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「……また減ってる」
わたし・黒井桐は、口紅のキャップをパチンと閉めた。
この頃、自宅用の口紅の減りが早い。ただし、自分で大量に使ったつもりはない。わたしのメイクはナチュラルが基本だ。
それじゃあ、なぜか。
家族の誰かが使っているのだ、無断で。
キャップを開けたり閉めたりしてパチンパチンと音を鳴らしながら、そのリズムに合わせて、組んだ足をブンブン振った。こうしていないと、考えているうちにエアコンの温かい風に誘われて眠ってしまいそうなのだ。
(……日中家にいることが多いのは、おばあちゃんと、執筆中の父さんと、弟の柚と、犬のひまわり。確率が一番高いのは、時々メイクして出かけるおばあちゃんだけど、わざわざこれを使う必要はないよね)
口紅のケースのお尻には、「For Metal Allergy」と小さく書かれている。この言葉があるメイク道具以外で、わたしはメイクをすることができない。
一方で、おばあちゃんには必要がない言葉だ。
「……全員に聞き取りしてもいいけど、それじゃあ、おもしろくないよね」
わたしは悪役のようにニヤッと笑い、部屋を出て行った。
翌日、大学の講義が休校になったわたしは、家のすぐそばにある紅茶がおいしいカフェにいた。北欧の家をイメージにした温かい室内で、ジンジャーティーを飲むのは、寒い日のお気に入りの過ごし方だ。
そんなリラックス空間で、わたしは、片手に持ったスマートフォンをチラチラ気にしていた。
普段はこんなお行儀の悪いことは絶対にしないけれど、今日は仕方がない。作戦のためだからね。
「さて、誰が来るかな」
そう呟いた時、スマートフォンに映し出されているわたしの部屋のドアが開いた。両手でガッとスマートフォンを掴む。
「……へえ。そうなんだ」
「――観念しな、柚!」
勢いよくドアを開けると、「うわあ!」という悲鳴と、「キャンッ」という犬の鳴き声が上がった。
わたしと同じ色の口紅をひいた顔が青ざめていくのも気にせずに、ズンズンと弟の柚に歩み寄る。
ウェルシュ・コーギーのひまわりは「なんだ、きりちゃんか」という顔をして、柚の足元でまた寝ころんだ。
「き、きりちゃん……。だ、大学は?」
「午後の休講は休講になったの。柚こそ、何してるの?」
石のように固くなったまま黙っている柚の勉強机をのぞき込む。
ライト付きの三面鏡が置かれた机の上には、下地にファンデーション、チーク、ルースパウダー、アイシャドウ、ビューラー、マスカラ、それから、わたしの口紅がごちゃごちゃと並んでいた。
「口紅無断使用の犯人は、柚だったんだね。別にこっそり取っていかなくても、素直に言ったら貸したよ?」
柚はパッと顔を上げ、「ほ、本当に?」と目を輝かせた。
「今回のことは許さないけどね」
「う……。そ、そうだよね。……ごめんなさい」
柚は顔をうつむかせ、膝の上で両手を握りしめた。
わたしは口紅をひょいと手に取り、パカッと音を鳴らしながらキャップを開けた。
「高いんだよ、この口紅。金属成分が直接肌に付かない工夫がしてあるから、わたしらみたいな金属アレルギー持ちでも使える分」
「……知ってる。だから、借りたんだ。自分で買った口紅だと、唇がヒリヒリして、ただれてきちゃって」
「わたしほどじゃないけど、柚もアレルギー持ちだもんね。合わないのを使い続けたら唇に良くないよ」
わたし、柚、母さん、父さん、おばあちゃんの五人で構成された黒井家の中で、金属アレルギーじゃないのは、おばあちゃんだけだ。
このアレルギーが原因で、大変なことは結構ある。
例えば調理器具。フライパンは何かテフロンかセラミックが塗装されたものじゃないといけないし、鍋は土鍋がメインで、匙やフライ返しは全て木製かシリコン製。
それから金属製のアクセサリーも、ほとんど付けられない。特に汗をかく夏は、金属と汗が反応して、肌が真っ赤になってしまう。
さらに、大学生になって一番困ったのは、メイク道具だ。大学生になると、メイクをする友達は急激に増える。そんな中で自分だけしないわけにもいかず、わたしも最初は肌に合わない化粧品で無理やりメイクをしていた。でも、肌は素直で、どんどんボロボロになっていってしまった。
そんな時に、今使っているメイクブランドに出会った。「金属アレルギーの人でも使える」というコンセプトの元、肌をいたわるメイクを展開している、心強い味方だ。
しかし特別な技術を使っているらしく、値段はかなり高い。講義の合間に、毎日のようにアルバイトをして、ようやく買える代物だ。
「……きりちゃんが、がんばって働いて、買ってるのは、わかってたんだけど。その分、貸してって、言いにくくて……。ちょっとならバレないかもって思って、借りてた」
「意外と気がつくもんだよ。わたしはこんなにほじって使ってないよな、とか、リップブラシの目が粗いな、とか」
柚はイスの上でどんどん小さくなっていった。
相当反省しているようだ。
きっと後ろめたさもあったんだろう。わたしの部屋に忍び込んだ時の柚は、泣き出しそうに見えた。
わたしは柚の机の縁に腰を乗せ、柚の顔を優しく持ち上げた。
柚は黒目をブルブルと震わせたが、目をそらそうとはしなかった。
「……そんなに怯えなくていいよ。なんていうか、勝手に使ったことよりも、一言言ってくれなかったことが許せないの。同じに聞こえるかもしれないけど、使われたことじゃなくて、コソコソされたことが嫌だったってこと。……意味、分かる?」
柚は掴まれたままの顔を縦に動かした。
「……わたし、柚とは仲がいいつもりだったし。柚に頼まれたら、できる限りのことをしたいと思ってるから。信用されていないような気がして、ショックだった」
柚は弾かれたように立ち上がり、わたしの手を握った。足元にいたひまわりがビクッと震えた。
「そ、それはおれもだよ! 黙ってて、本当にごめんなさい。きりちゃんのこと、おれだって大事に思ってるのに、悲しませて、ごめん……」
柚に泣き出しそうな様子はもうなかった。瞬き一つせずに、真っ直ぐにわたしを見つめ、心からの言葉を伝えてくれていた。本当に悪気はなかったんだ。
「……じゃあ、大学生になった柚に、口紅買ってもらおうかな。来年からアルバイト解禁されるでしょう?」
いたずらっぽく笑うと、反対に柚は満面の笑みで「うん!」と答えた。
「――そういえば、どうして犯人がおれだってわかったの?」
柚はひまわりを抱き上げ、自分を落ち着けるために、ゆっくりと撫で始めた。ひまわりの方はちょっとめんどうくさそうな顔をしている。
わたしも手を伸ばして、ひまわりの頭をホリホリと掻いた。
「ペットカメラを部屋に置いたの。最近、受験が終わって柚が家にいることが多いから、ひまわりと一緒に過ごしてるでしょう。すっかり埃をかぶったペットカメラを有効活用してあげたってわけ」
ひまわりと目が合うと「へえ、頭いいね」と言いたげな顔をしてきた。
「なるほど。きりちゃんには敵わないなあ」
そう言って情けなく笑う柚は、メイクがすごくうまかった。
大きな目や、きめの細かい肌、形の良い唇をよく理解して、うまく使っている。
わたしは、なぜ柚がメイクをしたのかは聞かなかった。この会話の流れでも柚が話さないということは、まだ聞くときではないと思ったからだ。
いくら仲の良い姉弟でも、相手に無理をさせて良いわけではない。
(……まあ、ちょっと寂しいし、怒ったついでに聞いちゃってもいいけど。無断使用がバレて、驚き疲れただろうしね)
柔らかい柚の髪をそっとなでると、柚はうれしそうに目を細めた。かわいい弟だ。
「……ここのブランド、口紅の展開色多いんだ。今度一緒に買いに行かない?」
「行きたい! でも、行ったら欲しくなっちゃいそうだなあ……」
「わたしが買って、一緒に使えばいいじゃん。ちょうど新しいのが欲しかったんだ。もうちょっと冬っぽい色のやつ」
「本当に! やった! ありがとう、きりちゃん!」
同じ色の唇で無邪気に笑う柚が、いつか自分からメイクをした理由を話してくれたらいいな。そしたら今回のことも許してあげよう。
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