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6時過ぎだったけれど、まだ外は明るい。夏場のカナダの昼の時間は長い。門限もない自由なアパート暮らしだから、出かけても問題は無い。
“香那はどこに住んでるの?迎えに行こうか?”
“私は××駅近くに住んでいます。出かける支度をしたいから、少し時間を貰えると助かるかな”
“それなら、大学の西門に7時半に集合。メールのタイムラグがじれったいから、会ったらLINE交換しよう”
“OK。着いたら連絡します”
積極的だなあ、なんてのんきに考えてしまった。陳君に対する答えを、私は用意できなかったのに。
嫌いではない。
でも、好きなわけでもないと思う。
ただ、一緒にいる時間は楽しくて、居心地が良い。そして、智也に対する思いは、未だに何も変わっていない。
変化があるとすれば、私の存在意義みたいなものに対する不安がかなり解消したこと。だから、心に余裕ができたのかもしれない。
色々考えても、私の気持ちはよくわからない。いい加減な気もするけれど、陳君に会ってみないとわからないな、と思った。
ただ、陳君に会って話がしたい。文化や語学だけでなく、身の回りで起きる些細な出来事について、以前のように語り合いたい。
部屋の片付けを終えて、シャワーを済ませていたから、既に部屋着だった。楽なワンピースに着替えて、カーディガンを羽織る。髪はアップにしていたからこのままでいいや。軽くお化粧を済ませて部屋を出た。
物価は安いし、治安もいい。日本人が少ないこの地方都市は、私のふるさとみたいだ。
まだ明るさの残る町を歩いた。賑やかな通りの横に公園のような広大な敷地があり、レンガ造りの大学の建物が並んでいる。歩きながら建物を眺めるだけでも情緒を感じる。
五分ほど前に門に着くと、彼は既に私を待っていた。背の高い彼の姿が遠くからもはっきりと分かった。
“香那!”
懐かしい。
有気音のKの発音。陽平のサ行にドキドキするという栞の話を聞いて、何ふざけたこと言ってんの!と言ったことを思い出した。
いや、ありだね、それ。
陳君の私の名を呼ぶその音は、日本人の発音と少しだけ違う。
“陳君!”
駆け寄ってきた彼が、なぜか急に立ち止まった。私も彼の反応が不思議で首を傾げた。すると、彼は困ったような表情で教えてくれた。
“何それ?ちんくんって”
思わず吹き出した。やっぱり変なのか。そして、彼が口にした“ちんくん”は聞いていてとてもおかしい。
ふざけてるみたい。一応、事情を説明することにしよう。
“答えを出すために、考えている間あなたのことを思い浮かべるでしょ?呼び名が必要になって、【陳君】って”
“考えてくれるのは嬉しいけど、なんか変な感じ。ChenWeiかWeiにして”
“言えるようになったら”
彼は、少し長めの髪をかき上げてから俯いた。
“どうしたの?”
“反省と後悔をしてた”
“どうして?”
“会ったらこう言おう、とかこうしたいと思ったことがあったのに、自分でぶち壊しにしたから”
私は思わずまた吹き出した。
“【ちんくん】って呼び方のせい?”
声に笑いを含んでしまうし、きっと目も口許も笑ってる。
彼は目元に笑いを含ませたまま、ふて腐れたような口調で言った。
“そう。【ちんくん】が全部悪い。・・・香那”
その声に私は彼の顔を見上げた。
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