母の死

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母の死

母が亡くなった時、初めて父を見た。 位の高い殿上人のはずなのにその人はひとり馬を駆ってやってきた。 僕の母は宮廷に勤めていたので家にはほとんど帰ってこなかった。望まない子だったのか庶民が住んでいる地域の長屋に放置されて僕はひとり息を潜めて生きていた。 「間に合わなかったか」 従者もつけず、父はひらりと馬から降りて近くにある太い木に馬をつないだ。 「俺のことわかるか?」 よほど慌てていたのか侍のような狩衣姿でやってきた。切れ長の眼に優しげな表情。物語にちなんで「今源氏」とあだ名されている男は、確かに美しい。 今まで何の音沙汰もなかったのに急にやってきて、どうしていいかわからずその場につっ立っていると背中を押して家の中に入ってきた。 褥に横たわる母の枕頭に座るとさすがに父の表情が曇る。 「強情な人だからなあ…。自分の死に顔を見せたくなかったのかな。俺に何も言わず、こんな大きな子どもがいることも最近聞かされたばかりで」 言われてみれば、僕の父が源通親という帝の側近だと最近母から教えられたばかり。 母は自分の死期がわかっていたのだろうか。気まぐれに帰ってきたと思えば、突然そんな身の上話をしてきた。 だから突然やってきた男が僕の父親なんだろうと思った。 くわしくは何も知らない。たまに家司らしき人が生活物資を運んできてくれて、それで何とか生活していた。だから家の外観は古いけれど、調度品は豪華だった。 物だけ送られて放置されていた。 弔問客もなく、僕と父はなんとなく母の亡骸のそばに座ったままだった。 「守屋で名前は合ってる?」 声をかけられて慌てて僕は父の横顔を見上げる。捨てて無視していたのではなく本当に何も知らなかったようだ。 「そうです」 元服もしていない僕は、後ろにゆるく結んだ髪をゆらしながら答えた。 「これからどうする?この人の葬儀が終わったら」 ぎこちない空気が流れる中、父はそれなりに僕の身のふり方を心配してくれたのか、そんな事を聞いてくる。 正直、今この状態では何も考えられない。 唯一の肉親である母が死んで、これからの未来なんかわかるものか。 「どこかの寺にでも行って…」 「駄目だ。こんな環境では勉学もそれほど進んでいないだろう。私の屋敷に引き取る。この人を荼毘に付したらついてきなさい」 その言葉に、僕の中に溜まって腐っていた感情が吹き出して勢いよく立ち上がった。 「世間体が悪いからですか!?いきなり隠し子が見つかって当てつけのように出家されたらあなたの経歴に傷がつくし。それにさっきから母の名前も呼ばない。完全に消したいんでしょ?僕たちの存在を。正妻の方にも迷惑だし」 会うのは多分これで最後だ。ありったけの不満をぶつけて消えようと思ったが、さすがに父は一枚上手だった。 父は服装を整えて僕のほうに向き直ると深々と頭を下げた。 「ごめん。寂しい思いをさせたね」 ひとことの言い訳もなく、本当に自分の子どもなのかもわからない僕に、ずっとひれ伏して動かなかった。
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