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「もちろんその人のことを大切に思ってた。私のことはもちろん、あなたのことまで彼は考えてくれたから。でもね、私の気持ちに彼は不足を感じたらしいの。彼は若かったから、何か焦りを感じたのかもしれない。でも、彼が感じたのは間違いなく不安だった。私はそれを解消できなかったの。おまけに私は、そのつきあいが終わってもさほど傷つかなかった」  私はなぜか母の気持ちが分かった。 「そんなことがあって、ああしょうが無いなって思った」  そっか。そういうことか。越えられないんだ。父に対する思いよりも。 「いつか、私と同じような思いを抱えた誰かと一緒に過ごすことはあると思う。大切な思い出はそのままに、今を一緒に過ごせる誰かと穏やかに余生を送るって感じで。もうどうしようも無いのよ。だって知ってしまったんだもの。無かったことに出来ない」  そして、やり直すことも取り戻すこともしない。大切だからこそ、今後一切関わりをもたない。  口にはしなかったけど、私がお腹にいるときに母が自分に誓ったことなんだろう。  母は、手の中のグラスの残りを飲み干した。 「香那の存在が私を支えてくれるの。大切な人との時間を証明する唯一の証だから。香那がいなかったら夢でも見ていたような、そんな時間だったから。香那を諦めなかったことは、間違いだらけの私の人生の中の、唯一の正解よ」  そうかな?  本当にそう思って良いのかな?  “間違いだらけ”って、一体なんのことだろう? 「自分勝手な思いで産んだのかもしれない。でも、あんな状況でも、私の体の中であなたは生きてた。だから、どうしても産みたかったの。ごめんね。身勝手で」  私を満たす思いは悲しみじゃない。当時の母の気持ちは、想像も出来ない。頼る人はいなくて。苦しいくらい悲しくて、不安で。  そんな状況でも、母は私という命を守ってくれたんだ。 「あなたは、たぶん私に似てる。気の強さで押し隠しているだけで、人を気遣って自分のことは後回し。でもね、諦めたり手放したりしなくていいの。本当に、大切なら。香那には幸せになって欲しい。幸せを掴んで欲しい」  この短期間で3人目だ。  栞に、父に母。  幸せになってって、まるで私が今、幸せじゃないみたいに。  でも、心から祈って願ってくれてるんだ。  母は父のことを語り、私は気付けば口に出すことも出来なかった智也と陳君のことを語り、夜は更けた。  話すのは今だけ、明日目覚めた時には、全部水に流そうって何回も確認しながら。  家中の酒類が尽きて、私たちは寝ることにした。その時にはもう4時近かった。  目覚めたとき、私は何を思うかな?  陳君への答えは、まだ見つからない。
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