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「そうか」
自分を育ててくれた乳母の死に、上皇さまの態度は恐ろしいほど冷たい。
伝えに来た侍女も面食らったのか一瞬時間が止まったようだったが、やがて静かにその場を去っていった。
「…上皇さま」
その表情から何の感情も読み取れない。
「兼子や通親たちがいれば人手は足りる。今俺が行ったら余計な仕事が増えるだろう。今夜はここで静かに祈る」
正論に聞こえるが範子に対する関心が薄いのが気になった。貞実の時はあんなに感情を出したのに。
「行ってもよろしいでしょうか。僕でも雑用やいろいろ出来ることはあると思いますので」
「好きにしろ」
「何か伝言はありますか?」
「今はない」
釈然としないまま兼子姉妹の屋敷にかけつけると、時間もあってか弔問客はほとんどいなかった。秋子を見つけて中に案内されると在子さまの悲痛な鳴き声が近くなってくる。
「お母さま!お母さま!誰かお母さまの魂を戻して!!私を置いていかないで!」
病床に横たわる母にすがりついて在子が泣き叫んでいた。側に座る父と目が合ったがすぐにそらされて視線は亡き妻に行く。兼子は涙を袖でぬぐっていた。
「長患いでしたから」
まわりの侍女がすすり泣いている中、ぼそりと秋子が言った。
父は泣き叫ぶわけでもなく、無表情で座っている。何を考えているのかわからない。それでも高貴な身分で気軽に出かけるのは難しいのにここにいるということは、無関心に近い上皇さまよりは情があると思った。
隣室に詰め込まれた僧侶たちの静かな読経が響く中、僕は父の側に座る。
「父上」
僕の言葉にも、父は答えがない。
他にもたくさん妻を持つ父だ。ひとり死んだだけでそれほど悲しくないのかもしれない。
正直僕も悲しさはない。さんざん罵られた後ほどんど顔を合わせなかった。ここに来たのはあまりに冷酷な上皇さまへの反発と好奇心かもしれない。
「お母さまがいらっしゃらなければ私は生きていけません!戻ってきて下さい!私をひとりにしないで!」
在子の声だけが虚しく響いていた。
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