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フロー体験
「玲二」
躊躇いがちに掛けてきた声が掠れている。壁の掛け時計を見て、本来挟むべき休憩を素っ飛ばしていたことに気が付いた。
「あっ。悪い……」
「ううん。邪魔して、ごめん」
眉尻を下げたまま、優一は腕、首、肩、腰、膝……強張った筋肉をゆっくりと解していく。
「いや、これは俺が悪い。このまま休憩にしよう。居間に行く」
「ん、分かった」
少し焦ってシャツを羽織ると、優一はトイレに駆けて行った。没頭していたとはいえ、申し訳ないことをした。
カンバスの中の優一を眺める。素描は趣味なのに、彼は律儀に付き合ってくれる。描き手とモデル――この関係が生まれたのは、この別荘の元の主、恭一郎叔父が切っ掛けだった。
優一が高2、俺が中3の夏休み、2人して叔父の別荘に招かれた。叔父は既に日本画家として名を馳せていたから、外面の良い父は渋々首を縦に振るしかなかった。
俺達は岩嵜さんという男性が運転する車で別荘に来た。岩嵜さんは、20代後半の良く笑う気さくな人で、健康的に日焼けした肌に、彫りの深い顔立ちが印象的だった。彼は叔父のアシスタントを勤めており、仕事の管理から身の回り全般までを一手に引き受けていた。
「えっ、僕がモデルですか?」
別荘に着いた日の夕食の席で、叔父は優一を新作のモデルにしたいと切り出した。
「私は、2年前から古事記をテーマに描いているんだ。優一君は、月読命のイメージにピッタリでね」
優一は戸惑っていたが、叔父と岩嵜さんの熱心な説得の末、『今の君だけが持つ魅力を描かせて欲しい』という口説き文句に折れた。
翌日から、優一は午前と午後に4時間ずつ、合計8時間をモデルとして過ごすことになった。
創作の現場なんて滅多に見られるものじゃないから、俺はアトリエの片隅で見学させてもらうことにした。岩嵜さんは、様々な画材が収められた棚から、画用紙をクリップで留めた画板を数枚取ると、1枚だけイーゼルに置いた。その前に立った瞬間、叔父の柔らかな雰囲気が一変した。白鷺のようにおっとりと優雅な印象だったのに、画筆を手にした彼の眼差しは猛禽類のそれで――デッサンする腕の動きは鋭く、さながら画用紙の前を隼が飛び交うように見えた。
真白な長方形の中に、三次元の優一が徐々に写し取られていく。数m先で佇むのは見慣れた「優一」なのに、叔父のフィルターを通して画面上に具現する「優一」は、俺の知らない青年の顔をしていた。「月読命」のイメージが加味されているのか、儚げな面持ちの中に、凛と清廉な厳しさが漂う。被写体と描き手が一体になって、本物を超えた虚像が生み出される――これが「描く」ということか。僅かな身じろぎも許されない、ヒリつくような緊張感すら心地良い。俺は、この崇高な作業に夢中になった。
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