の勝利を信じつつ肉弾として散華せり。
然れ共其の信念は遂に達成し得ざるに至れり。
吾死を以て旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす。
次に一般青壮年に告ぐ。
我が死にして軽挙は利敵行為なるを思い、聖旨に副い奉り自重忍苦するの戒とならば幸なり。
隠忍するとも日本人たるの矜持を失うなかれ。諸子は国の宝なり。平時に処し、猶を克く特攻精神を堅持し、日本民族の福祉と世界人類の和平の為、最善を尽せよ。
1941年(昭和16年)2月、大西は腹心である第十一航空艦隊参謀長・源田実を呼び出し、連合艦隊司令長官・山本五十六からの手紙を見せた。
真珠湾における雷撃、いわゆる航空機による魚雷攻撃の可能性を尋ねるためだ。
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