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 この6週間は、大学付属の語学学校で学ぶ。  午前中が教室での授業。午後は色々なカリキュラムがあって、町に買い物に出かけたり、大学生とディスカッションしたりする。  希望で受講できるフランス語の授業も、午後に設定されている。当然、私は受講することにした。座席指定では無いのに、いつの間にか定着した隣の席の彼もそうだ。  ここでの成績が証明となって、長期留学に繋がる。日本に戻っても、長期留学の課題や準備に追われるはず。  何も考える暇も無いくらいに。  そうだ。  今まで休む暇もないくらい忙しかったから、面倒なことを考えずに済んだんだ。  気持ちを切り替えるために、寮のざわざわした空間から離れることにした。大学地下のレストランに向かおうとすると、通路で声を掛けられた。 「今から食事?良かったら一緒にどうですか?」  また、日本語で話しかけてくるあの男だ。  本当に偶然出会ったらしく、声を掛けてきたくせに驚いた表情だ。 “偶然ね。私はそんなに食べないからすぐに出るけど、それでも良ければ” “もちろん”  何か察したのか、英語で答えてくれた。特に共通の話題も無いから、今日の授業の感想や週末の課題について話した。言葉遣いに軽さを感じてしまう彼だけれど、学ぶ意欲は高く、熱心なことはよく分かった。 “香那は優秀だね”  努力を重ねてるだけだ。ずっと。  私が名乗ってから、彼は私のことを“香那“と呼ぶ。帯刀(たてわき)は言いづらいらしい。他の留学生も、彼を真似て私を香那と呼ぶようになってきた。 “あなたのことはどう呼んだら良いの?” “chenでもweiでもどちらでも” “お友達はどう呼ぶの?” “色々だよ”  あんまり、特別な呼び方をしたくはない。本当は、“香那”と呼ばれるのも落ち着かない。  その理由に気付いてはいるけど、突き詰めて考えたくはない。 “香那は、今よりも更に言葉を話せるようになったら何をしたいの?”  そこを聞かれると困る。  実は、思い描けずにいるから。本当は、絵本の翻訳の仕事をしたい。でも、それだけで生活するのは難しいし、成功するのも難しいこともよくわかっている。だから、今は語学を学ぶこと自体が当面の目標になっている。 「迷ってる」  何も考えず、日本語で答えてしまった。 「選択肢がたくさんあるんだ?」 「理想と現実と夢と…」    “過去“と言いかけて、慌てて口を噤んだ。 “もっと上達したいの。それから具体的に考える“ “目標があれば、もっと変わるのに”  その通りだ。でも、それを決めるのが難しい。  手に届く目標は、すぐに達成してしまう。本当の願いはいつだって叶わなくて、願うことすら辛くなるから。
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