最後の願い

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最後の願い

 男とも女ともつかない中性的な容貌の人物が、血溜まりの上に裸足で佇んでいる。やや伏せた長い睫毛に光の粒を纏わせ、薄らと染めた頰には幸せが滲む。赤褐色の唇が緩やかに弧を描き、数秒後の破顔を予感させる。スラリと細い両腕は、胸の前で愛しげに血の滴る生首を包み込んでいる。生首の顔は見えないが、髪の間から覗く白い項にはがくっきりと刻まれており。オスカーワイルドの挿絵によく似た構図だけれど、サロメ然とする中性的な人物は、腰までの長い髪が蛇の如く四方八方にうねり……さながらゴルゴンのよう。ここに描かれているのは、愛したΩ(オメガ)を手に入れたαの狂喜――。 「また、ここにいたんだ」  耳馴染みの良いテノールに続いて、ミントグリーンの香りが鼻腔をくすぐる。答えずに正面のF100号の日本画を見詰めていると、3人掛けソファが小さく軋んで右横の座面が沈んだ。 「こんな田舎に呼びつけておいて、無視?」  溜め息交じりにぼやいて、兄は背もたれに身を預ける。不満の言葉の中に不安が滲む。俺の真意を測りかねているのだろう。 「これが……最後だから」  俺は、ライトグレーのフローリングに視線を落とした。声を震わさないように、細心の注意を払って絞り出す。 「そうだね。いくら弟の頼みでも、嫁いだらモデルは無理だもんな」  月に数回、俺は都会(まち)を離れて田舎の別荘に(こも)る。ここは5年前まで、日本画家だった叔父の住まい兼アトリエだった。地下室で彼が自ら命を絶ったため、親類達が処分しようとしていたところを、俺が丸ごと買い取ったのだ。 「分かっている。じゃ、始めようか、兄さん」  先に立ち上がって、ドアに向かう。足音が付いてくる。廊下を挟んだ正面の部屋がアトリエだ。大きな天窓と森に面したベランダから自然光が射している。空調(エアコン)を緩く入れて、天窓にシェードを下ろす。夏の日射しは強すぎて、目に悪い。 「今日は、どこで描くんだ?」  室内には、ダイニングにあるような木製チェアに、アジアンテイストの背もたれが大きい籐のイス、ベッドにもなる大きめのソファが点在している。どれも生活のために選定された家具ではなく、モデルを配置するための装置に過ぎない。 「ええと、ここに――シャツ脱いで座って」 「えー、背中痛くならない?」 「ちゃんと休憩入れるって」  部屋の中央よりベランダにやや近い位置に籐のイスを運び、光の加減を計算して角度を決める。ブルーのピンストライプ柄のリネンシャツを脱いだ兄は、大きなイスの中に包み込まれた。色素の薄い髪は元よりオークブラウンだが、柔らかな日射しを通すと金茶に輝いて見える。俺が指示するままに物憂げな表情で小首を傾けると、額の上をサラサラと前髪が揺れた。  F20号のカンバスの上を木炭が走る。ザックリと全体の構図を捕らえながら、兄が醸し出す雰囲気を溢さぬよう丁寧に写し取る。彼が発する息づかい、時折匂う微かな香り、陰影が際立たせる鎖骨の窪み、男にしては滑らかな肌の質感、軽く伏せた瞼の下から覗くヘーゼルの瞳――集中力が高まるにつれ、対象物以外の情報は遮断されていく。世界に、俺と兄……優一しかいない、そんな感覚領域(ゾーン)に駆け上る。
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