ムーンライト・パラソル

1/1
3人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
 コンビニを出ると、花火の音が聞こえた。  あれ、今日はどこかで祭りだったか、と夜空を振り仰ぐ。近すぎもせず遠すぎもしない、ちょうどよい距離で鮮やかな光が空を彩り、数秒遅れて音が空気を震わせてくる。  残業を早々に切り上げて帰途についた金曜の夜にしては、なかなか悪くない、と私は思った。子供の頃ならいざ知らず、夏の雰囲気を味わうなんて情緒は、アラサー独身男には無縁である。コンビニで買った冷やし中華と冷えた缶ビールが、かろうじて夏の気配を漂わせているにすぎなかった。  猛暑日続きの八月の夜は蒸しており、冷房の効いたコンビニから出れば数分で汗が滲んでくる。さっさと家に向かおうと歩を速めた矢先の、花火だ。少しくらい足を止めて楽しませてもらってもいいだろう。幸いアイスを買ったわけでもなし、ビールが多少温くなっても冷やし直せばいいことだ。  ふと、すぐ傍に女性が立っていることに気づいた。  白いワンピースに、木目調のサンダル。これだけならば祭に行く途中の格好にも見えるが、妙なのは白い傘を差していることだった。花火を見上げながら。  レースで縁取られたその傘は明らかに日傘だ。今日も照り付ける日差しは強烈だったので、日中に差しているなら何の違和感もない。だが、いくら日が長いと言っても今は夜の八時を過ぎている。とっくに太陽は西に沈み、辺りは真っ暗だ。  別に夜に日傘を差してはいけないというルールはない。もしかして私の知らないうちに、若い女性の間では日傘はおしゃれアイテムと化していて、夜でも持ち歩くのが流行っているのかもしれない。女性のおしゃれに合理性を持ち出すのが野暮だということくらいは、私にも分かっている。しかし、奇異なことには変わりがない。  考えを巡らせていると、視線に気づかれたらしい。こちらを向いた女性と目が合った。一瞬ひやりとしたが、女性は特に表情を変えることもなく淡々と「綺麗ですね」と言った。  何が、と言いかけて思いとどまる。ああ、花火のことか。 「……そうですね。ここからだとよく見える」  当たり障りのない答えを返すと、女性はまた空に目を移した。 「初めて見ました」 「え、花火をですか?」 「夜に外に出ることがなかったもので」 「はあ」  気の抜けた返事が漏れる。女性の年齢は私よりも少し上に見えるが、余程深窓のご令嬢なのだろうか。それとも、病気か何かか。日光アレルギーとか。疑問はいくつも浮かんだが、初対面で聞くようなことでもない。  私が黙っていると、女性は訥々と喋り続けた。 「一度、夜を感じてみたいと思っていました」 「そうですか」 「そうしたら、たまたま、あれが」  花火を差す指が細く、白い。本当に初めてなのだろうか。ずっと室内で暮らしていても、窓越しに見る機会くらいはありそうなものなのに。  また一つ、大輪の花が開いて夜空を明るくした。 「音が遅れて聞こえますね」 「まあ、少し距離がありますから」  個人的には、このくらいの距離で見るのが一番いい。近すぎると音が大きすぎるし、何より人が多い。  女性はしばらく何も言わずに空を見ていたが、小声で呟いた。 「涼しいですね。夜は」 「最近は昼が暑すぎますからね。少し風も出てきましたし」  そう言ったものの、やはり暑いことは暑い。私は鞄からタオルハンカチを引っ張り出して、首筋の汗を拭った。  花火はまだ上がり続けているが、そろそろ帰りたいところだ。この方向なら多分、家のベランダからも見えるし、あと数十分は上がっているだろう。エアコンを付けた部屋で涼みながらビールを堪能し、気が向いたらベランダに出て花火を見る。うん、いい。  私は軽く女性に会釈して、コンビニの袋を持ち直した。 「お先に失礼しますが、夜道には気を付けてくださいね」 「気を付ける?」  女性が目を瞬かせて不思議そうにする。私は苦笑した。 「女性の夜の一人歩きは危ないですから」 「一人歩き」 「そうです。お一人でしょう?」  この辺りは静かな住宅街で、そこまで治安が悪いという評判は聞かない。が、用心してもらった方がいいのは間違いない。事情は分からないが、こんな世慣れていなさそうな若い女性が一人でいたら、変な輩が寄ってこないとも限らない。連れでもいるなら別だが、先ほどから話している限りそうは見えなかった。 「花火もいいですが、あまり遅くならないうちに帰った方がいいですよ」  私の忠告に、女性がふっと表情を和らげた。大きな日傘の下で、長い黒髪がふわりと揺れる。 「……最初で、最後なので」 「え?」 「これが、最初で最後の、夜なんです」  なので、もう少しだけ。  予想外の言葉に呆気に取られ、何と言えばいいか分からない。そんな私に、女性は目を伏せて微笑んだ。 「ありがとう。貴方のおかげで、良い夜を過ごせそうです」  誤解を招きそうな言い回しである。ほんの数分、並んで花火を見ただけだ。  だが、躍起になって訂正する気にはならなかった。  蒸し暑い熱帯夜、色とりどりの花火、日傘を差した女性。違和感があって然るべきなのに、不思議と調和した雰囲気に呑まれていたのかもしれない。 「そうですか。では、良い夜を」 「はい。あなたも」  さっきよりも口角を上げた女性の後ろで、また一つ、花火が上がった。  翌朝、近くのゴミ置き場に、白いレースの日傘が捨てられていた。  持ち手の部分が木目調のそれは、随分と使い込まれた様子で、よく見ると少し破れているようだった。  ――最初で最後の、夜なので。  昨晩の女性の声が聞こえた気がしたが、多分、空耳だったのだろう。 了
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!