三国同盟

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三国同盟

 陸軍がヒトラーのナチスドイツ。ファシズム支配のイタリアのムッソリーニと接近したことにより、日本海軍とアメリカが、太平洋上において衝突する事態は避けられないこととなっていった。  支那事変(日中戦争)でアメリカは中国を支援していたため、日本政府は独伊と軍事同盟を結ぶことで、支那事変を有利に運ぼうとしたのだ。 「あんなもの結んだらアメリカと戦争になる。そうなったら東京なんか三度くらい丸焼けにされて日本は惨めな目にあうだろう」  ボストンのハーバード大学に留学し、滞米経験も豊富で米国駐在武官も務めた五十六は、アメリカの力を知る数少ない海軍軍人だった。  明らかにアメリカに敵対するような三国同盟には、当然のことながら反対したが、海軍内部でも三国同盟に賛成する者も出てくる始末だった。 425e35e4-4a61-4aa7-8993-940c2b20496f 「日独伊三国同盟」  海軍屈指の知米派であり、対米開戦に最後まで反対し続けた米内光政(よない みつまさ)海軍大臣。  軍令部の大艦巨砲主義を批判し、海軍の空軍化を主張した海軍省軍務局の井上成美(しげよし)。  そして海軍次官だった山本五十六。  この三人は「(海軍)左派トリオ」もしくは「海軍三羽烏」と呼ばれた。  五十六を、中央の海軍次官から現場の連合艦隊司令長官へと移動したのは、盟友である海軍大臣米内光政だった。親米派と言われていた五十六が暗殺される事を恐れたからである。 fff7b624-6bba-413b-863b-9f3a5ef4d748 「ロンドン海軍軍縮会議後帰国した山本五十六」  五十六は歯がゆく思う。陸軍が先導した日独伊三国同盟も潰せなかった。日米開戦もだ。中央の場を追われ、連合艦隊司令長官という現場に押し戻された。  継之助のように勇ましくも高潔でもなかった。最後はまさに腰抜け武士だと。  五十六が敬愛する河合継之助は、その当時日本に3台しか存在しなかったガトリング砲(連射式の銃)のうち2台を手に入れ、アームストロング砲・エンフィールド銃やスナイドル銃・シャープス銃などの元込めライフルを装備した。 cd3cfbd4-b5ca-41dd-8ff1-392b255f4545 「ガトリング砲」  その継之助が、長岡藩の命運をかけて臨んだ小千谷談判は、長岡にほど近い小千谷の慈眼寺において行われた。  しかし、薩長を中心とした新政権と、奥羽越列藩同盟や旧幕府軍である東軍との仲裁を申し出た会談は決裂した。 「官軍の名のもとに会津藩や旧幕府軍を討つというが、その内実は私的な制裁と権力への野望ではないか」  継之助の追及に、岩村は詰まり激昂した。 「我等は勅を奉じ長岡を討つ。論を争うのならば、兵馬の間に決すべし」  その間わずか30分。  武装中立の道を捨て、奥羽列藩同盟へ参加した継之助。やがて戊辰戦争中最大の戦い「北越戦争」が勃発する。長岡藩の兵力1300人に対し新政府軍は5000人とおよそ4倍。  それでも、長岡藩の激烈な抵抗により西軍は想定外の大損害を被り、一度陥落させた城を奪われるという大失態を起こすことになる。一度は奪われた長岡城を、長岡藩は奪還したのだ。 c3614a21-5ffb-424c-8e99-4f194881d096 「河合継之助」  しかし、その奇襲作戦の最中に、河合継之助は左膝に流れ弾を受け重傷を負った。指揮官を失ったその4日後に長岡城は再び陥落した。  継之助は戸板に乗せられ、会津へ落ち延びる。その継之助が八十里峠を越えたあたりで詠んだとされる句が、「八十里腰抜け武士の越す峠」である。  越後長岡の風雲児河合継之助は、破傷風とみられる傷の悪化により、塩沢村において42年の短い生涯を終えた。  もしもあのとき、と五十六は思う。継之助の希望が叶い、西郷隆盛の腹心である薩摩の黒田清隆、もしくは長州の山形有朋との面会が叶っていたら、北越戦争は避けられたのかもしれない。いや、必ずや回避されただろう。  戦争をするもしないも、決するのは上に立つ人間だ。国を憂い、民を思い、その先を見つめて船を操る人間だ。これほど火急の日本には、運悪くひとが少ない。極東の小国日本丸は取り返しのつかない方へと舵を切った。  帝国海軍には軍縮条約に賛成する「条約派」とそれに対抗する「艦隊派」がいた。ワシントン軍縮会議やロンドン軍縮会議に関与し、戦争回避のため軍縮を推進した堀悌吉は「条約派」と看做(みな)されて「艦隊派」から激しい攻撃を受けた。  艦隊派の大角海相による大角人事(おおすみじんじ)により51歳の若さで予備役に編入され、その才幹を十分に発揮することなく軍歴を閉じた。五十六のそばには常に、この堀悌吉(ほり ていきち)がいた。 b5fd17ef-f89e-4923-87cc-f927363656ce 「山本五十六と堀悌吉」  海軍兵学校では堀悌吉は主席だった。五十六は11番目。同期生たちをして「神様の傑作の一つ、堀の頭脳」 と言わしめた非戦の軍人、盟友堀悌吉が海軍にいたら、と五十六は思う。 「國雖大好戦必亡 天下雖安忘戦必危」 山本五十六  国大なりといえども戦を好めば必ず亡び、天下安しといえども戦を忘れば必ず危うし。 「上和下睦」堀悌吉  上の者が温和であれば下の者も睦まじくなる。  そんな悌吉の娘二人は軍人には嫁がなかった。
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