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御前から貞実が去っても、上皇さまはしばらくその場に座っていた。
時々上を向かれるのは、昔の事を思い出しているのだろうか。
「俺はかっこ悪かったか、守屋」
御簾からのぞく僕のほうを見ずに上皇さまが言った。
「申し訳ありません。激しい声が聞こえたので…」
僕がずっとここにいたのをどの辺で気づいたんだろう。最初からなら、僕にも聞こえるように厳しい言葉を使っていたことになる。
「こっちに来い」
後ろ向きのまま手招きされて僕は上皇さまの隣に座ると、その太い腕が僕の肩を抱く。
こういう行為が貞実の精神をすり減らしたと思うと、罪悪感が襲ってくる。
「この程度でおかしくなるなら、あれは宮中には向いていない。特に俺の恋人だったなら余計に風当たりは強い」
「どうしてですか?」
政治色の強い会話になるからか、上皇さまはしばらく視線を上に向けて考えているようだった。
「祖父の寵童がその威光を借りて大臣まで登ったが、無能すぎて戦を誘発させる、それを鎮火できず責任も取らずで、宮中はまだその空気が残っている。貞実ならいけるかと思ったが、いろんな意味で駄目だったな。あれは弱すぎた」
「僕を捨てても…、貞実さんの心は戻らないですか?」
たとえ僕がいなくなってもこの方は新しい恋人を作るだろう。上皇さまが変わらなければ、状況は同じ。
「いま俺に出来ることは、あいつを手放すことだけだ。ほかにいい策があったなら教えてくれ」
「…わかりません…」
恋愛経験がほとんどない僕にはいい考えは浮かばなかった。
どんどん妻を変えて出世していく父なら何か良策があるかもしれないが、ばか正直に聞くわけにもいかない。
考えに没頭していると、ぽたぽたと水音が聞こえて上皇さまの膝に置いていた僕の手に滴が落ちていた。
「上皇さま」
表情を変えず、座ったまま静かに涙を流されていた。
こんな時どうしたらいいんだろう。
口先だけの慰めの言葉なんか、この方には通じない。
「上皇さまはひどいお方です。貞実さんを苦しめて、僕も苦しめている」
僕は思ったことを言った。臣下は癇癪持ちの主上にいい事しか言わない。社会的に責任のない立場の僕なら、どうせ見抜かれる嘘より、本心を言うほうがいい。
「でもあの人はきっと上皇さまを想い続けるでしょう」
それは上皇さまも同じだと、思う。
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